敗戦から占領まで…その2


混乱

 前述のように15日には何の命令も届かなかったが、16日になると、第10飛行師団の参謀山本茂男少佐が調布飛行場を訪れて各戦隊、飛行場大隊等の全将兵を招集し、作戦行動中止の命令を下達するとともに、「承詔必謹でゆくのだ」と訓示した。山本少佐はこの後、自ら軍偵を操縦して隷下各飛行場を回った。
 山本少佐は、柏飛行場での訓示を終えて調布に帰投する途中、東京上空でパイロット人生最後の宙返りを行ったという。

 17〜18日頃には、厚木の海軍戦闘機が調布飛行場上空に繰り返し飛来して、「海軍は戦うぞ」「調布の部隊よ立て」といった檄文が書かれた伝単を撒き散らしていった。一方、米海軍機も速やかな停戦降伏を呼び掛ける伝単を撒きに来て、飛行場には日米双方の伝単が乱舞する不思議な光景が見られた。

 厚木海軍航空隊や陸軍の一部部隊は徹底抗戦を主張していたが、調布では、西地区の司偵特攻隊で騒動があったと言われ、20日、100式司偵1機が行方不明となって2名が死亡と判断された事件以外には、特段の動きはなかった。

 しかし、整備隊の一部少年飛行兵は刺激を受けた。244戦隊の整備隊には、本来は戦闘分科なのだが、乗るべき飛行機を失って地上勤務に回された少飛17期生が20数名配属されていた。
 彼らは仮泊所へ押しかけ、特攻隊の将校らを
貴方たちは、勇ましいことを言っては酒ばかり呑んで遊んでいたが、イザとなったら何もやらんのか」と吊し上げた。

 死を目前にした(と思っていた)特攻隊の将校たち(下士官は原則として外出できない)の連夜の遊び方には尋常でないものがあり、ある隊長が、行状に批判的な同期生に殴られる事件も発生していた。また、拙劣な着陸によって生じたオレオの油漏れなどまで、整備兵の責任に転嫁する隊員もいた。特攻隊への同情から黙認、許容されていた軽い軍紀違反やその行状に対する反発も、敗戦とともに噴き出したのである。

 17日には、一切の軍書類の焼却が行われた。個人の日誌までもが焼却された。井野少尉は、「写真だけは残しておこうと、慌てて胸ポケットにしまった」と記憶している。これは他の基地も同様である。

 飛行戦隊は現役兵が多く、また大半が専門技術者であることもあって、敗戦後も混乱は少なく規律も保たれていた。しかし、召集兵が多かった飛行場大隊となると、そうはいかなかったようだ。
 大隊の将校が営門を通ろうとしたとき、衛兵が暑さに上半身裸になっているのを見咎め、注意した。その途端、衛兵は空に向けていきなり拳銃を発射、驚いた将校が一目散に逃げ出すという出来事もあった。
 その直後、今度は特攻隊の一団が営門を通ろうとした。すると同じ衛兵が、今度はちゃんと上着を着て敬礼で送ってくれた。戦争が終わっても、特攻隊員は「命知らず」だと、一目置かれてもいたのである。

 部下が上官に意趣返しすることを、「上官暴行」と言ったが、飛行場大隊ではこれも頻発した。飛行場大隊長も、バケツを被らされたうえ、兵隊にさんざん殴られたという噂も飛んで、一時はパニック状態だった。大隊には召集の老兵が多く、皆一家を構えた社会人であったので、軍隊内での仕打ちに対して、より恨みが高じていたようである。

 もう一つ書いておかねばならない。それは、軍物資の横領、隠匿についてである。
 山本少佐によると、内地の飛行場大隊というところは、補給物資を扱う立場にあったところから元々不正が発生しやすく、戦中に処罰された軍人も少なくなかったという。意地が悪いことから特攻隊員らが「B29」「ビッコ大尉」と呼んで嫌っていた調布の大隊長にも、かねて軍事郵便貯金にまつわる黒い噂があり、「懲らしめてやろう」と、草間弘栄少尉らが彼を高練に乗せ、アクロバット飛行で脅かしたことさえあった。

