アイスクリーム

 東京の街にはまだ至る所に戦災の焼け跡が残り、路面電車が走る銀座通りの 尾張町交差点(今の4丁目交差点)では米軍のMPが華麗な身振りで交通整理を していた。
和光(服部時計店)や銀座松屋の建物は接収されてPX(Post Exchange=米軍 の売店、酒保)であり、電車通りの両側にはテントを張って露天商が軒を連ね、 軍の 放出品のタバコや、缶詰、化粧品など並べて商っていた、生活必需品を 商うヤミ市横行の頃の話。

  その頃になると焼け跡で流れ放題にされていた水道管からの漏水も締められてみな止められたし、 一般人の毎日の暮らしぶりにも一定の秩序が出来かかってきた頃だと思う。
それでも食糧、衣料をはじめなんでもがまだ配給、統制だったのである 、 タバコだって配給でキザミで来る、専用の小さな道具に薄紙を置き刻みタバコを 載せてクルクルッと巻く紙タバコつくりを手伝ったり、久し振りにタバコ屋である 新しいタバコの売出しに子供でも順番取りの列に並んで買った、タバコ飲み 達は戦後生まれの「ピース」や「コロナ」の箱を嬉しそうに手にしていたっけ。

 まだ郊外だった我が家近くにその頃 日系二世の米軍軍属が引っ越してきた 。 とても人柄の良い小柄な人だったが、そんなご時世だから時折お裾分けがある、 食料や菓子類は飛び切り上等な部類だったし、見せて貰う分厚いオーダーブック (通信販売のカタログ)からは米国の物資の豊かさに羨ましい思いをさせられた。
  すっかり焼け野原の日本には国産車もなかったし一般日本人の新車輸入も禁止されていて、 唯一占領軍家族の中古車が日本人の乗用車の入手方法だったらしい、 引く手あまたの中古車流通で一年間保有後の売却での儲けは大きく、彼ら占領軍関係者の特権らしかったと今にして思う。
彼もまた毎年新車を買い日本市場に車を供給することにしていたらしい。

 その車はポンティアックであったと思う、既にオートマティック変速機を装備して いたからその頃の米車の中でも高級車の部類に属していたはずである。
彼の新車はある夏の日に近所の子供たちを乗せて街中のドライブに出た、 まだ道路幅は戦前のままの狭さでも少ない交通量なので、大きな米車でも滞ること はなかったし、第一に交通手段は路面電車(都電)のほかには、米軍払い下げの 水陸両用の軍用トラックにお粗末な車体を架装した乗合バスだけだった。

 今の青山通り・外苑前の辺り に通り掛かった時に彼は路端に車を止め、店から 買ってきてくれたのは香ばしいコーンカップに載ったアイスクリームだった。  

 その頃の冷たいものといえば カキ氷かアイスキャンディー、アイスクリームと 言ってもまるでざらざらの氷の様で、まるでクリーム感のないものが日常だった 頃である、口に入れた時それはまるで違った別天地の食べ物だった。
  バニラ風味の山盛りのアイスクリームはぎっしりとコーンカップの中にまで詰まって いるらしく、走り出した車中で美味しいそれを大事に舐めていても中々お仕舞に ならないかのようだった、けれどもやはりアイスクリームは次第に溶けて気を付けて いても流れた滴は腕や膝上にもに落ちた。
子供心に楽しい思いで家に帰ってもその香はまだ残っているような気分であった

  別にこの話がその原点ではないけれど、今でもアイスクリームは大好物である。 各種各様美味しいアイスクリームが氾濫している今時でさえ、これほどまでに 格差を感じさせてくれた素晴らしい冷菓にお目に掛かったことはな
い。

(想い出落書き帖のTOPへ戻る)