敗戦八日市


制号作戦

 昭和20年2月中旬以降、大本営は本土決戦に備えた航空戦力温存策をとり、空襲の際にも全く申し訳程度の邀撃しか行なってこなかった。しかし、7月に至って激しさを増す一方の空襲が戦闘飛行部隊の士気を阻喪させ、国民の厭戦気分を増大させる懸念が高くなった。また、この空襲自体が敵の本土上陸の先駆けである可能性も出てきた。

 そこで大本営は航空総軍に対し、航空戦力の運用を一元化して、敵大型機に対しては徹底した邀撃を実施するため、必要なとき必要な地域へ航空戦力を集中させるという、「制号作戦計画」の発令を命じた。これにより航空総軍司令官は、7月10日午前0時をもって指揮下各部隊に制号作戦を発令した。しかし時既に遅く、制号作戦は実行に移される機会を逸したまま敗戦を迎えることになるのである。


244戦隊八日市へ

 制号作戦に関する総軍命令により、10日、244戦隊は小牧への転進を命ぜられ、知覧を離れた。戦隊は大刀洗、防府を経て小牧に到着したが、更に八日市への転進を命ぜられ、「そよかぜ」は13日、「とっぷう」は15日、八日市に着いた。また、小林戦隊長、三谷整備隊長ら幹部は連絡と休養のため一旦調布に戻ったが、18日夕刻、本隊と合流した。戦隊長は、8月6日にも調布へ戻っている。

 整備隊第2小隊長鶴身祐昌中尉以下の先遣隊は、重爆を使って空路先行するはずであったが、天候不良のために急遽鉄路に変更した。しかし途中、空襲に遭って足止めをくい、小牧に着いたのは1週間後、既に本隊は八日市へ去った後だった。

 本部副官川田静二郎中尉や斎藤紀一軍医中尉らも空路知覧から防府へ移動し、防府からは列車で小牧へと向かった。途中、大阪で、かねて行ってみたかった「星ヶ丘茶寮」を訪ねたが、空襲によって跡形もなく姿を消していた。
 彼らは15日夜、小牧に着き、55戦隊へ転属した松本敏男少尉の実家に一泊。そこで、先着していた「みかづき」白井長雄隊長らと再会し、翌16日、八日市の本隊に合流した。

 整備隊主力150名ほども鉄道で飛行隊の後を追ったが、当初、樋口少尉以下70名ほどの隊員が知覧に残留した。これらの隊員のうち、半数は器材を持って更に大刀洗へ移動、終戦まで同地で待機した。知覧では、都城に派遣されていた人員も合流して、約30名が終戦を迎えた。

 整備隊の一部が九州に残っていたのは、戦隊が八日市での戦力回復後、8月中に再度南九州へ戻り、調布から前進してくる特攻諸隊と共に敵機動部隊に突入すると想定されていたからである。鶴身中尉は、同期の第3小隊長杉山信男中尉と、「本隊を見送ったら、我々も残った5式戦に乗って跡を追おう」と誓い合っていたそうだ。

 元々、整備隊は最小限の人員しか随行していなかったが、各地への分散によって八日市の本隊でも人手が不足してしまった。そのため、出動が下命されて操縦者が機上で待機していても機付兵が現れず、業を煮やした操縦者が自ら転把を回して発動機を始動してしまうことさえもあった。

 飛行隊も、全力が一度に転進したわけではなく、一部は知覧に残留し、数日遅れて本隊を追った。また、それでも残った5式戦は、八日市から操縦者が出向いて空輸を実施したので、終戦時、知覧に残存していた機体は皆無であった。
 その中の「そよかぜ」北川幸男曹長と山隅伍長は、7月15日、2機編隊で知覧から大刀洗へ向かう途中、熊本県御船町上空でグラマンの奇襲を受けて北川曹長は戦死を遂げた。北川曹長の遺骨は19日、八日市の本隊に届き、通夜が行なわれている。だが、本件については、米軍側には戦闘としての記録は存在しないという。


