卵入りのすまし汁

 この年の春には米軍機による東京空襲が初めてあった 。
我が家の庭の片隅には既に土を盛り上げて造った内部は木造の防空壕があって、 その中で飛行機の爆音を聞いたような、おぼろげな記憶や、近くの竹薮に敵機の 機銃弾の薬莢が落 ちてたと言う大人達の話しの覚えもある。
  こうした状況下に父親が知り合いに頼み込んで探してきた、空襲を避けて 見も知らぬ土地に向けて東京を発つのは秋になってからのこと、我が家の縁故 疎開である。

 昭和18年(1943)にはまだ本格的な本土空襲はなく、新宿発の中央本線列車も まだ充分に座れたしさして混雑はしていなかったように思う。
  のりもの大好きの小さな坊主は家族と一緒の座席で窓にしがみ付きながら、列車が 走り抜ける トンネルを数えていた、何しろ中央本線のトンネル数はとても多くて 長いのや短いものが甲府盆地に着くまでに50は超えていたのではないだろうか。
  また、途中には幾つかのスイッチ・バックがあり列車は急勾配を 一気に上れず進行 方向を変えて行ったり来たりしながら坂を上ってゆく、初狩、初鹿野、懐かしい 駅名である。 長いトンネルは笹子トンネルでその先の勝沼駅もスイッチバックの 駅であった。
 これから先は甲府盆地を左車窓に見ながら急勾配を下ってゆく、短いトンネルを 二つ、三つ通り 抜けて到着したのが塩山駅である、そしてこの駅で家族は降りた。

 駅前には乗合いバスの車庫や映画館などが大きく目立っていた、それから数年の あいだ 家族には町といえる場所はこの周辺になったのである。
  だが行く先は奥野田村の西広門田(四字なのに読み方は「かわだ」と読む)、 現在は甲州市の南に位置するのだが、駅からバスに乗る、目的のバス停は橋の たもとのタバコ屋さん前である、川は重川(おもがわ)と言い、橋は西広門田橋で あるいう事は後になって知った。

  ごろごろと石が転がる清流の両側はしっかりとした堤防であり、タバコ屋さんの 建物は堤防への取り付け道路の脇にあって、建物は地面から道路の高さまで一階分 ほどの高さがあるので縁の下は納屋のようになっていて、店と道路の間をつなぐは 板敷のプラット・フォームになっ ていた、これも後になって知ったこと・・・
 さて、バスを降りバスの通る県道から少し横道に入ると小さな広場でハシゴを立て た様な火の見櫓は上に小さな半鐘をぶら下げていた、 ここからは桑畑の間の狭い 道を少し行くと目的の屋敷だった。

 これからお世話になる農家は大きな藁葺き屋根構えで風呂場や厠は別棟、 敷地は石を積み高く なっていて、丁度入口の門の辺りからは東の山並みが一望でき、 その中腹を左下がりに塩山方面へ向う中央本線の線路を望む、さっき列車に乗り通ってきたトンネルもはっきりと見える。
 家族は敷地の奥に建つ二階建て藁葺き屋根の隠居所を住居として借りたのである、すでに辺りは紫色の秋の夕暮れになっていた。
 

 幼い頃の思い出の断片には折に触れて幾度か食べた 忘れ難い「すまし汁」がある、 青菜入りで卵がポンと落とされて煮え固まっている、ずい分と色の濃い醤油味の汁、 言うに言われぬ特別の香りで、煮えた卵はとても美味しかった。
 この家ではこの頃まで醤油は自家製であったことも後で知る、家人が醤油や味噌を 仕込んでいるその脇で作業を眺めていたことも覚えている。

 この夜は見知らぬ地に疎開した初めての夕食、母屋(おもや)心尽くしの卵入りの おすましをご馳走になった様に記憶している。

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