■ 『大空に生きる』を読んで 07.7.25
本書は故吉田穆(よしだあつし)氏が、陸軍航空士官学校52期卒業から飛行第65戦隊長(少佐)として終戦を迎えるまでの実体験を書かれたものです。
65戦隊は、襲撃戦隊であるにも拘わらず1式戦を装備した希有な戦隊でした。昭和20年3月には全操縦者45名中、30数名が技倆甲(夜間戦闘可)という高練度を誇り、天号作戦時には、250キロ爆弾と400リットル入り大型落下タンクを懸吊して知覧から出撃、体当りではなく通常攻撃(対艦船爆撃)による多大な戦果を挙げております。
この400リットルタンクは双軽用で、手違いで知覧に送られてきたものを流用したのですが、このお陰で知覧から沖縄までの往復もなんとか可能になりました。既に制空権を奪われていた徳之島や喜界島は、中継地としての価値をかなり喪失していましたから、このタンクの効用は大でした。
夜間あるいは払暁、その華奢な身体には不釣り合いな爆弾と大型タンクを下げて、敵レーダーを避けるために高度計の針を0メートル以下(注)に保ちながら、海面すれすれを進行していく戦闘爆撃機・隼の姿を想像すると、胸に迫るものがあります。
65戦隊はその任務のために損失も多く、天号作戦時の戦死者は飛行隊長3名を含む空中勤務者23名、地上勤務者4名の計27名、喪失飛行機は50機におよびました。
注 高度計は海抜約100メートルの知覧飛行場を0にセットしているので、海面はマイナス100メートルになる。
さて、本を読んでの印象は、ひとことで言って面白いです。大陸時代の部分では陸軍航空の汪洋でサバサバした雰囲気がよく分かりますし、興味深いエピソードも多いのですが、97式軽爆が滑油漏れのために敵地である揚子江の中州に不時着し、付近にいた6名の敵に狙われながらも旋回機銃で威嚇。その間になんとか応急修理して、凸凹の中州からの離陸に成功、難を逃れた話など、アクション映画さながらです。
航空士官学校56期〜59期を教育した区隊長時代のエピソードには、東條大将の「電撃視察」があります。
昭和19年4月、寝込みを襲う如く起床前に修武台に乗り込んだ東條大将は、夕刻までかけて校内を隈なく見て回り、最後に
「敵機は精神で落とすのである。機関砲でも落ちない場合は体当り攻撃をしてでも撃墜するのである。即ち精神力が体当りという形になって現れるのである」と訓示して去りました。
当時の校長徳川好敏中将は、大将が帰ってから
「一応尤もではあるが、本校には本校の行き方がある…」とやんわり批判したそうです。
しかし、その後ときを経ずに操縦者出身の区隊長、中隊長らが転出させられて歩兵出身者と交代、行軍や戦闘教練が増えました。航空士官学校から多くの航空将校が追放されたのです。
航空士官学校の幹部、教官の中には、17年から18年にかけて校長を務めた遠藤三郎中将(戦後、平和運動家として有名)をはじめとして、東條政権に対して批判的な人たちが多かったと聞きますから、電撃視察は一種の粛正であったのかもしれません。
世間には、誤った認識から陸軍航空燃料の低品質を強調する人がいる一方、廃油を再利用せざるを得なかった潤滑油については、あまり触れられません。
例えば、同じ4式戦でありながら、満州の飛行第104戦隊では80パーセント可動に対し、第100飛行団(102F、103F)では僅か20パーセント。
この差は、整備体制もさることながら、満州に秘蔵されていた米国製潤滑油と再生潤滑油の違いが生んだと、103戦隊長東条道明氏も書かれていますが、吉田氏は大東亜戦争開戦時既に、航空潤滑油は米国からの輸入鉱油であり、開戦によってこれが途絶えるから、ストックだけで長期戦を乗り切るのは無理ではないか?と鋭く指摘されています。
その他、吉田氏は眼鏡をかけて操縦しておられたようですが、軍に眼鏡をかけたパイロットがいたことも、私は初めて知りました。
このように、色々な点で収穫の多い一冊ですが、もっと早く読むべきでした。本書はオンデマンド出版でも入手できます。