ラ・フランス

 今年、作品の取材テーマに松尾芭蕉と同じ季節でたどる「新・おくの細道」を考えていた。2009年は弟子の曾良と共に江戸を発ち「奥の細道」に向かった元禄2年から数えてちょうど320年に当るとか。
もちろん時代と共に新しい道もでき、河川も改修され、町並みが大きく変わって往時の風景を偲ぶにしても大きな収穫の期待は無理だろうかと思っていた。

 翁達は深川・千住を発って東北、北陸を巡り600里(2400km)を150日間で結びの地である岐阜県の大垣にいたる旅をしたのだけれど、途中の各地での滞在をマイナスして日数を計算すると毎日30〜40km程踏破する大変な健脚のようだ。翁達が特にそうだったのか、あるいは当時の人たちが皆強い足の持ち主だったのかは定かではないけれど、車で巡る小生の旅から想像しても驚異的に思えた。

 山形といえば今では新幹線も高速道路も通じてはいるが、東京育ちの土地勘からすれば遠いはるかな土地に思える。「新・おくの細道」では翁たちにあやかって出来るだけ地道を走ることを心掛けてきた。そのお陰でガイドブックにないような史跡などにも寄ることが出来たし、何よりも普段着の土地の方々との触れ合いが出来て思わぬ日本再発見の旅となったのは収穫だった。










 芭蕉が座った囲炉裏端

 宮城県から鳴子峡の名勝を越えると山形県の最上町堺田に入る、ここには芭蕉翁も泊った「封人の家」がある。当時は関所番人の家であると同時に旅籠も兼ねていたとかで、土間の向こうには馬小屋が並んでいる。薪が燻ぶる囲炉裏の一辺に「芭蕉翁はここに座ったということです」と、説明役の町の愉快なおじさん職員から聞けば元禄時代が身近なものになってくると言うものだ。奥の細道の道中で唯一昔のまま現存の建物とのこと、正直に山奥と感じる場所だった。

 最寄り駅の陸羽東線・堺田駅わきには分水嶺がある、分水嶺と言う言葉は知っていたけれど山の小川がこの地点で右左に分かれ、一方は太平洋へ他は日本海へと流れ下る、日本列島の背骨であるその地点を目の当たりにすると不思議に感じ、さらには厳しかっただろう320年前の旅の環境に思いをはせたものだ。

分水嶺・・・左は日本海、右は太平洋行きに流れてゆく

 そこから山刀伐峠(なたぎりとうげ)の急峻、ここでは翁達は案内に若武者を雇ったが、暗く鳥の声も聞えない山中に生きた心地がしなかったとか、峠を下ると尾花沢に着く。紅花産地で豊なこの土地には翁の弟子も居てゆっくりと滞在していたという、紅花の咲く季節ではあったけれど小生は実物にお目にかかることは出来なかった。

 山形県も庄内地方に入れば季節は「だだちゃ豆」の季節だった、鶴岡市役所の観光課ではJA(大泉)産地直売所を教えてくれたが、まだはしりの頃なので朝早いうちだけだろうが・・・と言うことだった。暑い夏盛り、いつも薫り高い産地直送の豆をつまんではついビールの量が増えてしまう、今回は自分の目で産地を確認して月山、羽黒山、鳥海山などに見守られて育つ緑の豆達を思った。

 秋になると到来物の「ラ・フランス」が我が家に届く、原産地から和製語のその名をつけられた洋梨は日本では特に山形に定着しているが、原産地ではあまり栽培されていないと言う。木からの収穫のときはまだ未熟で半月ほどの熟成で一気に香りと甘味が訪れるとか、種類によって緑やオード色のザラついた表面だが、その中味の熟成具合を見つけるのがまた楽しくて睨めっこの何日かが必要だ。
今年の頂戴ものは香りも高くとても甘味が強い仕上がり、色の変化や柔らかさなどの表面の変化が少ないのでズバリ当ったときは、「ヤッター!」が加わって滑らかな舌触りとそのジューシーな味に一層の嬉しさがあふれてきた。

 しかし、翁達の旅の頃にはまだなかったラ・フランスはもちろんだが、サクランボ、だだちゃ豆・・・翁達が是非にと勧められて訪ねた山寺(立石寺)への道すがら、紅花の咲く畑は眺めたことだろうが、何を味わったのだろうか?、山寺辺りでは「板そば(簾の代わりに板に載せたそば)」でも楽しんだのだろうか?
 もちろん、山形の名酒に舌鼓を打ったのは間違いないだろう。

(2009)

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