昭和37年 調布飛行場にて

 昭和37年、当時の調布飛行場で遊覧飛行を営業していた三ツ矢航空の前で。
 飛行機の翼下で子供たちが遊ぶなど、今では考えられない光景です。のんびりした時代でしたが、生きた飛行機に直に触れて育ったことで、どれほど愛着と憧れが醸成されたことか計り知れません。しかし翻って現代の状況は、全く逆のようです。

 子供の頃、私は調布辺りの風景が好きで、永遠に変わってほしくないとさえ願いましたが、もはやあの頃の面影はどこにもありません。
 現代の子供たちが老境に達したとき思い起こす、ふる里の風景とは、いったいどんなものなのでしょうか…私は寒心に堪えません。
 昭和後期から平成にかけての日本人は、営利と利便の追求に狂奔するあまり、取り返しのつかないことをしてしまったと思います。(01.6.22)




私の原点…拙著『陸軍飛行第244戦隊史』序文より

 私は昭和26年11月、東京都北多摩郡調布町で生まれた。
 調布飛行場へ初めて行ったのは、昭和36〜7年頃、日大の学生が作ったN58という軽飛行機がテレビで紹介され、その中に調布飛行場が登場したのがきっかけだった。

 当時の飛行場は米陸軍の管理下にあった。部隊は引き揚げたばかりで、広大な敷地には米軍人の古ぼけた自家用軽飛行機が数機置かれているだけの閑散としたものだった。だが、昭和31年に返還されていた北端の一角には、伊藤忠航空整備と三ツ矢航空の格納庫が建っていて「整備基地」という趣があった。小学生の私は日曜の度、そこへ飛行機見物に通っていた。

 返還の際に米軍が、有事には直ちに更地にできることを条件としたため、航空会社の事務所は粗末なバラックだった。このバラックの周りには事故機の残骸がいくつも無造作に転がっていて、独特の雰囲気があった。軍事基地のような高い金網で囲まれ、人を寄せつけない最近の飛行場からは想像もつかないが、翼の下で家族連れが弁当を広げ、子供が遊んでいた、あの頃の情景が実に懐かしく感じられる。あんな場所は二度と出現しないのではなかろうか。のちに航空整備士を志したのは、この体験が元になったと思う。

 飛行場の行き帰り、すでに空き家となっていた木造兵舎のそばを通った。そこは飛行場の明るい風景とは違い、何とも陰気な感じだったが、そこから見る大格納庫と給水塔の風景が何故か頭の片隅に記憶されているような気がして、懐かしさを感じるのである。理由は分からないが、それ以来、戦争のこと、飛行場のことは一日も頭から離れず今日まで来たことは確かであり、これが原点である。
 実はその兵舎は、昔「仮泊所」と呼ばれていた将校操縦者用の宿舎(戦争末期には事実上の特攻隊宿舎)だった。244戦隊の元隊員の人々や戦没者の人たちの多くが、この建物に縁があったことを考えるとき、不思議な地縁としか言いようがない。

 正直なところ、つい数年前までは自分自身が本を書くなどとは夢にも考えておらず、244戦隊は有名な部隊なので、誰かの手によって記録が出版されるものと確信し、それを待っていた。が、一向にその気配はなく、このままでは30年来の疑問を永遠に晴らせないのでは…と不安を感じ、しびれを切らして自ら乗りだしてしまった。

 平成2年に本格的調査を開始以来、不思議なことはいくつもあった。目に見えない誰かが、天の高いところから眺めていて指図してくれているとしか思えなかった。なかでも、かつての飛行場用地で、陸軍の飛行服を着て南西の空を静かに見通している大学生くらいの青年を一瞬目撃し、後日その人物が特定できたという体験は、我ながら信じ難いものだった。彼は、昭和20年6月、沖縄の海に散った特攻隊員だったのである。
 生まれて初めて出会ったこの出来事はショックだったが、長年会いたかった旧友に会えたようで嬉しくもあり、沖縄の海の底から40数年の歳月を超越して何かのメッセージを伝えに来てくれたものと確信した。彼が言いたかったことは何なのか考え続けたが、自分なりにこう結論してみた。
「予断や虚飾を排して実相を記録しろ…」と。

 だが、村岡戦隊会長が「自分も戦隊史を書きたかったが余りの資料のなさに断念した」と言われるように、戦隊に関する確たる資料は皆無に近く、作業は困難を極めた。それでもここまで来られたのは、天佑に違いない。
 「自分がやらねば…」という使命感が徐々に強まる一方、まだ多くの戦隊員各氏が健在である今日、244戦隊の一ファンでしかない人間が、おこがましくも「戦隊史」などと銘打って、さも見てきたようなことを書いていいものか…という疑念もつきまとい、果たしてどこまで実相に迫れたか自信はない。もしできることなら、特攻隊の彼にも感想を聞かせてほしいものだと思っている。
1995年夏 櫻井 隆

