敗戦から占領まで…その1


敗戦前夜

 昭和20年8月10日午前、調布飛行場の第161〜164振武隊隊員計24名に対して外泊帰郷の許可が出された。しかし、当時の鉄道事情では、期限までに帰隊可能なのは帝都近郊出身者のみで、多くの隊員は、船橋にあった有名割烹旅館「三田浜楽園」に一泊して自由な時を過ごした。
 この一斉の外泊許可は、通常、出撃あるいは前線移動の際に出されるものであり、隊員たちは「いよいよ、来るべきものが来た」と受け取った。

 未だ隊員たちの知るところではなかったが、前夜から急遽、一つの計画が動き出していた。8月9日夜、熊本の第30戦闘飛行集団司令部に、東京から大本営の大佐参謀が訪れ、当初8月21日に予定されていた作戦開始を、16日に早めるよう内密に指示したのである。6日、広島を壊滅させた新型爆弾が原子爆弾である可能性が高まったことから、和平つまり敗戦を受け入れる動きが国家上層部に強まることを、大本営が懸念したためだったと思われる。

 そこで第30戦飛集は、麾下の飛行第51戦隊(下館)、調布の飛行第52戦隊および第161〜164振武隊を早期に南九州へ転進させようとしたのである。
 『日本陸軍戦闘機隊』によると、51戦隊が九州転進の内命を受けたのは9日であり、8月15日夕刻までに健軍へ前進し、16日出撃予定の特攻隊を直掩すべしとの内容だったという。また52戦隊は、15日1200調布出発の予定であった。

 8月14日早朝、各振武隊長が244戦隊本部に招集され、留守隊長大貫明伸大尉から重要命令が下達された。
第161振武隊より第164振武隊まで4振武隊は、明夕1700出発。18日までに九州都城に集結完了すべし。行動の細部は大阪にて指示せられるも、目的とするところは沖縄敵機動部隊に突撃敢行なり

 5月初め以来、調布飛行場で錬成を重ねてきた各振武隊は、7月27日、大貫大尉より調布から都城までの航法および中継各飛行場の場周規則等の詳細説明を受け、28日には、訓練の総仕上げと言うべき三角航法(洋上航法)演習も終え、準備万端整えてこの時を待っていたのである。この洋上航法は、高度10メートル以下、波しぶきを受けながら飛ぶほどの実戦的訓練であった。

 10日、水戸近郊の実家へ最後の帰郷を済ませていた第162振武隊長二宮嘉計中尉は、14日夕刻、部下の太田少尉と一緒に何度か遊びに行っていた三鷹町の山田家を暇乞いに訪ねたところ、全く意外な話を聞かされた。
明日、重大放送がある。どうやら日本は負けたらしいよ
 二宮中尉は、
そんなはずはない。私は明日、前線へ行けと命ぜられています
と、思わずムキになって反論してしまったものの、不安が頭をよぎった。何でも、禁を犯して米国の短波放送を聞いている者がおり、そこからの情報だということだった。

 この家は陸軍将官の遺族宅なので、情報源は軍の可能性もあるが、あるいは家人が、調布町国領のYMCA憩いの家に設置されていた外務省情報局受信所と関わりがあったとも考えられる。
 この受信所では、開戦前に輸入されていた米国製全波受信機10台を使って米国帰りの二世約40名が24時間態勢で電波をワッチしており、ポツダム宣言を国内で最初にキャッチしたのも、この施設であったのだろうと言われる。

 大映多摩川撮影所は、「日活多摩川」と呼ばれた時代から244戦隊に対して熱心な慰問活動を続けていたが、6月の「最後の帰郷」のロケーション以来、特に親密になっており、14日夜、特攻隊員たちを招いて盛大な送別会を開催している。
 二宮中尉の部下である清住文明伍長は、長野県出身のために帰郷は難しく、郷里に電報を打って両親に調布まで出て来て貰った。14日夜、両親は調布町の旅館に泊まり、そこへ清住伍長が出向いて親子水入らずで過ごすはずであったが、当夜は一晩中空襲警報のサイレンが鳴り続け、一睡もできずに15日の朝を迎えた。


