ふかしイモ

 午後のおやつにに久し振りに「ふかしイモ」を食べた、ポクポクとした温かな黄色の芋は美味しかった。

 正月おせちのキントンに使う芋、時折食べる近頃のさつま芋は美味しいものばかりのような気がする。
第二次大戦後に配給されていたお米代わりのさつま芋は代用食、「農林〜号」と云う白い身のものなど水っぽくて、べちゃべちゃ、味もいくら食糧難の時代とは言ってもひどいものだったように記憶している。
金時芋などが時折手に入ると、香り好し、味良しで、それはまるでめったにお目にかかれない上等のケーキような気がしたものだ。

 戦時中創られた隣近所をまとめた隣組、当時の大人たちには何かと思も多かろうが、戦時では近所付き合いは日常欠かせないものだったに違いない。回覧板で情報が伝えられた、配給所の予定も隣組から入ってきた、加えて戦時中には防火演習ほかの国策行事が目白押しだったかもしれない。

 戦後の事しかはっきりとは知らない小生でも隣家との間の生垣の間に、通用口が造られていて表通りを通らなくても勝手口同士の近隣の行き来を知っている。我が家からは向うの四つ角に面する四軒先まで、そして裏の家との段差には階段があって庭先に上がって行けた、しかしその家は戦災で消失しており、水道管がむなしく突っ立っている家の基礎だけが残る焼け跡景色だった。

 それでも戦中からのお付き合いの流れは残っていて、田舎からの到来品が手に入ったからとか、珍しく手に入れた食品などが通用口を通るルートで勝手口を行き来するシーンも良くあった。
品物不足の折でお互いの思いやりも通じたのだろう。
 お盆に品物を載せて「お裾わけですが…」と届けると、「ちょっと待って」と云いながらその場で小さなお返しが盆に載って手渡された。
 

 それは貴重品だった小さなマッチ箱だったり、ミカンだったり、時にはちょうどその家で蒸かしたサツマ芋だったりした。
代用食として配給されたイモは口にする機会も本当に多かった、実際戦後の一時期をサツマ芋のおかげで日本国民が生き延びていたのは間違いないことだと思う。

 世の中が次第に落ち着いて品物も出回るようになり、いつの頃からか気が付けば通用口の木戸は朽ち果てて閉じられてしまい、 裏の家へ行くにはグルっと角を二つ曲がって行かねばならず、それに加えて表通り経由の近隣との行き来すら次第に少なくなってしまった。
 家々も立派に改築され、住人の世代も替って、いま各家の間にはブロック塀でキッチリと境がある、数えてみると四つ辻に面しているのは八軒先の家になり、今でも時折の町内会の回覧板は周るけれど、お住まいの方々の顔すら記憶にはない。
 せめて気持ちを通じ合うには、どうすれば…と思うのだが。

(2011)
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