最後の空戦

 7月16日昼頃、P51約100機が東海地区飛行場を攻撃した。八日市飛行場に展開したばかりの244戦隊では、「そよかぜ」が邀撃に出動し、交戦した。

 「そよかぜ」隊長生野文介大尉と僚機戸井
(どい)巌曹長は、数十機のP51群に包囲され協同で2機を撃墜したが、三重県一志郡上空で戸井曹長は被弾自爆した。次いで生野大尉も左肩と左膝下に被弾負傷して、落下傘により降下した。付近住民たちは畑中に降りた大尉を敵と思い込んだらしく、大勢が遠巻きにして見守るだけであった。怪我で身動きのできない大尉は、堪らずに「オーイ、日本人だ!」と叫んだ。
 八日市飛行場では、2機未帰還の事態に、急遽「とっぷう」も出動したが、既に敵機は引き上げつつあり、交戦には至らなかった。

 戸井曹長は大正7年4月、愛媛県中島町生れ。旧姓宮脇。入営前は、満州に渡って床屋の修行をしていた。飛行第58戦隊から昭和17年1月、下士官操縦学生第89期に合格し、熊谷陸軍飛行学校、台湾の第106教育飛行連隊を経て大刀洗飛行学校の助教となり、20年4月、244戦隊に配属となった。夫人は、その年の1月に長男を出産しているが、父子は遂に一度も対面の機会を得なかった。

 「そよかぜ」は生野大尉の負傷入院により、先任将校である小原伝大尉が隊長代行に任ぜられ、以後の指揮を執った。
 第11飛行師団司令部は更なる損失を防止するため、この日以降244戦隊に対しては、小型機に対する邀撃の禁止を命じた。しかし、度々の敵機来襲に際し機体を秘匿して出撃しない状況は、血気盛んな操縦者たちの不満を募らせたと言われる。

 7月25日、この日、師団司令部を欺く戦隊教練名目で出動することは、部下たちからの意見具申を受けた戦隊長が前日の段階で決断していたようである。
 戦闘終了後帰投すべき機動飛行場も、日本海側の三国と決められた。八日市は報復を受ける可能性が高いからである。

 早朝0550、警報の発令と共に各隊は離陸し、八日市飛行場上空で演習を行いながら敵機の侵入を待った。このとき出動したのは戦隊全力ではなく、16〜17機である。
 「みかづき」の木原喜之助伍長は、機上で出撃命令を待っていたところ、市川忠一大尉がやって来て、意外にも「おまえは出なくていい」と告げられた。師団命令に違反して出撃した者は処分を受ける可能性が高いために、戦隊長を批判し一線を画していた白井隊長は下士官を編組から外し、将校だけで出撃する判断を下したのだった。

 戦隊は定石通り上下3層に別れて待機していたが、突然グラマンF6F、13機が低空で侵入して来た。戦隊は上位から有利な体勢でこれを攻撃し、10機撃墜(内不確実4)、3機撃破の戦果を報じた。
 この戦闘中、「そよかぜ」隊長代行小原伝大尉は1機を撃墜後、余りに激しい接近戦闘のため、敵機と衝突して機外に投げ出され戦死を遂げた。小原大尉の壮烈な戦死の状況は、八日市飛行場で戦闘を見守っていた多くの将兵に記憶されている。

 小原大尉は将来を嘱望されていた卓抜な戦闘操縦者であり、ここまでに少なくともB29、6機撃墜を記録する戦隊のエースの一人だった。彼の5式戦には、13個の撃墜(破)マークが描かれていたらしい。
 彼は真面目で純情な好青年だったが、とにかく寡黙なことでは夙に有名で、白井大尉は彼の写真に、「一日中話をしません」と、はんば呆れながらメモしている。

