取るに足りない幸せ


「日本死の臨床研究会」という学会の会員になっており、年に一度の総会に参加することがライフワークとなっております。

‘死の臨床’とは、ターミナルケアや緩和医療において、死を前提としつつ如何に充実した安らぎの日々を過ごすかに焦点を当てたものです。死を見つめるということは、如何に生きるかという問いに答えることにも通じ、そこに死生学という学問領域も存在しております。ある年の学会シンポジウムのテーマにも「いかに死を生きるか」という、何とも禅問答のような題目が掲げられていることもありました。
毎年の総会では、終末期医療の担い手(医師や看護師)の講演では大いに啓発され、受け手(患者さん)のお話には目頭が熱くなることがしばしばです。

その学会総会での一コマの中で、終末期の患者さんが非常に喜んだケースとして、自分の足で立てたことという話がありました。長期伏臥の末の終末期の段階ですので自力・独力で立てた訳ではなく、リハビリ用のストレッチャーに身体を固定した上で台ごと縦に起こして疑似的に直立の姿勢を取らせてあげたそうです。その患者さんは、長いこと天井を眺めることしかできずにいたのが、首を左右に振れば広い視野を得ることができることに感動したとのことでした。

実は私も若い頃に交通事故により股関節を痛めて一か月ほどベットに寝たきりを余儀なくされたことがありますが、初めて寝返りを打てるようになった時、座れるようになった時、そして立てた時、その時々に新鮮な感動(感謝といってもよいかもしれません)を覚えました。そして、少々尾籠な例ですが、小さな幸せとして一番ありがたかった思い出は、重力に身(実?)を任せて垂直に排便することができたことでした。

小さな幸せとは取るに足りないものでしょうか。
小さな幸せだけでは満足仕切れないものなのでしょうか。

人間の業として、小さな幸せの次にはもっと大きな幸せが欲しくなりますよね。そして、幸せ要求度はどんどんグレードを増していきますが、不思議とそれに比例するように不満も大きくなっていきます。
人生最後の食事として(日本人であれば)何が食べたいかという問いに対して、白いご飯と味噌汁・漬物と答える方が多いという話をよく聞きます。何が幸せで、自分にとって何が大切であるか、こんなところに答えがあるのではないかと再認識される、毎年の学会参加です。