 噂は実証されてしまったと言うべきか、彼は部下の下士官2名に命じて大量の毛布、被服類をトラックに積み込ませて持ち出した。それを知った特攻隊長の一人が激昂して、「あいつ、ぶっ殺してやる」と軍刀を持って本部に押しかけたのだが、彼は気配を察していち早く姿を消した後だった。
 なお、この飛行場大隊長は、師団司令部によって直ちに更迭された。代わりに司令部からは中佐が派遣されて混乱を鎮め、以後調布飛行場の管理にあたった。

 隊長からそんな具合だったから、一般の将兵の中にも物資の持ち出しは横行していた。晩秋、八日市での終戦処理を終えて調布に戻った小林戦隊長が、かつての部下の家を尋ねたところ、自分が戦隊長室で愛用していた「戦隊長」と書かれた椅子が置かれており、驚いたという話もある。
 そのような中、整備隊の被服庫にも狙いをつけた族が押しかけたが、かねて警戒していた整備隊功績係の野畑庄一准尉は、抜刀して彼らを威嚇し、略奪を阻止することに成功した。

 当時は、ほぼ全ての軍物資が飛行場外に分散秘匿されていたため、付近住民の中にも燃料などを盗み出す者もいた。一方、出征留守家庭に対しては優先的に米の配給が実施されており、営門には、部隊の貯蔵米を受け取るべく、リヤカーを引いた婦人たちが集まっていた。


復員

 8月18日、戦隊本部庶務係で神奈川県出身の飯島菊太郎軍曹が除隊復員となった。復員第1号である。
 これは、進駐連合軍の第1陣が厚木に到着するということから、神奈川県出身の兵士たちをいち早く帰郷させて、治安維持に当たらせる意味合いからとられた処置であったと思われる。逆に、厚木付近に配置されていた既存の陸軍部隊は県外に移動させられ、その一部は三鷹町の明星学園に駐屯した。

 次に復員したのは、進駐に際して最も危険人物と見られていた戦闘機のパイロットたちだった。下士官は23〜24日、将校は24〜25日に大半が復員している。これは内地各基地ともほぼ同様である
 第163振武隊の光本喜久雄伍長は、天野完郎隊長に涙で別れを告げ、調布をあとにした。不運にも終戦直前の8月8日に殉職した松田高行伍長の遺骨も、後藤虎男伍長の胸に抱かれて熊本県の故郷へと帰って行った。

 一番遅かったのは第164振武隊の隊員たちだった。これは隊長柴山信一少佐が特攻各隊中最先任であったために、基幹飛行隊としての責任上、第164振武が最後まで残ったものらしい。
 特攻各隊の解散除隊を見届けてから、井野隆少尉、田中一夫少尉ら同隊の予備役将校が復員した。井野、田中両少尉は26日朝、新宿発の中央本線で、それぞれ三重と滋賀の故郷に帰った。
 復員の際、利用する鉄道路線は旅客を分散させるために軍から指定されており、中部地方から大阪までの範囲は中央本線、大阪以西の場所へは東海道本線を利用するよう決められていたのである。

 この時点で残っていた操縦者は、柴山信一少佐と部下の小嶋五郎軍曹、第232振武隊長小倉友助中尉、それに大貫明伸大尉の4人だった。
 26日夜、将校3名に対して「トラックで直ちに館林飛行場へ移動せよ」との命令が出され、3人は荷物を入れた落下傘袋一つを持って調布を離れた。だが館林に着き、近くの寺に一泊したところで何故か解散となった。

 わざわざ館林にまで行かされた理由は、当人たちにも知らされなかった。柴山少佐によれば、当時続出していた将校の自決を防ぐためではなかったか…ということだが、真相は不明である。
 大貫大尉は館林で復員となったが、柴山少佐と小倉中尉はこの後、更に下館飛行場への転進を命ぜられている。下館では大した仕事はなく、予備役編入となって復員したのは、9月20日のことだった。

 調布で最後に復員となったのは地上勤務者であり、28〜30日には、ほとんどの将兵が飛行場をあとにした。そして、東京近郊の出身者を中心に1個班(40名位)程度の人員が残務整理要員として残され、占領軍の進駐を迎えた。

 実は小嶋五郎軍曹も、この中の一人だった。占領軍からは連日、「今日はこれを出せ、明日はあれを出せ」と兵器、弾薬類の供出命令が出された。護身用に持っていた拳銃も取り上げられて、次第に丸裸にされていくような心細さだった。
 彼が復員したのは九月下旬のことだったが、その間、仲間たちは次々と逃げ出して行き、自分はこれから一体どうなるのか…という不安と、抜け殻のような虚脱感とで、茫然自失の日々を送ったという。


