ステーキ会食

 明治5年創立のわが卒業の小学校、 まるで親学校の如くに近在には5校の枝分かれした小学校がある
終戦翌年春に山梨県の疎開先から幸い戦火を免れた学区内の我が家に戻り編入した、そのころ国内や海外からの引揚者は取り敢えずの居場所を親戚や知り合い宅に求めたのだろうか、学校も児童たちで超満員、2600名を超えて校庭にあふれていた、教室は当然足りずに朝、昼、午後の三部授業がしばらく続いていた

 その為に分校が次々に開設されて戦前の2校と合わせて5校となった訳だ、卒業の記念写真で数えてみるとクラスは55名、そして学年4クラスだったから較べれば今の同校の全児童数に近いかも知れない、卒業時はやっと一日の授業体制と給食が定着したころのお話、脱脂粉乳やコッペパンなど、その頃の給食の思い出は溜め息の出るほど で、思い出したくもない出来事の一つだ

 駐留軍(講和後は進駐軍ではなくなった)の払下げトラックに車体を載せたのが当時のバスだった、そのバスに揺られて都心に向い25分をかけて通った中学校、兵舎のようなお粗末な教室は仕切りのテックス(藁を押し固めたような建材で、弱い)は 生徒の悪さで破られ、大きな穴が空きA組〜E組まで見通せるほど、在学3年間をこんな教室で過ごして高校へ進んだ

 高校々舎は戦時中、連合艦隊の司令部が占拠して居たそうで、足元の台地には防空壕が縦横に堀めぐらされていたと聞いていた、隣の大学ではまだ残された進駐軍の米軍兵舎がそのまま教室として使われている時代だったが、その頃から やっと立派な校舎も建設され始めて、学生生活の最後の数年間はその恩恵に浴することが出来たのだった、学食ではラーメン、カレーなどが30円位だったろうか・・・時が経ってこれは忘れてしまった

 小学校、中学校…大学、そして同期入社の社会人組とそれぞれにクラス会が時々ある、近況、思い出話のほか、齢と共に身体の話題も多くなってきたのは仕方がない
そもそも出席者は逢えば数分間で元の顔に戻って、当時の様にワイワイガヤガヤと会話が拡がってゆく、今年は卒業後初めての参加だと云う者がいたが、 その間半世紀がたっていても、すぐに昔の顔に戻り・・・後日になって楽しかったそのクラス会を記念して・・・と創った映像を贈り物として皆に届けられた
また、中には小生の大型作品の納め先を真剣に探してくれる仲間もいる

  小学校の仲間には某大学の江戸学の教授だった仲間がいて、学校退任後になって専門の「江戸探訪」の案内をガキ友達の為に引き受けてもらい、下町深川や武家町四ツ谷を楽しく歴史ウオーキングをした
3回目は隅田川・浅草を案内してもらい、ある蕎麦屋さんでは食通だったある作家が愛した蕎麦はこれだ!と・・・紹介されて、えび天一つのドンブリを皆 取って楽しみ、仲見世名物の人形焼を皆一つずつ立ち食い し、そして茶店でしる粉を食べたが、これが最後の会食になってしまった、残念なことにその後 半年もたたず肺がんで往ってしまった
 

 先日の大学のクラス会では仲間が勲章を受けた祝宴もかねていた、スピーチには体調についての報告が多いのだけれど、還暦の頃の同じ話題とは違う印象で聞こえてくるのは 、齢のせいの達観かも知れない
 世界旅行を楽しんでいるという一人の話題は、世界三大悪臭の話を思い出す、それは剣道の防具、ナイアガラの防水カッパ・・・だと思っていたけれど、モロッコ旅行で ラクダ引きのターバンが珍しくて貸して貰ったら⇒⇒これが、最悪臭だ…現地のガイドに聞くと、いままで風呂に入ったことが無いって、言うんだ!  と皆を笑わせ ていた元社長、 最近ナイアガラでは使い捨てカッパが採用されて悪臭は無くなったとか・・・今では彼はこんな具合に悠々自適らしいが、勲章をもらった方の彼は現役で、まだまだ頑張るぞ!! と元気なスピーチだった
 蛇足ながら、出し合った原資で小生作の水彩画をお買い上げ頂き、皆からの受勲祝いとして呈上した

    この会はいつもクラス仲間の老舗ステーキ店で開く・・・今回の席で、ステーキ会食をつつきながら小生のこれからのテーマを質問され、仮のアイデアを云うとすぐに賑やかな情報がどっと寄せられた 、ぜひやれ! あそこがいぞ!・・・・・
 その上、帰宅後にご夫婦の話題になったからと後日になって、さらに拡がった新しい情報を伝えてくれる電話が架かってきた
 持つべきものは友だが、頭の片隅に小生の絵について留め置いて貰って、小生は本当に幸せ者だと思う
 皆の有難い応援、沢山の情報を頂くその方向に今年の制作は進もうと思う

 

(2013)
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