敗戦から占領まで…その3


進駐前夜

 第10飛行師団の山本少佐は、司令部飛行班が調布飛行場南地区(戦争末期には下石原八幡神社)に配置されていたこともあって、戦中は毎週のように調布に来ていた。彼は終戦処理の仕事もやや一段落した8月末、馴染みの日本郵船飛田給錬成場に息抜きにやって来た。
 その時の思い出を、著書『B29対陸軍戦闘隊』のなかでこのように記している。

もはや飛行機には乗れぬのでオートバイで甲州街道を走った。郵船錬成場は調布飛行場に隣接していて、野球場も庭球場も25メートルプールもあった。野球場は戦争中飛行場の一部となってしまった。(中略)
 中野五郎氏は故伊東己代治伯の五男で、いかにもスポーツマンらしいきわめて明朗な人であった。(中略)

 残骸となった身をみそぎするつもりで、中野氏とともにプールに浴びた。
「郵船もほとんど船が沈んでしまって、隅田川の渡船から始めなきゃなりませんよ」
 と錬成場長は語るのであった。
 明後日の進駐をひかえて、空にはグラマンF6Fが飛び回っていた


 
日本郵船飛田給錬成場は、昭和17年春、同社錬成部長中野五郎の尽力によって開設され、当初敷地面積は2万坪を擁していた。アルプス山荘風の本館内には、空母隼鷹に改装された豪華客船新田丸の一等船室インテリアをそのまま移した部屋もあった。

 昭和19年夏、調布飛行場の第3次拡張に伴い、その用地の半分を失うことになったが、中野場長は買収を頑として拒否して、師団の兵站補給担当参謀であった山本少佐を困らせた。
あのオヤジには手を焼かされたなァ」後年、山本氏が筆者に語った言葉である。
 そこで第10飛行師団は、苦肉の策として中野場長を佐官待遇の軍属として徴用し、事実上接収した形でその目的を達したのだった。


空からの第1陣

 航空母艦からやって来た米軍の先遣隊が調布飛行場に降りてきたのは、9月2日の午前10時頃だった。
 前日も偵察のため、5〜6機のF4Uが飛来して場周飛行とタッチアンドゴーをしつこく繰り返していったのだが、この日も同様に各機が数度ずつタッチアンドゴーを行った後、やっと着陸した。しかし全部ではなく、一部は警戒のための場周飛行とタッチアンドゴーを続けていた。F4Uは一人乗りなので、この日には複数の輸送機も沖縄から飛来したはずである。

 降りて来た米軍の指揮官は、空を睨んで整然と並べられた日本の飛行機群に恐怖感を覚えたらしく、「これでは修復すれば飛行が可能ではないか」と、更に機体を飛行不能な状態とすることを要求し、既に「武装解除完了」との判断で、ほとんどの人員を復員帰郷させてしまっていた残務整理班を困惑させた。

 そこで米軍指揮官は、東地区にあった機体の一部を現調布中学校西側の旧司偵隊エプロン付近に、その大部を天文台下の射朶と飛行場北端の立川航空廠調布出張所付近に集積するよう命じた。だが、たった40人ほどの人員で百数十機(推定)もの機体を短時間に移動しようというのだから大変である。
 最初は1機1機人間が転がして行ったが、とてもそんなことでは間に合わないということになって、一編に何機かをロープで繋ぎ、それをトラックで牽引するようになった。

 とにかく急ぐので、機体同士ぶつかろうが転覆しようが一向におかまいなし。それはひどいものだった。この時の作業に加わっていた第1総軍司令部飛行班の田村和男は、
もし、パイロットや整備兵が自分の愛機をあれほど乱暴に扱われるところを見たら、とてもではないが耐えられなかったろう」と述懐している。

 特に射朶は狭いので、正に飛行機が溢れる超過密状態となって、3式戦の何機かは野川沿いの田んぼに転落してひっくり返った。この手荒な移動によって大半の機体は破損し、無傷の機体はゼロと言って差し支えなかった。

