馬乗り体当りの虚実 08.8.1


 昭和19年12月3日午後、B29、86機が中島飛行機武蔵製作所を爆撃した。四宮徹中尉率いる244戦隊はがくれ隊は8機が出撃し、うち3機が体当りに成功、対B29特攻隊の存在を天下に知らしめた。

 その一つ、中野松美伍長機は二度の体当り失敗の後、1530頃、印旛沼北方高度9000メートル付近でB29、12機編隊の最後尾機に対し後下方から接近。敵機の左昇降舵を自機の「プロペラで囓った」後、その敵機の背に乗り上げて、いわゆる「馬乗り体当り」を敢行したと報じられた。
 中野機はエンジンが被弾停止して滑空状態となったが、茨城県稲敷郡太田村の水田に不時着し、中野伍長は頭に打撲負傷したものの無事であった。

 それから四半世紀を経た昭和47年、菊池俊吉氏が撮影した大量の戦時写真群が日の目を見、そのなかに日比谷公園で展示された中野伍長機33号の鮮明な写真があった。それを見て、当時航空整備学生であった筆者は、狐につままれたような思いを抱いた。プロペラの破損状態(変形)が、ごく一般的な胴体着陸の場合 (プロペラは空転状態)とさして違わなかったからである。
 中野機は水田に不時着してつんのめり、逆立ち状態となっているので、その際にプロペラとスピナーが損傷するのは当然なのだが、写真を見る限り、不時着の寸前まで中野機には外見的異常はなかったものと思われた。

 中野機は、B29の左昇降舵を後下方から囓り取ったとされているのだから、それが事実であれば、その時点でプロペラは大きく損傷していなければならない。レバー全開であるから、損傷どころかむしろ一挙に飛散し、同時に飛行不能に陥って然るべきではないのか。
 にも拘わらず、中野伍長は非常脱出→落下傘降下することなく、高度を上げて馬乗りを敢行し、愛機を操っての不時着にも成功したことになる。

 これらを総合すれば、「不時着直前まで中野機のプロペラに異常はなかった=
敵機とは接触していない」との結論が導き出されても不思議ではない。

 では、証拠に欠けたにも拘わらず、何故、体当りと認定されたのだろうか?
 翌年1月27日の帝都邀撃戦において、当初、体当りの有力情報のあった服部克己少尉が、結局目撃証言が得られなかったために通常戦死として処理されたり、高山正一少尉が他隊の操縦者の目撃談が出てくるまで、体当りとして扱われなかった例が示すように、体当りの認定は厳格であって、通常は当人の自己申告だけで認められるものではないのである。

 ここで、当時の新聞記事に注目すると、馬乗り…の記事とともに、小林戦隊長の目撃談が目に留まる。
12月8日付読売新聞
十五時中ごろ、敵編隊の後方三十米の至近の距離から盛んに喰い下がっている中野機を見たが、次の瞬間よく見ると中野機が敵の背部にピッタリとくっついたまま飛んでいる。(中略)すると中野機は不意に上に出て、オヤと思う間もなく、反転して大きく機体を振動させたまま急降下しはじめた。間もなく敵機は黒煙を吐いたままフラフラと大きくゆれ、グングン高度を下げ、そのまま海上遠く鹿島灘へ墜落していった

 ところが、小林戦隊長自身の12月3日の日誌では、
(前略)<
邀撃ノ為離陸セルモ一撃ノ下ニ撃墜サル。発動機ニ受弾ス。予備機ニ依リ離陸セルモ高々度 (7500米以上との爾後の書き込みあり)ニ上レズ、銚子沖合ニ待機セルモ敵ヲ捕捉スルニ至ラズ
とあり、中野機が体当りを実行したとされる時間には、小林戦隊長はそれを視認し得る状況にはなかったと推察されるのである。
 となると、新聞に掲載された目撃談は事実ではない可能性が高まるのだが、おそらくこれは、隊長として部下を擁護する立場から発したものだったと思われる。
 しかしながら、この戦隊長の目撃談が中野機体当りの傍証と認められ、事実として認定されたのではなかろうか。

 もう一つ決定的であったのは、物的証拠である3式戦33号機が戦隊の手を離れてしまったことだ。
 本来、全ての事故機は戦隊が回収し、調布飛行場に運んで墜落原因を探求するのが通例であった。その結果によっては操縦者の功績が左右され、もしも機体に原因がある場合には事故調査報告書が作成され、関係各部隊に通牒したのである。

 実は、この武勇伝に疑念を抱いた戦隊員は少なからず存在した。三谷整備隊長もそれを口にされていたが、航空の専門家としては当然である。
 しかし、33号機は飛行場には運ばれず、隊員の眼に一度も触れることなく、12月16日から日本橋三越百貨店で一般に公開されてしまった。三越での公開は翌年1月末まで続き、2月には日比谷公園で展示。その後は、終戦まで新橋の帝国飛行協会 (飛行館)に展示されていたと伝えられる。

 更に、この武勇伝が既成事実化したのには、軍、新聞、一般国民いずれもが、帝都防空戦における英雄の登場を渇望していた背景があったと考えられる。軍としては、真相の追及よりも防空部隊の活躍ぶりを象徴する武勇伝を喧伝した方が国民世論から歓迎され、士気向上にも繋がって、はるかに得策だったのであろう。

 中野伍長は、翌20年1月17日付で陸軍武功徽章乙と表彰状が授与され、軍曹に特進したが、表彰状の文面には、「
最後尾機ニ対シ巧妙ナル体当リ攻撃ヲ敢行シテ其ノ尾部ヲ破摧シ自ラ亦不時着シテ…」とあるだけで、「馬乗り」については全く触れられていない

 中野伍長は1月27日の邀撃戦で、B29胴体に後下方より体当りを成功させたと報じられ、またも飛行機を操って生還している。これにより、他に例のない二つ目の陸軍武功徽章を授与されているが、本件については同日、他にも数件の体当り攻撃が実行されたため、中野伍長機に関する詳細な報道は見あたらない。また戦後、彼自身も二度目の体当りついての詳細は、語っていないようである。

 この二度目の体当りについても、
(1)一回目と同様、B29の強力な火網を破って後方から接近し得たのか?
(2)下方から体当りして中野機のプロペラ等は損傷しなかったのか?
との疑問が、当然湧いてくる。だが、彼は一度目の体当りによって陸軍のお墨付きを得て、既にヒーローとなっていたために深く追及されることはなく、当人の申告がそのまま受け入れられてしまったのではなかろうか。

 筆者は、本件について整備第2小隊長鶴身祐昌氏と論議を重ねたことがあるが、最後に鶴身氏が呟いた「彼もまた、ある意味で戦争の犠牲者だったのではないか…」との言葉が印象に残る。 


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