じゃがいも

 疎開時代の想い出シリーズを長姉に読んでもらったところ 、懐かしさと共に当時の哀しかった 思いが甦って来たという、何しろ一回り以上年上なので立場が違っていた。

 姉は疎開に際しても、父の世話をするためにそのまま自宅に残っていて、疎開地へやって 来たのは東京大空襲で家の周りも飛び飛びに戦災に遭い、身の安全を考えた両親が決めて からだったと言う。まだ学校へ上がるかどうかと言う歳の弟とは思いが違って当然と言う訳だ。

 ところで、小生の記憶があの終戦の日以降についてハッキリしないのが気になるが、進駐軍の兵隊が ジープに乗って通り過ぎるのを初めて見たのは疎開先の塩山の町でのことだった。
戦時中は飛行機からまかれるビラなどは「ひろってはいけないよ」と云い聞かされていた。それ が毒だったり、爆発したりするといけない・・・などと脅かされもしていたが、町で垣間見た進駐軍の 兵隊は見たところ鬼でもお化けでもなく、ただ当時のジープ特有のかん高い音を撒き散らせて 通り過ぎていった。
駅前のバス車庫では、くたびれた木炭バスが白い煙を思いっ切り上げてもヒーヒーと頼りなげに走る
のとでは大違いのように見えた。

 年が替って春休みになり我が家も東京へ引き揚げることになった。
挨拶にと母に連れられて担任の与田先生のご自宅へ伺った、今にして思えば先生も疎開者 だったのか、あるいはご主人が出征でもされていたのだろうか 戦災も無いところなのに「土蔵」 を住まいにしていて、丁度お子さん達と食事中に伺ったのが印象に残っている。

 東京への引揚げ列車は凄まじいものだった、既に塩山駅に着いた列車には乗客が満員で 車内など入れたものではない、ようやく連結器の渡り板の上へ乗ったものヽそれから新宿駅到着までの間は破れた幌の穴から下を流れ去る線路を見続けていた。
  乗り換えた山手線から郊外電車へ乗り継ぎ、我が家の最寄り駅に降りたときはまだ明るい時間だった、 真っ先に驚いたのは道路がものすごく広く見えたことで、それまでは疎開先の西広門田(かわだ)橋の架かる県道が世の 中で一番の広い道だとの思いに較べれば、東京オリンピックを目標に戦前に整備された改正道路(今の目黒通り)は まさに広場のごとく思える広さだった。

 駅の周辺には既にヤミ市が出来て食料品や日用品が売られていたし、昔からの商店も 商売を始めていたようである。中でも印象深いのは七味唐辛子を目の前で調合しながら売って いる爺さんだったが、それが何故だったのか思い出せない。

   さて、その頃の食糧難は重症で当然我が家の小さな庭も家庭菜園となっていた、けれども父親はどうやら畑作りには熱心でなかったのか何年もの畑になっていたと言う記憶はない 、元のように庭に戻っていた。
  先日、姉が云うにはその頃に近所のおじさんと一緒に茨城県までジャガイモを買出しに行き、帰途家近くの神社前まで帰ってきたものヽ背中と両手の荷物のあまりの重たさにどうしても動けなくな ってとても哀しかったと言う話を聞いた。

 当時は買出しに対する警察の取り締まりも厳しく、サツマイモはおろか芋のつるまでも食料と していた頃の娘盛りだったのだが・・・

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