8月15日

 この日は朝から晴天で、灼熱の太陽が照りつけていた。隊員たちは、出発に備えて機体の点検整備に余念がなかった。
 二宮中尉は、最初で最後の長距離飛行に対する不安と、編隊長として確実に部下たちを引率して行かねばならない責任を感じ、念には念を入れた機体整備に朝から取り組んでいた。航法に対する不安から、特に磁気羅針儀の較正には神経を使った。
 当時、各隊長は110〜120時間程度、部下の特操2期、少飛15期生はそれを若干上回る程度、特操1期生は彼らの倍程度の飛行時間であり、編隊長が最も経験不足という、実にいびつな編組構成であった(操縦教育の開始が最も遅かったことによる)。

 第164振武隊の井野隆少尉は、朝、整備隊の藤田軍曹から「試験飛行をお願いします」との電話を受けて、飛行場西地区の掩体に向かった。広い飛行場を将校は、専らノーパンクタイヤを着けた自転車で移動していた。
 早速試運転を実施したが、途中から機体に震動を生じて爆音不調となり、遂には震動も激しくなり、とても落下タンクを満タンにしての離陸はできそうもなかった。戦友たちの飛行機が整備を終え、試験のために快調に離陸してゆく姿を眺めながら、全員揃っての突入が念願であったのに、自分は遅れて一人出発するのか…と寂しい思いに駆られていた。

 二宮中尉や井野少尉が整備に没頭している最中、「正午から重大放送があるので、全員正装して本部前に集合せよ」と指示があった。二宮中尉は、前日山田家で耳にした話を思い起こしながらラジオの前に立った。
 この頃、飛行場のエプロンには、特攻隊の出発を見送ろうとする付近住民や女学生らが続々と集まって来ていた。この人々もラジオの前に立って放送を聞いていたが、この中から突然嗚咽が漏れたのである。

 この時の模様について二宮中尉は、その手記のなかで次のように回想している。
玉音放送は聞きとりにくいもので、何を言われているのか理解し難いものであった。しかし私は「忍び難きを忍び」と言われたことから、これはと思った。昨夜の知人宅での話は嘘ではなかったのだな、と直感した。
 もしあの話を聞いていなかったら、私も何を言われたのか咄嗟には理解できなかったに違いない。事実、あの玉音放送は戦争を続けるため、国民に一層の奮起を望まれたものだと理解した人もいた位であった


 井野少尉も日誌に
最前列の隊長たちの頭が急にたれ、室内からすすり泣きの声が起こった。皆の肩が大きく波打ち鼻をすする音が激しくなった。最後列にいた自分も、やっと重大放送が、ポツダム宣言受諾の大詔であることを知ったのである。一瞬、気が遠くなりかけたと書いた。

 この日は何の命令もなかったが、特別攻撃隊長のなかで最先任であった第164振武隊長柴山信一少佐は、この放送の直後、乗用車で第10飛行師団司令部に向かい、司令部の参謀から「詔勅(降伏)は間違いないので、軽挙妄動することのないように」との指示を受けて帰隊している。各隊はこれを受け、それぞれの隊長の判断で出発を中止したものと考えられる。

 二宮手記は、更にこのように記している。
私は十五日の夜、甲州街道に出て民間のトラックを止め、無理矢理乗せてもらい宮城広場に行った。広場には玉砂利の上に平伏して皇居を拝している人の姿が一杯に広がっていた。
 死から生へ引き戻されたこの日の私は何を考えていたのか。今度こそ自分の番と思ったとき、私の前から死の影は去って行ったが、多くの先輩同僚の憂国の死を眼のあたりにしてきた私には、素直に生きたという実感を感じとることはできなかった。
 私は唯々玉砂利の上に黙然と座り続けた。ふと気がつくと夜はしらじらと明け始め、幾百と知らぬ人々の姿が靄の中に白く浮かび上がっていた


 戦時中は、道で軍服姿の将校が手を上げれば100パーセントの確率で民間のトラックが止まり、乗せてくれた。二宮中尉ら陸士出の将校たちは、軍の威光をかさに着たようなこの方法で外出し、電車に乗った記憶がないそうである。
 しかし、この夜は前日までとは打って変わって、何台もの車が二宮中尉を無視して走り去って行った。この体験は、中尉に敗戦の事実を痛切に感じさせた。帝国陸軍の威光も一夜にして地に落ちていたのである。