 その後、米軍飛行部隊の本格使用までに大部分の機体は西地区へ片付けられた。更に20年末、米軍水耕農場の建設工事開始に伴って飛行場からも追い払われ、西武是政線の線路沿いの一角に哀れな姿を晒しながら、くず鉄業者による解体を待った。
 荒鷲たちへの処刑は急ピッチで進み、翌21年の夏頃までには、彼らはその姿を悉く消したのである。


占領

 20年9月5日付の朝日新聞には、「立川等へ続々進駐」との見出しで次のような記事が掲載されている。
東京都内への連合軍進駐は三日以来引続き行なわれているが、その後の進駐状況左の通り(中略)
 四日午前二時半北多摩郡調布飛行場八十名、同九時同飛行場へ一〇〇〇名


 第1総軍司令部飛行班の田村和男は、その朝まで飛行班の事務室に残っていた。同飛行班で最後まで残っていたのは、彼を含めて二人だけだった。
 調布飛行場に着いた米陸軍第8軍の兵士たちは、皆ライフルを構えてトラックからバラバラと飛び降りてきた。それを見た二人は、恐怖に震え上がって一目散に逃げ出した。愛機の前で撮った写真などの私物は、まだ事務室の机の引き出しに入れてあって最後に持って帰るつもりでいたのだが、慌てて飛び出したのでそのまま置いてきてしまった。

 二人は、飛行場内にはまだ日本の兵隊がいるものと思って安心していたのだが、実はとっくに飛行場外の補助施設に退去していて、二人のあとに日本人は誰もいなかった。
 田村和男は18年春以来、1日の休みもなく自宅から自転車で通勤、1日1円(そこから食費60銭を引かれていた)の日給月給で軍偵の整備に勤しんできた。青春の真っ只中を調布飛行場で過ごしてきた彼だったが、飛行場通いもこの日が最後となった。

 調布町には多くの軍人とその家族が住んでいたが、彼らは部隊から支給された自決用の青酸カリを用意し、雨戸を閉め切って米軍部隊の進駐を息を殺して待ち構えていた。しかし、町中に入ってきた米軍兵士たちは、ガムを噛み口笛を吹きながら楽しそうに雑談をしており、悲壮な覚悟で待ち構えていた彼らを拍子抜けさせた。

 米第5空軍の第8写真偵察飛行隊と第82偵察飛行隊が、沖縄の本部と伊江島から調布に着いたのは、それから3週間以上後の9月28日のことだった。
 第8写真偵察飛行隊は、P38ライトニング偵察型を十数機装備する偵察専門の部隊であり、第82偵察飛行隊はP51ムスタングを装備して偵察と共に戦闘も行う部隊だった。両隊とも、B17、B24、B25、B26、C47など大型の機体も少数機保有していた。

 飛行部隊の到着までの間、米軍歩兵部隊は東地区のエプロンに数十基構築されていた土手状掩体を全て撤去したり、多数の日本軍機を飛行場隅へ片付けたりして、飛行場を米軍機の使用が可能なように整備していたのである。

 9月16日付朝日新聞によれば、
進駐連合軍使用建物施設を追加。帝都進駐連合軍から終戦連絡中央事務局に対し次の建物および施設の申し込みがあり、15日決定した。(中略)立川、調布、多摩各飛行場
 とある。これにより、調布飛行場は9月17日、正式に接収された。10月15日現在の駐留人員は、調布飛行場および倉敷飛行機工場に500名であった。



 昭和20年9月、占領後、調布飛行場北東端の立川航空廠調布出張所エプロン(第131独立整備隊も隣接)に
集められた、飛行第52戦隊の4式戦。配備されたばかりの新造機で、未だ戦隊マークも描かれていない。
 昭和18年春に建てられた航空廠の木造小型格納庫4棟は空襲によって破壊されており、後方に残骸が見える。
 2009年、遠景に写る農家で、4式戦の外板の一部 (左胴体砲部分パネル)が発見されたと新聞で報道された。


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