 僚機として常に行動を共にしていた藤井正軍曹は、「おとなしい方で、人一倍の部下思いでした。私の生涯を通じて忘れられない人です」と回想する。
 なお、隊長は負傷入院、隊長代行小原大尉も失った「そよかぜ」は、「みかづき」の市川忠一大尉を新たな指揮官として迎えた。

 「とっぷう」の生田伸中尉は、超低空で逃走する敵機を執拗に追跡していたが、極限的超低空のため、畑中の藁の山に尾輪を引っかけて地面に激突し、戦死した。

 小原大尉と生田中尉の部隊葬は7月27日に執行されたが、この頃のことについて、生田中尉の兄利治の日記には次のように記されている。利治は、当時三重海軍航空隊(予科練)の教授で、津市に居住していた。

◇七月二十日 伸が帰ってくる。今、八日市にいるらしい。酒を飲みながら話を聞く。又そのうち九州へ帰るらしい。一泊して翌朝帰る。
◇八月四日 竹田五郎中隊長よりの私信によれば、七月二十五日六時三十分、敵F6Fとの交戦中接地、壮烈なる戦死を遂げた様子、戦闘機乗りとして敵機との交戦中のことであり、本望だったろう…。
◇八月十八日 小林部隊より下士官二名、伸の遺骨、遺品を持ってこられる。
 非常なる超低空で敵を追撃中、藁の堆積に尾輪をぶっつけ即死を遂げたとのこと。
 「かような情勢からいつどうなるか分からないので、今のうちお渡しする。盛大な慰霊祭の行なえないのは何としても残念である」との部隊長よりの言葉が伝えられた。二名は泊っていく。
◇八月十九日 陸軍部内の話など聞いているうちに神谷軍曹(空中勤務者)が来て夕方まで話がはずむ。
◇九月二日 伸の遺品全部入手。

 この戦闘による戦果は、終戦間際にあって他に例を見ない快挙であったが、命令違反のそしりは免れず、軍上層部では「軍法会議もの」という空気が強かったと言われる。
 この事情について小林戦隊長は、戦後に記した手記(『B29対陸軍戦闘隊』所載)の中で

 
案の定、軍の首脳部から
「全軍的な企図を暴露するものである」
 と怒られ、軍法会議に回されるか、降等処分は免れないという空気だった。もちろん、そうしたことは私も覚悟の上だったので、その夜は痛飲祝杯をあげた。
 その夜中、電報班の者がどこかの電文を傍受したといって連絡にきた。聞いてみると、なんと天皇陛下から御嘉賞の言葉があったというのである。
 しかしその事件以来、軍の参謀が来て私のそばを離れない。
 以来終戦まで、私の翼は折れたまま、ついに飛ぶ機会はなかった。
 と記している。

 8月14日朝、「とっぷう」と「みかづき」の2隊、計十数機は、敵大型機邀撃の命を受けて八日市飛行場を出撃した。
 竹田大尉によれば、「みかづき」は、「敵影を認めず」との判断で先に帰投してしまったが、「とっぷう」は竹田隊長が大阪方向の遥か彼方に敵影らしき反射光を認めたため、「もう少し様子を見よう」と待機していたところ、生駒山上空付近でP47の奇襲を受けた。
 この攻撃により、しんがりの8番機を務めていた玉懸文彦曹長が被弾自爆して四条畷に墜落、戦隊最後の戦死者となった。玉懸曹長の遺体は、戦隊本部の大野増三少尉らによって収容された。

 玉懸曹長は大正10年11月、岩手県金田一の生まれ。昭和18年春、下士官操縦学生第91期生として244戦隊に配属された。
 彼はユーモアのあるユニークな人柄で、「みかづき」時代、ピストの前に転がっていた土管に水を張り、夏場の即席風呂を造ったのも彼だった。しかし19年秋、東京第2陸軍病院入院のために戦列を離れて、初期の対B29邀撃戦には参加できなかった。