飛行第6戦隊

 調布を去ろうとしていた特攻各隊とは逆に、調布に向かっていた部隊もあった。朝鮮の大邱に配置されていた飛行第6戦隊である。
 飛行第6戦隊(隼魁第9102部隊)は、昭和13年に編成された飛行第6連隊を母体とする襲撃戦隊である。長らく第5航空軍隷下にあり、北支海州に配置されていたが、20年5月下旬、決号作戦準備発令とともに大邱に移動した。

 飛行第6戦隊は、8月15日付をもって第1航空軍(当時、東日本の航空作戦一般を担当)の指揮下編入と調布飛行場への移動を命ぜられた。
 8月15日、整備隊長大坪好夫大尉以下の留守隊を残し、広田一雄中佐率いる戦隊主力は保有機全部をもって大邱を出発、20日、調布への集結を完了した。

 詔勅を受けて派遣先の館林飛行場から帰隊した、244戦隊整備隊本部の岡部恒男上等兵は、重爆に分乗して調布に着いた6戦隊整備兵たちの交わす会話を耳にして、「朝鮮ではインフレが始まっているらしい」と感じたという。

 22日、「完全整備の上、占領軍に引き渡せ」との武装解除命令が下達された。武装解除作業を完了した8月25日、飛行第6戦隊は調布飛行場南地区で解散式を執行し、その歴史を閉じた。解散時の戦力は、99式襲撃機18機と推定される。


最後の飛行

 隊員たちの間では「ガンバコ (棺桶)」と呼ばれた、体当り専用機キ−115の装備を前提に編成された第232振武隊は、8月17日、中島喜久治少尉以下の隊員4名が、代替訓練機99式高練に分乗して最後の飛行を行った。翌18日からは飛行が禁止されるらしい、との情報を受けてのことだった。
 その前夜、仮泊所の中で井野隆少尉は、普段あまり話したこともなかった中島少尉から声をかけられた。
井野、おまえ、日本が負けたのに生きているつもりか?
 中島少尉は近所の畑からもいできたらしいキュウリを囓っていたが、眼はうつろで不気味でさえあった。

 翌日、井野少尉は中島少尉から高練への同乗を誘われた。だが、前夜の彼のただならぬ様子から危険を感じ、誘いを断った。すると中島少尉は、近くにいた同隊の山口虎夫伍長のところへ行き、
山口、乗るか?」と尋ねた。
 山口伍長は直立不動の姿勢をとった。
少尉殿、嬉しくあります
 彼は大きな声で元気よく答え、二人は連れ立ってエプロンへ向かっていった。それが、井野少尉が見た二人の最後の姿だった。

 中島少尉ら4人は、小倉友助隊長の「最後だから心残りのないよう、思いっきり飛んでこい」という言葉に送られ、高練2機で調布を離陸、高崎方面へ向かった。
 しかし、途中天候が悪化したために引き返し、2機は調布へ帰投すべく利根川沿いに飛行中であった。ところがそのうち、理由はわからないが、中島少尉機が突如超低空飛行に入った。僚機林弘之伍長機は100メートルの高度で中島機に追従していたが、中島機は突然、行田付近の田んぼの中に墜落、転覆した。

 調布では、「落ちたらしい」という飛行場大隊からの報告を受けて、大貫明伸大尉が高練を飛ばして現場に向かおうとしたが、発動機が不調で果たせなかった。
 翌日、小倉隊長や特操2期の飯田幸八郎少尉、草間弘栄少尉らは二人の遺体を引き取りに現地へ向かったが、事故現場付近の電線は中島機によって切断されており、墜落直前の異常な超低空飛行を裏付けるようであった。事故の真相は不明だが、中島少尉の言動などから、「自爆ではないか」と囁かれた。
 飛行機さえ配備されず、出撃の機会もなく終戦を迎えた第232振武隊であったが、この悲劇で幕を閉じることになった。
つづく


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