P51初来襲…昭和20年4月7日 08.5.27 加筆改訂
昭和20年3月下旬、硫黄島にP51約120機の進出が確認された。これに伴い、陸軍航空審査部では急遽、各防空戦隊に対して、鹵獲したP51Cを利用した教導教育を実施した。
福生に最も近い244戦隊が第1回目に選ばれ、4月1日 (戦隊幹部の日誌による)、黒江保彦少佐操るP51が調布に飛来して、3式戦相手の単機戦闘演習が実施された。しかし、2番目以降の戦隊を巡る前の4月7日午前、P51はB29に随伴して来襲してしまうのである。
この日1000頃、帝都に来襲したP51は約30機 (ほぼ同時刻、名古屋地区には約90機)でしかなかったが、第10飛行師団指揮下の邀撃機のうち、自爆、未帰還は11機(他に海軍9機)に達し、244戦隊でも河野、古波津両少尉の体当りを含む5機を喪失した(但し、このうちP51によると推定されるのは2機)。
また当日は、所属不詳の双発高練も調布付近でP51に喰われて結核病院の中庭に墜落、乗員7名が戦死している。
実機教育は、244戦隊以外には間に合わなかったとは言え、P51の来襲が予想されていたにも拘わらず、これほどの損害を生じたのは、P51の戦闘能力が我が方の想像を遥かに上回っていた証とも言えるのだが、2月の艦載機来襲の教訓は生かされなかったのだろうか。
因みに、20年3月下旬〜4月初旬の新聞紙上には、硫黄島へのP51進出と同機来襲の可能性を指摘し、戦爆連合に対する警戒を呼びかける複数の記事が掲載されおり、更にP51Dの性能判断についても、航続距離「3200キロ」と、実に正確な数字が発表されているのだから、尚更である。
一部に、
<当日は小型機来襲は予報されておらず、また当時は、航続距離の関係から来襲機種をP38と想定していたため、各邀撃機がシルエットの似たP51を3式戦と思い込んで接近し、逆襲された…>
とする説もあるが、これでは、前述のように既に新聞で公表されている事実を当の防空部隊が知らなかったことになり、あり得ない。
一方、飛行第53戦隊こんごう隊 酒井道雄軍曹 (機上無線)の回想では、状況は次のように記されている。
<その日の当初の情報では、戦爆連合で北上中との事で、我が戦隊には出動はかからぬものとして飛行機は掩体の中にあった。処が其の後、B29のみとの訂正が入り、53戦隊警戒戦備が発令された>
このために53戦隊は急遽出撃準備に入ったが、離陸直前にP51、4機が来襲して機銃掃射を行い、複戦2機が炎上して整備隊員が戦死する被害を生じたという。
酒井軍曹は更に、
<それにしても、情報網の不備なことは何たる事なのか、八丈島電探がはじめに捕捉し報告して来た情報を変更した根拠は何だったんだろう。小型機も大型機も区別出来なかった報告の方を師団司令部は信頼したのではないか>と記している。(陸士60期HP)
つまり、当初八丈島のレーダーは「戦爆連合」との正確な情報を掴んでおり、これが各戦隊にも伝達されていたが、何故か途中から「B29のみ」との誤情報に変わってしまったことになる。しかしこれにも、酒井軍曹の述懐のように釈然としないものが残る。
P51について一週間前に教育を受けたばかりの244戦隊も、この日の実戦では大いに苦戦した。戦隊長編隊も窮地に陥り、僚機に付いたばかりの松枝友信伍長は、世田谷区喜多見の多摩川原で戦死を遂げた。また、市川忠一中尉の僚機、木原喜之助伍長機も被弾発火して、木原伍長は落下傘降下した(人員無事)。
小林戦隊長自身は、たまたま近くにいた市川中尉の掩護を受けて危機を脱したと言われるが、逆に3式戦をP51と誤認した海軍機の執拗な攻撃を受けるなど、さんざんな結果であった。実はこの後、戦隊長機を攻撃した海軍機もまた調布飛行場に不時着して来て、憤慨する小林戦隊長との間で一悶着あったと聞く。
参考 20年4月1日の状況について 『空の男 ジェットパイロットの記録』黒江保彦著/光文社1957年 より
私が彼とはじめて会ったのは、鹵獲したノースアメリカンP五一ムスタング戦闘機を操縦して、調府(ママ)飛行場の彼の部隊にたいし、戦闘法の訓練に行ったときであった。
それまで内地の各基地を回ってみた私は、名にしおう小林部隊の志気はどうであろうと、調府に着陸したのであったが、最初からすさまじい気魄(きはく)に打たれるものがあった。
彼は全搭乗員と整備員を集めて、定時五分前集合を力説して、烈々とした注意をぶっていた。隊員の前に仁王立ちのこの隊長は、汚れた飛行服にパラシュートの縛帯をつけて、いかにも野戦的な隊長としてのたくましさがみなぎっていた。
他の基地では、若い指揮官がソファーにひっくりかえり、新しい飛行服でいばるだけで、はたしていくさの先頭に行く気概があるのだろうかと疑われるようなところもあったのに、この部隊に関するかぎり、戦力の中心は彼であることが一目で見抜かれた。
そして空中戦の訓練になった。一機ずつ、飛燕(三式戦)が上空から、私のP五一に向かってかかってくることにしてあった。
最初に来た一機が、前上方一〇〇〇メートルほどのところから、ひっくりかえって背面突進で突っ込んできた。P五一の快速何するものぞ、逃げるなら逃げてみよ、といった気魄十分のこの機は、私がどう逃げようと、空中分解も起こしかねないムチャなスピードで追ってきた。これがやっぱり彼であった。
訓練はもうこの隊長機の迫力を見ただけで十分であった。勇将のもと弱卒なしと言うけれど、空中戦はとくにその感が深いのである。