じゃがバター

 小学生の頃からお世話になってきた床屋さんは神社の隣にある。親父さんが小学校の修学旅行の 写真に一緒に並んで写っているのは倅がクラスにいたからで、やがて店を継いだクラスメイトだった 倅が今では私の髪を整えてくれている。親父さんが亡くなったのは、私がまだサラリーマンで全国を
転勤で転々としていた頃だった。
面倒見良く修学旅行へは付き添いで同行してくれていた訳だ、いい親父さんだった。
 

   神社のこんもりとした木立は郊外と言われた昔と変わることなく、立て替えられた小学校の隣で、今や家並もビッシリとつながってしまった町の中に鎮座している。
農事、とくに雨乞いに御利益があるとされ、氏子地域はかなり広い神社である。
 神社の例大祭は秋9月の18、19日と決まっていた。
 雨乞いの神様にふさわしくこの日は雨模様になる日が多かったが、それでも境内や神社前から最寄り駅までの500mくらいの間の商店街筋の両側には隙間無く祭りの露店が並びとても賑やかだった。

 隣町の神社のお祭りは一日後の20日が祭礼日で、その神社のお祭りに行くと昨日まで我が氏神様
の境内に店を張っていた露店がそちらで店を出していた・・・なんて云うこともあった。
学校が引けてから友達と連れ立ってあちこちの神社の祭りを順番に巡り歩くのは楽しみだった。
「買い食いはしてはいけません」、「食物を食べながら歩いてはみっともない」・・・という、子供の躾が
まだまだ立派に通用した、今とはだいぶ違っていた頃の話だ。

 世の中が変わって、祭礼日を夏休み中の行事に変えたのは隣町の大きな商店街がはじめてである。
隣の神社がそうなってからも我が氏神様の氏子達は辛抱強く例大祭の日を堅く守っていたが数年前に
ついに降参、祭礼日を祭り日近くの週末に替えることとなった。訳は今年の祭り前にも辻々の電柱に
張られていた「神輿の担ぎ手、募集!」である。おとな神輿は既に町会建物前の飾り物になっている。

 祭り当日、遠くに「ドン、ドン」と太鼓の響きが聞こえ、やがて神輿が近づき、子供達の掛け声を響かせ て家の前を通り過ぎていった。商店街のおじさんたちが周りを固めていたけれど、大方は小さな子供を 主役にお母さん達の付き添いであるように見受けられた。この辺りの商店街だって賑やかだった昔の
比ではなく、小さくなってしまった。

 神社へのお参りついでに駅までの商店街を歩いてみた。
やはり祭りの雰囲気は楽しい、若いお母さん達は子供の手を引き、浴衣を着た小中学くらいの女の子、 焼きそばやなにやら不思議な食べ物を商う露天、金魚や風船釣など祭りならではのざわついた空気が 流れている。それにしても露天と露天の間の空間がやけに目立つ通りである。

 その日も床屋は店を開けていたが、店の前では「じゃがバター」の露天が商いをしていた。
祭りの当日には散髪に来るお客さんは毎年無いそうで、床屋商売は開店休業というところだった。
それにしても、沿道の露店の空地はどうだ、近くの二、三の神社がみな祭礼日を週末に揃えてしまった
ために、露天商は勢い商売になる神社に店を張ることになり、ここでは店数が減っているんだとの説明。 この場所で長い間の神社の祭りを見てきた床屋がいうことだから間違いは無さそうだ。

 それでも彼が言うには店前の「じゃがバター」は良く売れていて、毎年客の列が出来るほどだそうな。
おばさんと倅らしい若者が大きな鉄板の上で小さなジャガイモを温めていた。新じゃがを蒸気でふかし、 鉄板の上で転がし炒め、小さいが丸のままのジャガイモを何個かスチロールの小皿に載せバターを添え 売っていた。大きなジャガイモをアルミ・ホイルで巻き焼いて、それにバターを載せたものとは違う。
  ひと口で食べられそうなジャガイモは、魅力的で美味しそうだったがつい買いそびれてしまった。
 幼い頃の躾が生きていたなどとは言わない、思えば町も祭りもずい分変わってしまったものだ。
床屋の彼以外には近くに小学校時代のクラスメイトは何人も残っていない、皆遠くの町で暮らしている。

 日が替っても今年の祭りの後半は大雨となった、雨乞いのご利益を神様はお忘れにはならなかった。

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