さつまいも

 戦争が終わりに近づく頃になると 首都圏方面(その頃は帝都と言った)の空襲に 向うB29爆撃機は昼日中でも堂々と四角い編隊で白い飛行機雲を後ろに長く引き、 甲府盆地の上空で旋回して東に向って行くのが見上げられるようになった。
太平洋の島から富士山を目標にやって来るのだと言う話だったが、防空能力をなく した日本の空はすでに敵機にとっては自由な青空になっていたのだろう。

 もともと東京の恵比寿にあった父親の会社は戦火を避けて八王子に移転し、更に戦火に 追われて山梨県の甲府に工場を移していた。 家から遠く東の山の斜面に見える中央本線も停電のためだろうか、列車が立ち往生 する姿もしばしば見えるのだった。
ある時、 父は敵機の空襲で立ち往生した列車から線路脇へ飛び降りた弾みにアキ レス腱を切ってしまい松葉杖をつく姿で家にいた。

 ますます物不足はひどくなって配給所に「豆かす」が積み上げられるところも見た、 大豆から油を絞り摂った{かす}だという事だったが、さすがに食卓に上ることは無 かったようである。もっぱら多くなったのは「すいとん」や「さつまいも」であるが、 さつまいもにも種類が多くて実が白いのや、黄色い「金時」などは最上級だが、 白くてふかすとベチャ〜と水っぽい 「農林・・・何号」のときは何とも憂鬱だった。

 それでも時折は何かの行事でもあると母屋で宴会になり、時にはウサギが 一羽つぶされて料理や汁を上等な物にしていた。
 大人たちは 「どぶろく」や ブドー酒を飲んで たいそう酔っ払っていた。
ここでは産地の利点がまだあったようだった。
 

 田植えを終えて暫らく経った頃の夜、只ならぬ様子でたたき起こされた。
急いで身支度をして防空頭巾をかぶり屋外に出ると西の空が真っ赤に染まって いる、 「甲府が空襲されている」ということだった。
それまで兵隊さんにも時折はお目にかかったし、出征兵士を送る列に並ぶような ことはあっても目の前の戦争は初めてだった。だが遠くに見る空襲は空から数限りない鎖のような光の点がゆっくりと舞い降りて くる、 そして街が燃える光だろうか 雲が赤々と反射していた、焼夷弾だった。
  音はほとんど聞こえ無かったし、周りの誰もが言葉も無かったように思う。

 翌朝、少し茎を伸ばした稲が整然と並ぶ田んぼには、甲府の東に離れた奥野田 村西広門田(かわだ・ 今は甲州市にある)でさえ昨夜の空襲の灰、黒い燃えカスが 一杯に浮いていた、 甲府空襲は昭和20(1945)年7月6日の夜の事だったと言う。
  戦火に追われて甲府まで工場を移していた父親の会社は、またも灰燼となった。

 そして、あの日は朝からの快晴で父親は母家の人達と力を合わせて庭の防空壕 堀りだった、 上空には珍しく朝から日の丸らしい戦闘機が飛んでいた。
 我が家にはラジオがあり。昼の重大放送は縁に置いたその前で皆が揃って聞いた ように思う、何か直には解らないが大人達の雰囲気は只ならないように感じられた。
  暑い盛りの8月15日、くっきりと晴れ上がった南の山並みの向うには富士山がハッキリと見えていた。

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