手製パン

 戦争が終わり極端に物不足だった世の中は不思議なことが幾つも起こっていた。
品物を買うお金があったらヤミ市で旧軍や軍需産業の隠匿物資(終戦のドサクサに紛れて 倉庫などから持ち出されたような品物)だとか、進駐軍の横流し物資(進駐してきた連合国 軍人達が日用品などを持ち出して町の商人に売りお金にする)などを手に入れる方法も あったかも知れない。
 しかし多くの家庭がそのような余裕がある訳はなく待ち遠しいのは配給の日だった。

 町には配給所がありこの辺りでは空きガレージがそれに当てられていた。待望のお米は 充分な量で配られず、それも玄米だったので家では一升瓶に入れた玄米を細い竹棒で 繰り返し突いて精米しなければならなかった。
 電気も一日何時間と言う制限された供給で、その上夜でも天井から吊るされた裸電球が チカチカと瞬いて突然消えてしまう、停電は日課のようだった。近くのお米屋さんの精米機 はこれでは動かせないので停まったままだった。それでも 幾分電力事情が緩和されて から精米は玄米をお米屋さんに持ち込んで白くしてもらうことになった。
 まだ統制経済の時代 (流通が国に管理制限されている)だったが、お米屋さんの手数料について兎角の噂が囁 かれたりもした。 精米は当然玄米の量に較べて糠の分だけ減量するが、その減量を多めに見積もり白米を 少なく返すのだ、「あのお米屋さんは・・・それで儲けている」などと井戸端の話題にもなる、 いじましくも寂しい時代だった。それが本当に事実かどうかは別として世の中は子供の目 にも混乱していた。

 お米の代わりとして砂糖、サツマイモ、乾燥卵、パインジュース、ウインナソーセージ缶、 米軍の携帯食料缶詰などなど、なかでも小麦粉の白さは抜群だったので記憶している。 それにしても大きな缶詰のパイナップルジュースでは腹の虫は収まるはずはない、それに 比べ小麦粉はうどんにすることも出来るし使い途は広い。
 我家で父親は電気パン焼機を手製した、自分で工夫したのか、あるいは人から聞いてきた ものかは知らないがニクロム線(絶縁体の雲母に巻いた物)などは何処からか持って来た。
木箱の中にそれを仕込んでパン種を焼こうと言う魂胆だったと思う。
必要なイースト菌も何処からか手に入れていた。

 配給の白い小麦粉は手順の通りに練られ、種はやぐらコタツの中に寝かせた、初め温度 調節が上手く出来なかったのか、香りは良いが周りが硬くなってしまった種が出来た・・・ その段階までは記憶にある。やけに白いパンもどきが焼き上がっていたのかも知れない。
いずれにしても父親の工夫はアイデア倒れに終わったのか、その後パン焼機が活躍したと 言う記憶はない。
  他にも木箱の中に白熱電灯を点け熱源にしたアンカ(コタツ)は重宝し長く使っていた。工夫 してその日の生活せざるを得なかった時代の話だ。
21世紀を迎えた今、何不自由なく物があふれかえっている時代からは想像も出来まい。

 けれど、まだ隣近所が何かと助け合っていたし、薪を燃やし、石炭風呂を沸かしていたと してもまだまだ空気も綺麗だったし、東京でも夜空に瞬く綺麗な星を見上げることが出来た。
 大変遅ればせながら先日我が家に新しくパン焼機が入った、朝がパン食の我が家なので かねてからカミさんが狙っていたのがついに実現したのだ。
さっそく計量器、ハカリなどをテーブルに持ち出して楽しそうにパン作りにかかっていた。
キッチンの奥でガーガーとモーターの回る音が聞え、甘くパンを焼く香りが鼻をくすぐる、 やがて時が経ち「ピー」と出来上がりを知らせるパン焼機。

 翌朝から食卓は自家製パンのトーストになった、味・香りとも近頃の贅沢な味 に慣れきった 口をも満足させる出来栄えであった。
この自動機械の手製パンが我家の定番として長続きしそうな気がする。
 

 

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