 当時の藤田戦隊長には、「この非常時に不謹慎な奴だ。戻ってきたら処罰する」と、言い渡されていたという。だが、20年に入って部隊に復帰した時には小林戦隊長に代わっており、小林戦隊長は、「今は一人でも多くの操縦者が必要な時だ。今後気を付けるように」と不問に付してくれた。
 彼は、「いい人が戦隊長に来てくれたよ」と喜んでいたそうだが、終戦を目前にしてあっけなく死んでしまった。


玉音放送

 8月15日正午、244戦隊員は全員整列して玉音放送を聞いた。だが、雑音が多くてよく聞き取れず、何を言わんとしているのか、ほとんどの隊員には理解できなかった。
 「とっぷう」の平沼康彦少尉らも放送を聞いたあと、たかをくくって麻雀に興じていた。

「どうせ、ソ連が参戦したから頑張れ、と言っているに決まっているさ」
 ところが、そのうち段々と外の様子が慌ただしくなり、「日本は負けたんだ」という声が耳に入ってきた。
「負けた?…馬鹿野郎、なに言ってんだ」
 2〜3日前から、戦隊幹部の間には敗戦の情報が入ってはいたが、大半の隊員たちにとっては寝耳に水だったのである。

 「そよかぜ」の斎藤昌武少尉、「とっぷう」の古波津里英少尉ほか下士官3名は、8月9日より佐野飛行場に出張して航空本部主催によるロケット弾攻撃講習に参加していたが、終戦の報を受けて15日午後、急遽八日市に帰還した。

 八日市に配置されていた教育部隊では、ヤケを起こした少年飛行兵たちが練習機で自爆騒ぎを起こしたり、飛行場大隊幹部が物資を持ち出したことに憤慨して殴り込み、刃傷沙汰に及ぶなどの混乱もあったが (この際、誤って無関係の人物を斬りつけてしまったと言われる)、244戦隊の隊員は、精神的葛藤はともかくも総じて静かに敗戦を受け入れた。

 整備隊には武装解除作業の任務が残っていたため、復員までには時間がかかった。三谷整備隊長のところへは、「早く息子を帰して」と、部下の父親から手紙が届いたりもしていたが、除隊を待ち切れずに脱走した兵隊もいた。
 整備隊第3小隊の大竹全次郎兵長は、配備されたばかりの新造5式戦2機を機密保持のため、ガソリンをかけて消却するよう命ぜられた。これは、5式戦2型と考えられる。黒煙を上げて炎に包まれた飛行機の姿は、今も彼の瞼に焼き付いている。

 三谷隊長は、九州に残してきた数十人の部下のことが気になり、市川忠一大尉操縦の高練に乗って知覧まで向かおうとしたが、途中で発動機が故障し、滑空で小月飛行場に不時着した。同地で修理を依頼したが、「九州の飛行場では、敵機が降りられないよう滑走路に溝を掘っているらしい」との情報を得て、九州行きを断念した。

 知覧、隈之庄、大刀洗残留の整備隊には、16日、志鎌達一少尉らが輸送機で各地を回り、「現地解散」との隊長命令を伝達してはいたが、行き違いがあり、小熊勉一等兵ら大刀洗の器材班は命令を知らずに整備器材を貨車に積んで鉄路八日市に向かった。

 混乱の中、空腹に耐えながら八日市飛行場に辿り着いたのだが、既に復員は始まっていた。
「バカヤロー!戦争が終ってからこんなもの持って来てどうする気だ」
 怒鳴られて、即日除隊となった。小熊一等兵は、度々当番兵に付いた白井長雄大尉に別れの挨拶に行った。白井大尉は「おまえには世話になったが、何もやれるものもないなぁ。済まんな」と、言ってくれた。

 空中勤務者は、厚木航空隊事件の余波もあって要注意人物と見なされていたため、多くの地上勤務者より一週間ほど早い、8月23〜24日に復員を命ぜられ、小林戦隊長の「飛行機を呉れてやるから、どこへでも飛んで行け」などという彼らしい言葉に送られて、八日市飛行場を後にした。

