サンドとミカン

 春は桜咲くしまなみ海道を通って大島から来島海峡の潮の流れを眺めた、今回は四国側から秋の来島海峡を訪ねる
来島海峡には名前の由来になった来島をはじめいくつかの小島があり渡し船がつないでいるとの事、かねて海峡の急流をぜひとも体験したいと考えていた

   船便は少なく時刻表を参考に考えた計画を実行するには昼食用弁当が必要、当日は今治駅のキオスクで「一口サンドイッチ」とペットボトルの水を買い込みバッグに入れて駅前からの定期バスで船着場へ向かう
目的地のバス停はズバリ(渡し場)で25分ほどの道のりだった、到着したのは入り江の片隅、その入り江はぐるりを造船所が占め、岸には仕上げを待つのだろうか大きな船影がズラリ並ぶ壮観、船体にペンキで書かれた母港名にはアジア、中東、中米など、・・・つまりすべてが輸出向けの新鋭船、まさにここでは造船日本の面目躍如である
 波止浜だ

 さて渡し場に小さな渡船がやって来た、乗客の皆は小さな船室に入ってしまう…急流を横切る際の揺れやしぶきを避けるためなのかとも思い小生も船室内に座った、相客は年配の男性一人に女性3人、そして祖母・母・孫といった風情の三人だけだった
 やがて小舟はエンジン音を高めて岸を離れた、塩しぶきで曇った船窓からは景色を眺めるには不自由だった、壁に掲げられた当船の写真をデジカメで撮影していると背後で何やら気配・・・最近の写真機は…!? と気にしている、デジカメの液晶画面で撮ったばかりの写真を見せると驚きとも、感嘆とも取れる感触が伝わってくる、これを機会に話が弾んで・・・小島(おじま) の住人たちだと判る、尋ねると景色の良い小島の探訪には2時間ほどかかるから、帰り船は2時半だな・・・などと皆で勧めてくれた

 波止浜の渡し場を出た渡し船は20分ほどで来島、小島の順に馬島が終点、馬島で30分間休憩して小島へ戻ってくる、馬島には来島海峡大橋の大きな橋脚があり橋上のバス停からエレベーターで島へ降りる、いわば陸続きのようなもの、その所為か往路の小島ー馬島間の乗客は郵便配達のポスト・マンと小生だけだった
復路はデッキに居て来島海峡の急流と、目前を波しぶきをあげて航行する大型船を観ていた、渡し船はていねいに波を読みながらデッキの小生にしぶきがかからぬ様に操縦してくれていたように思う

 小島に近ずくと舟が着くぞ〜とばかりに警笛を長く鳴らした、下船して桟橋をあがると、すぐ前の家の表戸が開き往路同乗で小島で下船したおばさんが一枚の紙を手に持ちやってきて「この地図があったから、見ながら廻ってみてくると良い」とのご親切…そればかりかレジ袋に入れた沢山のミカンを「小さいけど…」と、重ね重ねのご親切、渡し船の警笛の合図を待って家を出て来てくれたことはよく判る、ご厚意を有難くお受けさせて頂いた  
   小島には明治30年頃の日本陸軍の芸予要塞の遺構が良く残っているという解説、迷う事は無い一本道の登り降りを行くとレンガやコンクリート造りの遺構が次々に表れた
目を海峡に転ずれば来島の狭い海峡航路を行き交う船の姿や、島々の大パノラマは実に見事である、島訪問の達成感に幾度となく浸ることになった
  
(←はNHK-TVドラマ「坂の上の雲」で使われた精巧な復元レプリカの28p榴弾砲が展示されていた)

 島内遺跡の行き止まりは北部砲台の指令塔跡地、急な石段を登った展望台は特に景色良く、一人遺跡に足を延ばし持参の一口サンドの昼食と、頂いたミカンを二ヶデザートにしてこの贅沢を存分に味わったのである

 タップリの時間をかけた見学を終えて予定時刻の船に乗る前に波止前のおばさんの家にお礼に寄らせてもらった、とてもシャイなおばさんで記念写真は撮らせてもらえず、表札もない家でお名前も聞き出せなかった
往路の船中では「住人より、猫の方が多い」、「住人の数は、恥ずかしゅうて…云えん!」とか・・・、自家農園産のみかんは薫り高く、甘くて…その後の旅の幾日か良いデザートになった

 復路の相客にはプロパン燃料ボンベを運ぶ若者たちと、往路で同乗の祖母、娘、孫の三人連れなど、祖母が緑濃い小枝をたくさん抱えている、聞くと「シキビ、仏さんに供えるのを島で栽培している」との話だった、この三人は島民ではないらしく波止浜の渡し場に置いてあった軽自動車で走り去った

 取材旅行でのこと、また思わぬ出会いがこの海峡で積み重なった

(2013)

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