かぼちゃの煮つけ

 秋の気配がすぐそこ という頃だったようである 。

 愛用の三輪車に乗って家を出発したらしい、三輪車はとても座ってコイで長く走れる ような代物ではないから きっと両手でハンドルを握りステップに片足を乗せてスキップ を繰り返して走って行ったのだろう。

 煙を吐いて走る蒸気機関車を一目見たい一心でその場所へと向っていた、 狭い道をダラダラと登ると目の下を電車が走るガードを通り越す、郊外電車のガードだ。
その先の道はまだしばらく狭くて両側には大きなケヤキが生い茂る農家の屋敷だった、 警察署の前からは東京オリンピックにと準備された、とても広い道になっていて両側には 歩道がずぅ〜っと続いていた、「改正道路」今は「目黒通り」と言われる道路である。

 「この道をずぅ〜っと行けば 汽車が見られるんだ、・・・っと思う!?」
あまり周りの景色などは覚えていない、今も道筋はぜんぜん変わっていないから・・・
大きな坂を下ったところにはロータリーがあった、まだまだそれ程には交通が激しかった 訳ではないから問題はなかったのだろう。

 それから暫らくのきつい坂を上った、権之助坂その坂の上に望みの汽車が見える目黒駅の誇線橋がある、切り通しの橋の上から下の線路を見ていると白い蒸気を一杯に吹き ながら 汽車は勢いよく下を通り過ぎるのだ。
 それを得心するまで眺めて目的を達し、まだ離れがたい気持ちを抑えながら家路についたのだろう?
 

 朝来た道をひたすら三輪車のスキップで家へと向ったに違いない、警察署の前を通り 過ぎ、 郊外電車のガード上の坂道を下って・・・
記憶では三輪車を脇に舗装道路の上にベタッと尻をつき「疲れたなぁッ」と云う感じだった。
もちろんその場所は判っていて、家の近くの靴屋さんの店先だった 「坊や」と声を掛けて くれたのかも知れない。
 次の記憶はもう、迷子になったかと思い 家で心配し続けていた母親が胸に抱きしめ、 朝から行方不明の坊主の行方を警察にまで通知して探してくれていた父親は、知り合い 共々に安堵の胸をなでおろしていた光景にまで飛ぶ。

 迷子とは道に迷った子だが、道に迷ったわけでもなく三輪車を失くした訳でもなく、それに 乗って汽車を見に行った片道 5Kmの道程、今でもバスに乗れば20分以上は掛かろうか。
その後、 親に大きな心配をかけた顛末についてはずい分と語り草になったけれど、ただあの 靴屋の店先から母親の胸までの間・・・どのような経過だったのか、記憶から欠落している。


  汽車を楽しく眺めた時間はどれ位だったのだろうか? 朝から飲まず食わずでお腹を 空かし家に帰った時刻はまだ日が高い午後だった、母親は学校に行っている上の姉妹 たちの 弁当と同じに作ってくれていてそのおかずが甘い「かぼちゃの煮つけ」だったこと を覚えている。
 

 満4歳の夏の終わりのこと、それから程なくして太平洋戦争が激しくなる気配に我が家も 山梨県へ疎開をして行った。

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