山下軍曹最後の帰郷 09.3.31


 昭和20年5月18日、当時筑後航空機乗員養成所本科生であった山下すなお(は、教官から「特別外出許可を出すから、すぐに家に帰れ」と告げられた。漢字が表示できないため、かなで代用
 八女の実家に戻ると、調布の百八部隊にいるはずの兄巍(たかし)が待っていた。前線へ向かう途中、整備のために大刀洗北飛行場へ寄ったのだという。
 17日午後、調布を発った244戦隊の5式戦計27機は、大阪
(大正)で一泊し、18日、大刀洗北に到着していたのである。
 二人は、もしやこれが最後かもしれないと、帰隊期限ギリギリの翌朝まで徹夜で語り合った。兄戦死の報せを受けたのは、それから半月ほど後のことであった。


 6月2日朝、知覧飛行場はF4Uコルセアによる空襲を受けた。しかし警報の発令が遅く、邀撃、直掩ともに実施されなかった。
 出動準備中であった244戦隊整備隊は、出撃中止の命令により飛行機を掩体に再び格納しようとしていた。そこへ突如F4Uが来襲したため、整備兵らは取りあえず直近の掩体の土手に身を寄せてやり過ごそうとした。F4Uは一旦何事もなく頭上を通過したが、その直後に急反転して反対方向から銃撃を加えた。

 これにより、整備隊第1小隊の小倉飛光兵長と宮本浩一等兵の2名が戦死した。このとき、整備隊第1小隊長田中武雄中尉も、5〜6メートルと離れていない所にいてこれを目撃していたが、小倉兵長は鉄兜に敵弾が直角に当ったことによる頭部貫通、また宮本一等兵は腹部貫通で、両者とも「見事な戦死だった」とのことである。

 宮本一等兵と同年兵であった整備隊第3小隊の小熊勉一等兵も、やはり近くでこれを目撃していた。動くと狙われるので「動くなよー!」と声をかけ合っていたが、恐怖心から少しでも身を隠そうと身体が動いた瞬間に射撃されてしまったのだという。
 この空襲では、第26振武隊の児玉直喜少尉
(特操1期)も0815頃、知覧飛行場東端に於いて銃撃による戦死を遂げている。

 翌3日、前日の轍を踏むまいと戦隊は早朝から出撃体制を整え、警報の発令と共に出動した。これが244戦隊の知覧における最初の交戦であるが、同地における本格的戦闘としては最初で最後と言ってもよい。
 この朝は上空で待機中に敵機群が侵入して来たため、戦隊は有利な体勢から攻撃をかけることができ、計7機撃墜の戦果を報じた。

 「とっぷう」竹田小隊の僚分隊(4機中の2機)を務める浅野二郎曹長と僚機玉懸文彦軍曹は、高度4500メートルで哨戒中、高度5000で南進する敵機群を発見し、これを攻撃した。
 先ず玉懸軍曹がF4U、1機を撃墜。次いで浅野、玉懸協同して1機を撃墜した。敵編隊も体形を崩して混戦となったが、浅野曹長も僚機と別れて単機、後上方から攻撃して1機を撃墜した。更に敵の僚機が右側方から攻撃してきたのを上昇反転でかわし、逆に急降下して後側方から攻撃、遂に3機目を撃墜した。

 浅野曹長と敵機との稀にみる空中戦は、知覧飛行場の直上で行われたため、大勢が手に汗握りながら観戦し、多くの将兵に「この飛行機さえあれば勝てる」との期待さえ抱かせた。浅野曹長には、この日の功績により武功徽章乙が授与されたが、彼の総合戦果はこれで撃墜10機、撃破7機となった。

 同じく「とっぷう」の生田伸少尉
(航士57期)は1機を撃墜したが、その敵機が万世飛行場近くの砂浜に不時着したのを見届け、パイロットが潜水艦による救出を期待して海へ逃げようとするのを威嚇射撃によって阻止した。捕虜となった米機パイロットは生田少尉との面会を希望し、その臨機応変な戦いぶりに敬意を表して自らの腕時計を生田少尉に贈ったのである。
 なおこの戦闘中、小林戦隊長も発動機故障により、万世飛行場に不時着している。

 この日の戦闘により3機が未帰還となった。「とっぷう」の山下巍軍曹
(少飛12期)、「そよかぜ」の本多一夫軍曹(少飛10期)同じく松本順次軍曹(予備下士9期)であった。

