パンと牛乳

 16年前に個展の初回、それから毎春四月の恒例となった。
田町駅近くのギャラリーはわが師の勧めに従って何もわからぬまゝ、展示する絵の数さえおぼつかない個展事始めだったことを覚えている。
そこで飼い猫を主役にした「ルイの12か月」をヨーロッパの風景画とともに展示してご覧頂いた。

 その年以来「ルイ」は4月の個展会期の間は、決まって昼間でも雨戸を締め切った家でひとり留守番する羽目になった。
もちろん異議を唱えるすべもなく、ただ出掛け時の寂しげな見送りと、我々の帰宅時に見せるささやかな歓迎のしるし、そして家の中をそれとなくついて歩き回り、わずかなレジスタンス行動での意思表示があっただけだ。
個展会場は16年の間に画廊の閉鎖などで銀座4丁目、1丁目、京橋へと替っていった。

 家の中から一歩も自分の足で外出したことがないけれど、屋外が嫌いなわけではなく家人の左肩に載って庭に出て大気を吸い、門前くらいまで行って郵便物をポストから取って来たり、何よりも楽しみな季節は桜の花が咲き新芽が出るとそれは大好物で、その時期には背中を向けると飛び乗ってきて左肩できちんとバランスを取れる様に掴まり、小枝の先の小さな柔らかい葉を数枚かじった。

 個展では入り口付近に一枚の「ルイ」の絵がご来展客を歓迎した。
それらの絵は猫好きには歓迎されていたが、犬好きにははっきりとそっぽを向かれていたようだ。
そんな光景は知ることのない「ルイ」は毎シーズン暗い留守宅でどのように過ごしていたのだろうか・・・いつもだから、仕方がない…とでも思っていたのだろうか。

 近頃は好きになった牛乳を沢山入れた鉢がいつの間にか空になるようになっていて、かつお節を残してもそうである日が多くなって来た。
もっと好きな食べ物はパン屋さんのパン、と云うのは家庭用パン焼き器でつくった朝食時には見向きもしないのに、臨時に時折買ってくるパン屋製の食パンだと目を輝かせ正座して家人をジッと見つめ続けるから、ついにこちらは根負けして小さくちぎって差し出した。
家人にとっては自家製の方が歯ごたえも好ましく好きなパンだったが、「ルイ」には気に入らなかった、その理由は解らない。

 16回目の個展が始まって自家製パンを作る手間もかけられずその朝はパン屋のパンが食卓にあった、長椅子に寝そべっていた「ルイ」にアピールすると早速食卓の近くにやって来て小さくちぎった…それは本当に小さなつまみなのだが…ふたつまみを食べた、そんな小さなおしるしほどでも満足なのがいつもだった。序でに牛乳の鉢の前に連れて行ったが口を付けることなく長椅子に戻って行った。

 それから間もなく、おかしな姿勢で長椅子から降りたとカミさんの声がした、何か胸騒ぎのようなものを感じて走り寄るとすでにテーブルの陰に横たわっていた。
 苦しむ様子は何も見せなかったが、やがてなす術もない我が手の中で大きく深い息をつき…それがお別れだった。
 18年間よく伴に過ごしてくれた、16回目の個展の始った今週も留守番で胸が締めつけられる日だったのだろうか、ただ『永い間、ありがとう、ありがとう』と「ルイ」の耳元に言い聞かせるほかなかった。
 

(2012)
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