供養の意味
先日、感じの良い若いカップルが水子供養を望まれに来られました。
残念ながら私は不在でしたので、僧籍を持つ家人がお勤めさせていただきました。

直接お話できなかったことが悔やまれるのですが、お二人の関係(既婚or未婚)や事の経緯(医学的トラブルによる流産なのか人為的によるものか)を差し支えない範囲でお聞きした上で、どのようなお気持ちから供養を望まれたのか、供養後のお気持ちなども併せてお伺いしたかったように思われます。

日頃、色々な法要でお勤めさせていただいた折りに尋ねたり尋ねられたりするのですが、何故亡くなられた方を供養するのでしょうか。
「故人の冥福を祈るため」、「お世話になったことへのせめてもの御礼を込めて」、「故人を偲んで」などの理由が一般的でしょう。中には「化けて出ると怖いから」とか「祟りがあるといけないから」などと、冗談とも本音ともつかないような答えをされる方もおられます。
前者のような一般的な理由はもっともなことであり、また間違ってはいないでしょう。でも、もう一歩踏み込んで考えてみませんか。

亡くなられた方の冥福を心より祈り、そしてどのような人生を歩んできたのか(あるいは冒頭の例ですとどのような人生を歩むのであったか)に思いを馳せて故人を偲ぶことともに、その方が残された自分たちにどのように生きてほしいと思っていたのかを考えてみませんか。ひるがえって、現在の自分の行き方はその思いに沿ったものであるか、いい加減な生き方をしていないか等、いわゆる法事というものを自分を省みる良い機会にできうるのではないでしょうか。現在の仏教は葬式仏教と揶揄されることもしばしばですが、私は宗教とは本来“生きている人”のより良い生き方へのtoolとして存在しているものと考えております。

先日の若いカップルが、単に水子の祟りを恐れて供養をなさったのか否かは判りません。もしそうであったとしても、供養することにより心の安らぎを得られたのであれば、それも意義のあったこととも言えます。でも、生まれてこなかった子を偲び、それを乗り越えて、次の機会には立派な親になることを誓い・実践していくことができれば、それが一番の供養になるのではないでしょうか。少なくとも、自戒・自省を持って真摯に生きる人間に対して、祟りや怨念(あまり好きな言葉ではありませんが)が降りかかるなどということは無いと私は信じます。その子のことがあったからこそ、今の自分があると言えるほど心の中での存在があってもいいのではないでしょうか。そして、何時の日か仏になった際にはこの子に会えると思えれば、必要以上に死を恐れるということからも解放してもらえるのではないか・・・とは言い過ぎでしょうか。