機付長必携 01.9.1/03.11.9

 昭和19年当時、244戦隊の整備兵は、一般現役兵の場合、「仏の4教、鬼の12教」などと言われた柏の第4航空教育隊と郡山の第12航空教育隊で、「特幹」と略称された特別幹部候補生1期は浜松の第7航空教育隊で、また、下士官候補者(下士候)や甲種幹部候補生(甲幹)は鈴鹿の第1航空軍教育隊で一応の基礎教育を受けて配属されてきたが、実体はほとんど素人に近く、戦隊での教育はスパナなど工具の使い方から始められた。

 因みに、12教から244戦隊に配属されたある整備兵は、
…南方への配属を希望していたので期待していたら、着いたところは京王線上石原駅で、がっかりした。営門を入ると、油まみれの整備兵が、我々を引率してきた伍長など無視して通り過ぎて行き、さすが一線の戦闘部隊は違う、と感じた。ただ、戦隊でのビンタは「鬼の12教」の比ではなかった… と回想している。

 試運転は機付整備兵の重要な日課である。空襲のなかった時代には、試運転も機体をエプロンにずらっと並べて豪快に行われたものだが、空襲が日常化して以降、試運転は個々の掩体の中で行われるようになった。通常の待機姿勢の場合、特に整備作業などなければ、朝一番と昼頃の1日2回程度回すのが普通だった。

 当時の点火栓は非常に質が悪く、毎日のように交換する必要があった。ハ40の点火順は1、8、5、10、3、7、6、11、2、9、4、12だったが、整備兵はこれを符丁に変えて覚えさせられた。このようなデータは、機種毎にあった「機付長必携」というガリ版刷りの手帳に書いてあり、日常の戦闘整備(今でいうライン整備)は、これ1冊を見ればたいがい間に合った。

 飛行機の地上滑走による移動は本来、操縦者の仕事なのだが、いちいち操縦者を呼びに行ってはいられないため、機付兵が乗って滑走させてしまうことも多かった。操縦席に座ると前方は見えないので、立ち上がって操ることもあった。機付の1人が翼上に立って方向を指示する方法もあったが、危険なために244戦隊では禁止されていた。1式戦のある部隊が調布に来たとき、その隊の兵がこれをやっていて案の定、地面に落ちて大けがをしたこともあった。

 前が見えないのと尾輪式飛行機の宿命である「ひっかけられ」のために、よほど慣れないと地上滑走は難しい。特に冬場は霜で地面がぬかるため、尾輪に泥が溜まって役に立たなくなり、機付兵が水平安定板を持ち上げなければ方向転換もできなかった。泥はペラの後流でも跳ね上がって機体の下側に大量に付着し、一見、特殊な迷彩塗装のようにも見えた。泥はラジエーターの中にまで詰まってしまうので、これを取り除くのは一仕事だった。

 ラジエーターと言えば、厳冬期には、冷却水の冷えすぎを防ぐためのカバーを空気取入口に装着することになっていた。これはフェルト入りの布地をキルティングしたものだったが、ミンクのコートと同じ保温性があると説明されており、これを機体に取り付けるとき、機付兵は、「いま、ミンクのコートを着せてあげるよ」と、愛機に話しかけながら作業をしたそうである。

 空襲が始まって以降、飛行機は主に誘導路で繋がった中島飛行機三鷹研究所に疎開させていたが、三鷹研究所が爆撃を受けたためにこれは中止され、以後は飛行場から離れた秘匿掩体や多磨霊園シンボル塔(噴水)周辺の松林に置かれるようになった。
整備兵たちは、飛行場東側松林(現調布中学校一帯)の中にあった半地下式兵舎の内務班で暮らしていた。彼らは朝、起床すると分隊毎に隊列を組み徒歩で、また電気分隊は多くのバッテリーをリヤカーに積んで飛行機が待つ掩体に向かった。ノーパンクタイヤを付けた自転車は将校しか使えず、兵隊はどんなに遠くても専ら徒歩だった。特に灯火管制下の夜間は真っ暗やみ。幽霊の噂も出た多磨霊園内での不寝番は嫌だったという。

 空襲警報などを知らせる手段としては、掩体毎にベルが設置されていたらしい。また連絡用の無線機も一応は置いてあって、毎日定時に「感どうか、感どうか、明どうか、明どうか、終わり、送れ」と試験をしていたが、いざという時には聞こえなかったりで、実際はほとんど役に立たなかったようである。

特幹1期生には前期と、3ヶ月遅れで入営した後期があり、244戦隊に19年10月配属された後期生は、柏の4教で教育を受けた。03.11.9

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