お世話になった方々 03.1.8

98年11月 刈谷、中山、加藤各氏

写真1 98年11月、調布で開かれた244戦隊会の後、拙宅での2次会にて。
左から刈谷氏(47戦隊)、中山氏(整備隊)、加藤氏(震天隊)ら。
刈谷氏は2002年11月7日、逝去されました。謹んでご冥福をお祈りいたします。


91年6月 戦隊長墓前にて加藤、三谷、松岡各氏

写真2 右から加藤氏(旧姓板垣 震天隊)、三谷氏(整備隊長)、松岡氏(本部)。
雨の多磨霊園小林戦隊長墓前にて。 91年6月


92年10月 仮泊所跡にて井野、草間、飯田各氏

写真3 調布飛行場仮泊所跡を再訪した元特攻隊員。右から井野、草間、飯田各氏
飯田幸八郎氏は、2002年11月13日逝去されました。謹んでご冥福をお祈りいたします



 調布飛行場と244戦隊史の調査にあたっては、実に多くの方々のご助力を賜りました。何の肩書きもなく、文章など学校の作文以来書いたことのない私が、ただの好奇心から始めた仕事に対して、航空の、そして人生の大先輩たちが本当に快く力を貸して下さったことは、驚きですらありました。

 よく、「何のために…」と問われたのですが、出版とか研究とか何の大義名分もない私には「わからない。ただ知りたいだけ」と答えるしかありませんでした。実際、自分でもよく理解できず、戦争のことが常に心から離れないのは苦痛ですらあったのです。
 しかし、後になって気づいたのは、その分からない部分、琴線というのか理屈でなく心の奥底から湧いてくる言いようのない感情が、実は、大東亜戦争を軍人として戦った人たちの多くが持っている心情と似ているらしいということです。初対面なのに、「前に会ったことがあるよ」などと言われるのは、私の心の中にある共通の何かを感じ取られたからなのでしょう。

 残念で寂しいことですが、お世話になった方たちの何人もが、既に鬼籍に入られました。この機会に、その中の何人かの方のことを書かせていただき、私の感謝の印とさせていただきます。


故三谷庸雄氏写真2 中央)は、昭和17年春から244戦隊におられ、戦史に残る小林時代の整備隊長として辣腕を振るわれました。無私で愛情に溢れ、指揮官というより人間として部下から敬愛された人です。こんな高潔な人が憧れの244戦隊を率いていたことを知り、ファンの立場でしかない私でさえも誇らしく思ったものです。
 その三谷氏に認められたことは、私には大きな自信になりましたし、「三谷の名を出して接触しろ」とアドバイスいただいたことが、おそらく調査の進展を早めたのでしょう。三谷氏と知り合えたことは、戦隊史を離れても、私の後半生にとってかけがえのない収穫でありました。

故草間弘栄氏写真3 中央) は学生時代、柔道の一流選手で、軍隊時代には慰問に来た大相撲の力士全てを投げ飛ばした逸話を持つ豪傑でした。戦後は拓大柔道部の監督として活躍されました。調布飛行場へご案内するために初めてお会いしたとき、何故か「見納めに来られたんだな」と思いました。その数ヶ月後に亡くなりましたが、穏やかで物静かな中の圧倒されるような存在感は、まさに武士のそれでした。操縦技倆優秀で「教官・戦隊要員」として244戦隊に配属されたことを誇りに思っておられました。

故牧井善市氏 は元々自動車技術者出身の召集兵で、16年夏の244戦隊編成と同時に再召集され、小林時代には一貫して戦隊長機の整備班長として活躍されました。晩年、重い酸素ボンベを引きながらも靖国神社の慰霊祭に参加されていた姿が目に浮かびます。
 244戦隊が3式戦の不具合に悩みながらも、結果として高可動率を維持できたのは、戦隊が牧井氏のような熟練技術者を多く擁しており、また三谷隊長が上下の別ない風通しのよい環境を作って彼らの経験と力を引き出した成果ではないか…と私は思っています。

故山本茂男氏は第10飛行師団参謀(少佐)でした。師団隷下である調布飛行場の拡張や掩体、秘匿地区設定など全て山本氏が采配を振るわれた仕事です。お宅に伺おうと思っていたところ、ついでだから…と気軽に拙宅にお出でになり、3時間以上もお話下さいました。鷹揚な大人(たいじん)という雰囲気の方で、自分もこんな人になれたらなーと憧れを感じました。戦後、米国を訪問した際、「何故こんな国に負けたのか…悔しくて仕方なかった」と言われていたのが印象的でした。