 とっぷう隊竹田隊長僚機の山下軍曹は、一旦燃弾補給に着陸した後、再度離陸して上昇中、上位からF4U、2機の攻撃を受けた。長機はこれを急旋回で回避したが、山下機は間に合わずに射弾を浴びた。同機は川辺町の畑中に墜落し、山下軍曹は戦死を遂げた。しかし、山下機を屠った敵機もまた、その直後に浅野、玉懸両機に撃墜されたのである。
 山下軍曹の5式戦は、戦後もしばらくそのまま土中に埋まっていたのだが、朝鮮動乱の際にくず鉄業者が掘り出して処分してしまったという。


 当時、第6航空軍司令部飛行班員として知覧飛行場に常駐していた同期の原文治軍曹は、山下軍曹との思い出を次のように綴っている
(知覧特攻基地にまつわる想い出)

五月中旬、飛行第二戦隊から連日送られてくる沖縄付近の空中写真は、敵艦船の増強が著しく、戦局いよいよ急を告げる状況を示していた。実際特攻隊は、知覧飛行場から出撃して沖縄近海の敵艦上空に至るまでの間、敵航空母艦から発進された艦載機の迎撃、待伏せにより、損害が増大した。そこで、陸軍航空の虎の子部隊、飛行第二四四戦隊が東京調布飛行場から、知覧基地へ展開することになった。戦闘機は特攻機の出撃と同時に飛び立ち、貴重な特攻機が沖縄上空まで無事飛行できるように直掩した。

 飛行第二四四戦隊の中に私の同期生山下巍軍曹がいた。彼と私は、昭和十七年四月熊谷陸軍飛行学校に入校し、同じ区隊で勉学に励んだ仲であり、同県人である。偶然にも戦闘指揮所前で再会し、なつかしかった。

 その夜(六月二日)彼が、私の部屋(三角兵舎)を訪ねてきてくれた。彼は、「俺は、帝都防衛のため調布飛行場にいたころ、B29三機を撃墜したんだ」と語った。その横顔に戦闘パイロット特有の精悍な顔つきを見、とても頼もしく感じた。
 「毎日の激戦で常時使用する、略帽(戦闘帽)に、二、三の穴が空き見苦しい、」と略帽のことを気にしていた。ちょうど私に手持ちがあったので、「俺の目の前でグラマンを撃墜したら、新しい略帽をやる」と、約束して別れた。

 翌六月三日、よく晴れ渡った朝、戦闘指揮所において川元参謀から、「敵艦載機襲来の情報をキャッチした。二四四戦隊を迎撃にあたらせる」との知らせを受けた。指揮所で待機していると、飛行場東側掩体壕に偽装して格納されていた戦闘機約三十機、偽装を外し二列横隊に洗び、その偉容をあらわした。

 決戦の時、正に到来、前列機が一斉にエンジンを始動した。隊長機から順次離陸、低空にて左旋回、脚上げ、急上昇、と戦闘隊独特の離陸である。後列の戦闘機が離陸するころ南の方角(開聞岳)から、米軍機特有の金属音に以た、爆音が聞こえて来た。空を見上げると高度約四千米上空に、ゴマ拉程の敵艦載機数十機が襲来した。一方味方機は如何にと見廻すと、先発機も敵に負けじと編隊を組みつつ高度を上げ、錦江湾上空に集結した。

 固ずをのんで見守るなか互いに接敵、喜入上空において敵味方入り乱れての空中戦が始まった。時に午前九時、互いに撃合う機関砲の曳光弾の閃光が、はっきり読みとれた。空中戦は四千米前後の高度のため、彼我の識別は困難で、エンジン全開の轟音と、砲弾の飛び交う音が聞きとれる程度であった。戦闘開始後、間もなく、被弾した戦闘機が、黒煙を吐きながら垂直に落ちて行くのもあれば、又空中爆発して火ダルマとなって落ちるものもあった。

 最初喜入上空で始まった戦闘も、次第に戦域を拡大し、知覧、川辺上空へと広がり、途中給油と弾薬補充のため降りて来る友軍機で、指揮所前は殺気立った。敵機は、沖縄近海に遊よく中の航空母艦から発進した艦載機のため、知覧上空での空中戦は三十分以上の戦闘能力はなく、途中燃料切れのおそれがあった。戦況不利な敵機は一機、二機と隊伍を組みながら、南方洋上へと離脱するのが見受けられた。

 ちょうどその時、川辺上空約二千米、彼我の識別ができる高度で、敵機を追尾する友軍機一機、手に汗を握る死闘が始まった。地上より多数の人が凝視する中、突如友軍機の後方から、敵艦載機が見る見るうちに大きく姿をあらわし、両翼から真赤な火線を発した。その瞬間、友軍機は一塊の火ダルマとなって墜落した。戦い終わり静寂がもどった飛行場で、還らぬ友軍機の確認が行われた。数機の損害の中に、最後の一機が山下機であった。ああ壮烈な戦死である。昨夜の略帽の一件が悔やまれてならない



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