桑の実

 疎開先では養蚕が盛んで春になると母屋の2階、3階には 筵(むしろ)が敷き詰められて お蚕さんに占領された。
2、3階は屋根裏のような感じで天井、床はスノコのようで上下が見通せる、また部屋は 消毒薬の匂いだろうかとても強い匂いが漂っていた。
  気を使う仕事なので大人たちは大変だったのだろう、連れられて蚕室に入ると 薄暗く 棚や筵に乗った桑の葉が目に入った、お蚕さんは桑の葉の上をうごめく 小さな黒い 点から 次第に成長して白い芋虫になって行ゆく、歩けずただひたすら 桑の葉を食べ 続け、蚕室にはザワザワと葉を食べる音が聞こえるようである。
 ためしに 一匹をつまみ上げてみるとひんやりと冷たくて頼りないほどに柔らかく感じられた。

 芋虫のような蚕は白くてお腹に入った桑の緑が透けて見えるようであり 、とても大事 なものに思えてそっと桑の葉に戻した。
桑は小枝を切ってきてお蚕さんたちには布団のようにかぶせた、 すでにお蚕さんが 食べつくした沢山の小枝がそこには残っていた。
  お蚕さんは次第に大きくなり間もなく四角い枠・・・それはまるで蚕マンションのような もの だが・・・に入り身をせわしくくねらせながらあの綺麗な繭玉を作ってゆく、その様 はとても感動的であり間もなく蚕マンションの各部屋には白い繭玉が綺麗に並んだ。

 春先から桑の木は旺盛に葉を茂らせお蚕さんのために小枝は切り取られてゆく、それだから 桑の木といえば背は低くゴツゴツと節をつくりユーモラスな姿で畑にずらりと並んでいた。
 夏の初めになると桑の木にはブツブツとした格好の実が赤く実った、大して旨い物ではないがうす甘い実が食べられると近所の子供が教えてくれた。
  グミの実も摘んだ、口の回りが真っ黒になったことを覚えている、桑の実などは不自由な戦時下のオヤツだったのかも知れない。
 

 桃やブドウの産地だったことは幸いで、季節になるといやになるほど食べることが 出来た。そう、デラ(デラウエア)といえば今でもブドウの中では最も多くお目にかかる 種類だが当時も主流であり甲州本ブドウなどは季節も遅かったし貴重品だった。
  昔は あの小さな粒のデラには一粒一粒に種があり、それを気にすることなく美味しい 果肉と一緒に呑み込むのが地元流であったが、 一方では、 種は盲腸炎の原因になる 等と脅かされもした、 確かに盲腸炎は多かったけれどブドウの種が原因だと証明され ていた訳でもない。
  デラが種無しになったのはずっと後で、開花期の薬品(ジベレリン)処理で種を実ら なくする方法が発明されたからであって、種を作れないブドウの木が出来た訳ではない。

 やがてお蚕さん達が食べ残した桑の小枝も捨てられずに加工されることになった、 それは桑の表皮から繊維を取り出して兵隊さんの軍服にするのだということだった。
蚕の食べかすの小枝は束ねて小川に浸け柔らかくし、「げんのう」で叩き ほぐして 小枝の端からする「スルッ」と皮を剥ぐのである。
簡単なこの仕事は小さな子供でも出来るので、ずい分とやらされたものだった。
  だが、それが本当に兵隊さんの軍服になったかどうかは知らない。

 物が極端に不足してきて日常生活は一段と厳しくなり、町へ行く乗合バスは木炭 バスになり、それすら便数が減っていつも満員、バスは西広門田橋(かわだばし) の停留所を素通りしてしまい、やがて町行きは仕方なく徒歩になってしまった。

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