故横手ヲエミ氏は故横手興太郎少尉のご母堂。一人息子さんを戦争で亡くされ、宮崎の老人ホームで余生を過ごされていました。お手紙を差し上げたところ、写真などと一緒にご子息の健康優良児表彰状まで送って下さったのは思い出です。
 戦隊史をお送りしたとき、お礼の電話を下さったのですが、あのときの弾んだ声は忘れられません。その一年後、95歳の天寿を全うされました。

故木村栄作氏 (01.1.11/02.11.1)
 木村氏は航空士官学校56期出身で、常陸教導飛行師団で教官を務めておられました。戦後も地元那珂湊に住まわれていたことから、常陸飛師の戦没者の記録と慰霊に後半生を捧げられました。その正に金字塔が、水戸飛行場跡に建立された「つばさの塔」と『常陸教導飛行師団特攻記録 天と海』の上梓です。
 常陸飛師は、調布で練成した第18、19振武および56振武の編成担任でもあるところから、木村氏にご助力をお願いしたところ快諾され、実に貴重な資料を賜りました。調査開始当初、戦隊史の中で最も未解明であった特別攻撃隊について詳細に記録することができたのは、木村氏のお陰です。

 邀撃戦華やかなりし頃、早乙女(木村)中尉は名古屋に来襲したB29を3式戦2型で邀撃。帰路、過給器の切り替えを怠ったため出力が低下して調布に着陸したところ、同期で同じ常陸の教官だった藤沢中尉に再会。飛行服では外出できないため、白井大尉の軍服を借りて新宿十二社に繰り出した…木村氏から伺ったエピソードです。

故小川伊三郎氏 (01.6.10)
 小川氏は、小樽高等商科専門学校卒業と同時に現役入隊。その後、甲種幹部候補生となって戦闘操縦へ進み、19年8月、特操1期生らと共に244戦隊に配属され、当初は「つばくろ隊」のちには「みかづき隊」の中堅として活躍されました。

 幹候9期は特操1期と操縦教育の点では同期とも言えますが、入営時期が早いために先任(上級)で、初年兵教育も受けていたのに対し、当初から見習士官(将校待遇)として優遇され、いわば甘やかされて育った多くの特操1期
からは、畏怖の念を持たれて、一目も二目も置かれていたようです。

 244戦隊の同期生の中でただ一人生き残られた小川氏は、晩年、空の戦没者慰霊に尽力されておりましたが、とにかく真摯な口の堅い方で、「この体験は一人で墓場まで持っていくつもり…」と言われたのが印象に残ります。おそらく、思い出すだけでも様々な感情が一挙に交錯して、耐え難いものを感じられていたのでしょう。

 特操1期でも、幹候9期と同じく現役入隊して初年兵教育を受けた後に志願し、採用された者も存在する。

故鶴身祐昌氏 (01.6.10)
 鶴身祐昌(つるみ すけまさ)氏は陸軍航空士官学校57期生。19年10月、244戦隊に配属され、小林戦隊長時代の整備第2小隊長を務められました。
 整備や運用の実際は、私自身の経歴からしても書きたかったのですが、データが確認できず、難航しました。そのような中で鶴身氏から得た証言は、非常な重みを持つものでした。

 将校、特にエリートの人たちは、何十年経っても建前でものを言う傾向が強く、なかなか真実に近づけないというのが実感ですが、鶴身氏は戦隊の裏側までざっくばらんに語られ、「歯に衣着せぬ」とはこのことだと思いました。
 私が鶴身氏から受けた印象は「けんかに強い人」でしたが、事実そうだったようです。三谷隊長も心得ていて、整備兵の中の、けんかっ早い「問題児」は皆、鶴身氏の小隊に集められていました。あの早口の河内弁でまくし立てられたら、おそらく誰も反論できなかったのではないでしょうか。

 あるエピソードの真相に関して鶴身氏と論争になったとき、結局意見の一致は見ませんでした。私は鶴身氏が怒っておられるかと想像していたのですが、後にお会いした際、「あんた要点ついとったでー」と言われ、実は私の論点を評価されていたことを知りました。また、戦隊史ができたとき、「よーここまで聞き取りしよったなー」と、誉めて下さったことは忘れられません。

 媚びたり、迎合したりせず、信念と真心を持ってことにあたる。結局それが、最終的に他人(世間)から評価される道であると、鶴身氏が教えて下さったように思います。


 平成7年上梓の拙著『陸軍飛行第244戦隊史』は国会図書館、都立中央、多摩図書館をはじめ各府県立図書館、都内各市区中央図書館(一部を除く)、横浜市、札幌市各中央図書館、八日市市図書館、知覧町立図書館、新橋航空図書館、防衛研究所図書館等にあります。
 ただし、現時点では修正を要する部分も多くありますので、引用等の場合には、当サイトの最新情報も参照して下さい。

自費出版図書館でも貸し出し可能です。 分類「戦争体験」→「15年戦争」→「特攻」で検索して下さい。06.12.16
お陰様で『陸軍飛行第244戦隊史』は完売となりました。

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