トロ

 大寒の侯だが半月ほど前に降った大雪の残りも、日陰に残った雪除けの山を残してやっととけ去ったようだ
暖かい春三月中旬並みだというが、最近では庭の芝生を横切る猫たちの姿がめっきり少なくなったような気がする

 庭石を伝い腰をかがめるように歩き、ガラス戸の中を気にして、時には様子を窺うように進む野良猫風情も、何か自信無げでさっぱり風来坊らしき威厳が伝わってこない
この頃では寒中には騒がしかったあの猫の「さかり声」もなく、ただ悲鳴のような叫び声が一声聞こえるばかり、たゞうろつき歩く猫の存在が感じられるだけだ

 都会地ではほっつき歩く野良猫退治が進み、手術を施されてやたらに子孫を残せない、家で飼われ家族同様に可愛がられる「ナニナニ種」などの立派な素性のネコちゃんは外出もできず、外歩きには肩をしっかり十字に括るリード付でのお散歩、それでは自由な恋を見つけるのは無理と云うものだろう

   むかし庭の椿の下から我が家内をじっと見つめていた黒猫はミャンマー種特有の可愛らしい鳴き声の持ち主だった、決して侵入を狙って屋内を窺っていた訳ではないと思う、その証拠にその後わが手に捉えられて馴染みになってからも屋内には入ろうとせず、連れ込んでもすぐに縁から表に出てしまった
 すでに猫エイズを発症していて目ヤニがひどく、毎朝掴まえてはホウ酸水で洗眼した・・・それが気持ち佳かったのか、感謝の気持ちなのか、ときおり庭にやって来て日向ぼっこをしたり、おやつを貰ったりすることになった

 その仕種や、態度から素からの野良猫ではなくて、可愛がられた時期もあった飼い猫だったろうと想像できた
喧嘩はめっぽう強く、その頃はまだ多かった徘徊猫たちが向って来ても、相手がワァー・ワァー奇声を挙げても 些かも動ぜず、睨みつけたまま相手を退散させるのが常だった
 一方では人望ならぬ猫望があったのか子分とおぼしき猫や、子育て中の猫を連れてきては自分の餌皿から貪り食う姿を、ゆったりと芝生の日なたにのびのびと身を投げ出しては眺めている 姿も見事な親分だったように思う
後から近所の方々と話題にすると「あヽそのクロなら家にも来てる」と言う事になって、結構近所では可愛がられた有名猫であることが判って来た

 縁先に作ってやった猫小屋をねぐらにして呉れてはいたが、何日もそこを空けて またヒョッコリと顔を見せるというようなことを繰り返していた、やがて次第に猫エイズの症状がひどくなり 、衰えは目に見えるようになってきた
 彼「クロちゃん」の大好物はマグロのトロ、近所の寿司屋さんがこそげた中落ちなのだが、どうして覚えたのかめっぽう目がない、目ヤニでつぶれたような目を懸命にあけて、ミャンマー種独特の鳴き声で割り箸で摘まんだ魚肉に向ってきた、「違いが判る」とはまさにこの事の様だった
 ある朝の出勤時にクロは道端に正座をし、小生の行く手をいつまでも見送っていた、その姿は今でも小生の瞼に焼き付いている
 その時から後、彼はもう庭に姿を見せることはなかった

 猫の世界にも洋の東西があるのか? DNAに記録されているのか、その生き様は違っているようで面白い、我が家の庭に訪れる猫たちの数が減ったのは少し寂しいけれど、捨てられた仔猫に巡り合うのはまた悲しい
 先年の取材旅行途中に某城跡で何気なく目撃したのだが、中年夫婦が不審な動き、仔猫を茂みに置いて逃げるように去る姿だと判った
 それにしても、わが愛車の下に潜り込んで「ミュー、ミュー」泣き叫ぶ仔猫、旅の二日日でまだ帰宅予定は先でもあり、車の下からつまみ出した黒トラの仔猫を植込みの向こうに置き、追いすがる仔猫の鳴き声に後ろ髪を引かれながら 、急いで車を発進させた時の切なさも忘れはしない

 さて、その後の仔猫の運命はどうなっただろうか・・

 

 

(2013)
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