最後の離陸

 敗戦直後には、各部隊は原則として戦闘以外の現任務の続行を命ぜられていた。したがって調布の各部隊も、基本的には敗戦前と変わらぬ状態にあって飛行機も飛ばすことができた。
 しかし18日頃には、先ず戦闘機の飛行が禁止された。これは、海軍厚木航空隊の反乱事件が波及することを防ぐための処置だったと思われる。しかし、まだ他の機種は飛行できたので、小嶋軍曹は世話になった整備兵らを高練に乗せ、飛行場上空の遊覧飛行などをして時を過ごしていたそうである。

 元々、調布飛行場設置の目的の一つには、陸軍高官の空路出張の用に供するということがあり、終戦直前の7月下旬に北海道視察を実施した阿南陸軍大臣も調布を利用している。
 敗戦直後には東京で重要会議が開かれたこともあって、各地から高官輸送機が調布に飛来した。自決した阿南陸相の後任に任命された北支方面軍司令官下村定大将も、23日朝調布に到着、直ちに市ヶ谷の陸軍省に向かった。同日には、参謀長会議に出席する将官らも続々飛来している。

 日本の降伏にあたって、その具体的案件を協議するため、陸軍参謀次長河辺虎四郎中将らの全権団が19日、海軍1式陸攻2機で木更津から沖縄の伊江島に向かった。一行は更に米軍機に乗り換え、マニラで降伏に関する重要文書を受領した。

 一行は20日、帰途についたが、乗機は燃料不足のために天竜川河口に不時着した。そのため翌21日朝、一行は浜松飛行場で急遽整備された4式重爆に同乗して調布飛行場に帰着したのである。
 一行が持ち帰った文書に基づいて、翌22日、武装解除が全軍に命令された。更に、24日1800をもって、原則として全ての日本国籍機の飛行は禁止されることになった。

 24日午後、参謀長会議を終えた第2総軍参謀副長真田穣一郎少将と中国軍管区参謀長松村秀逸少将を乗せた小型機(双発高練と思われる)が、雨の調布飛行場を離陸して広島へ向かった。これが、調布を飛び立った最後の日の丸機ではなかったろうか。


武装解除

 前述の降伏重要文書により、8月22日、飛行機の武装解除が命ぜられた。
 244戦隊ふるしま隊(留守整備隊)の一部30名は、8月1日頃から特攻機整備のため館林飛行場に出張していたが、終戦の報を受けて急ぎ調布に帰隊し、武装解除作業に取り組んだ。

 当時、飛行場内に常置されていたのは実物大のベニヤ製偽飛行機であり、本物は全て飛行場外に遠く離れた掩体や樹林内の隠し場所に置かれていた。この偽飛行機は上空から見ると本物と区別が付かず、敵機はよくこれを狙ってくれたので、本物の飛行機には大きな被害を出さずに済んだのである。

 作業は、先ず飛行機を飛行場内に一堂に集めることから始められた。これは、部隊自身が機体の員数などを把握して作業を効率的に進めるためと、米軍が写真偵察によって日本軍機の数や武装解除の進捗状況を確認し易くするためだったと思われる。

 折から房総半島に接近中であった小型台風による大雨の中、整備兵たちは皆裸になって最後の仕事に取り組んだ。半地下式掩体の中に入っていた機体はこの大雨で水没し、手押しポンプを運んで行って排水しなければ機体を出すこともできなかった。

 調布には、この当時百数十機以上の飛行機が置かれていたはずである。だが、これらは皆分散秘匿されていたので、一堂に会したのは初めてと言ってよいことだった。山本少佐も、予想外にたくさん出てきた飛行機群を見て、「こんなにあったのか…と驚いた」と、後年語っている。

 終戦当時調布に飛来し、置き去りとなった飛行機は様々で、中には海軍機さえもあった。この年の秋に撮影された写真にも複数の97式重爆や100式輸送機が写っているが、これらは前述の高官輸送任務で大陸などから飛来したものの、帰ることができなくなった機体かもしれない。

 武装解除作業は機関砲を降ろし、エンジンからは点火用の磁石発電機(マグネト)を外し、プロペラを外して完了である。
 整備隊員たちの飛行機に対する愛情は、パイロット以上だった。最後、いよいよプロペラを外す段になると、「さすがに涙がこぼれた」という。
つづく


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