 「みかづき」の木原喜之助軍曹は、少年飛行兵の先輩で同郷の小長野昭教曹長から耳打ちされた。
「俺たちは軍偵に乗って帰る。何とか鹿児島までは行けるだろう。手はずはできているから…」
 たいそう自信ありげな口振りだったのでアテにしていたのだが、案の定直前になって雲行きが怪しくなり、8月23日、二人で満員列車に乗り込んで帰郷する羽目になってしまった。

 九州に入ってから鉄橋を渡るときに、「列車を軽くしないと橋が落ちるから…」と言われ、荷物を積んだまま乗客全員が降ろされた。橋を渡り終わって列車に戻ってみたら、なんと自分の荷物だけが忽然と姿を消していた。
「しまった。盗まれた!」
 ずっと市川忠一大尉の僚機として飛び、同期生中最多の800時間を誇っていた彼だったが、このとき、大切にしていたパイロットとしての記録書類一切も失ってしまったのだった。


終戦処理

 8月30日朝、244戦隊は復員式を執行した。僅かに残った隊員たちは、最後に涙で君が代を斉唱し、戦隊は栄光の歴史を閉じた。だが小林戦隊長ら幹部には、まだまだ仕事があった。244戦隊に、八日市飛行場の管理任務が与えられてしまったためである。
 この任務を遂行するため、翌8月31日午前10時、雨のなか、戦隊幹部を基幹とする「八日市飛行場監視隊」が結成され、ゴールキー大尉率いる占領軍部隊への引き継ぎが終了するまで同地に留まることになった。

 整備隊長三谷庸雄大尉は、八日市に占領軍部隊が到着する当日、大阪の師団司令部へ報告に出向いたが、「トラックで京都の街中を走っているとき、米兵がジープに芸者を乗せてドライブしているのを目撃して、初めて敗戦を実感した」と語っている。

 接収され、焼却処分される、かつての駿翼たちの最期を見届けた小林戦隊長と三谷整備隊長が復員し、身重の夫人が待ちわびる調布の我が家へ戻ったのは、秋も深まった11月19日のことだった。
 調布へ戻った小林戦隊長は、部隊を支援してもらい親とも慕っていた調布町の有力者宅を復員の挨拶に訪ねた。だが、門は閉ざされ、対面さえも拒まれたという。人心の、信じ難いほどの変わり様だった。

 最後に、斎藤昌武少尉が敗戦直後に記した所感を掲げる。

 五月初旬、沖縄作戦参加ノ為調布出発、大刀洗西飛行場(四日在)知覧飛行場ニ行ク。徳之島付近マデ進行ス
 特攻直掩デ数多ノ同期生ニ会ス。生駒、佐伯少尉等然リ
 生駒は113振武、佐伯は55振武)

 六月六日午後、ョ田、佐々木少尉出撃ス。我之ガ直掩ノ任ニ当ル。午後四時頃突入、戦果大ナルモノノ如シ。我ガ戦友二人皇国ノ大義ニ生ク、アゝ壮烈ナルカナ
 知覧ニ居ル間、隈ノ庄、都城飛行場ニモ出張ス
 七月下旬、小牧転進ノ命ニヨリ小牧ヘ行ク。同月八日市転進、邀撃ノ任ニ当ル。7月25日、F6Fトノ戦闘特ニ面白カリシ

 8月9日ヨリ佐野ニ出張、八月十五日終戦ノ大詔ニ依リ帰隊。
 昭和20年8月15日ヲ以テ大東亜戦争終結、敗戦ス。臣タルモ何ヲ感ズ。言葉ニ出ズ
 8月22日除隊ヲ命ゼラレ、敗戦シ生キテ帰ル我、死シタル方ヲ喜ベリ。残念〇〇(判読不可)。
 アゝカナエテ運命ナリ。今マデ戦死セル者、特攻隊員ニ何ヲ以テワビル。言葉ニ表ハレズ


目次へ戻る