脱脂粉乳

 我が家は縁故疎開だった 太平洋戦争が終わり、 疎開先からは年が明けた 昭和21年の春のこと鈴なりの乗客で満員の列車、それも客車を繋ぐ連結幌も 破れているから走り 去る線路が足下に見える車端にしがみつき東京の自宅に 帰ってきた、幸いにも我が家は周辺にも転々と落ちた焼夷弾による戦災を免 れて焼け残っていた.

 引揚は国内、海外からあり沢山の帰還があった、そのため焼け残っていた 小学校は学童で一気にすし詰めの様相を呈し、我が校も学級60名ほどで 学年ごとに 6学級くらいもあったから当然教室が足りずに3部授業、つまり朝 ・昼・午後と いった按配の同じ教室を3学級が順番に使うという窮屈さだった.

 それでもやがて引揚者も次第に当座しのぎから落着き先を見つけて散って 行ったし、 異常な3部授業は程なく解消されたのだが午前、午後の二部授業 はそれから 後も2、3年は続き、近くに分校が二つ開設されるまで続いた.

 学校給食が何時ごろ我が校に来たか正確に記憶してはいないが、校舎 の一隅に調理室が建設され、中でゴムの前掛けをつけ長靴姿でオバサンや おじさんが何やら給食を作ってくれていた様な気がする.

  辞典で調べると学校給食法が出来たのは昭和29年だそうだがそれ以前の 光景であることは間違いはない. 
 食器は毎日持参する、アルマイトで出来たボウルと皿を組み合わせたもので、 母の手造りの布袋に入れてカバンに吊るしていたから、走ると跳ね上がり 踊って箸などとぶつかりガチャガチャと賑やかに音を立てた.
 

 ララ(アジア救済連盟)というアメリカの団体から贈られた物資が、栄養に窮して いた学童にと提供されたらしい.
給食が献立と言えるようになったのはずっと後のことで、先ずやって来たのは 白く生ぬるい液体だった、あとは何があったのだろうか?
パンが供されるようになったのは更に後だし、うどんやボルシチなどがあった かも知れない、だがいつも我々を悩ませたのは白い液体・脱脂粉乳だった.

 何とも云えぬ匂い、何とも不味いそしてブリキのバケツで給食室から運ばれ てくる量がやけに多い、当時の配給であったザラメ砂糖などを持参して甘みを加えてもダメ、ついに給食室でもイチゴの香料など加えて呉れたりしても とても不味さは改善されるものではなかった。
  筆者の世代での学校給食の代名詞は脱脂粉乳のようだ、栄養補給にとの 善意があったであろうが・・・それも打ち消すほどの不味さだけが印象的だった。

 現在、学校給食が無ければ学童の摂取栄養量が確保されないと言われる それはこの話しの当時とは違った理由によるもので 時代の変化を思わせるが、 学校給食の初めはこんなものだったのである。
  いま我が母校も学年二クラスになるかどうかと言うことらしい、35人クラスである。
 「竹の子会」・・・目黒の竹の子にかけた我々こうした頃を共に過ごした小学校 クラス会の名だが、土に隠れて 確りと繋がっているのだと師が名付けたものだ、 今年も夏に会合する

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