ごり
芭蕉と曾良は「奥の細道」を進んで金沢に着いた。
百万石を誇るこの町で知己達からの手厚い応対があったことは窺がえるものヽ、一方の芭蕉翁達は道中の猛暑からの旅疲れや、到着後初めて知った訪ねるはずの友人の前年末の訃報、加えて曾良の体調不良などもあったからだろうか、
この地に9泊ほども滞在した割には記述が多くはない。
それほどにはゆっくり出来ない小生の「新・おくの細道」旅は中一日を街歩きする予定の連泊と、いささか控えめである。とは言っても昔この町に勤務した転勤族だった事もあり、またその後も何回か観光で訪ねたこともあるから
、謂わば「路地裏まで知った・・・」なじみの街だった。
今回も一晩、俳句がご趣味のご当地の知人にご厄介になり、創作金沢料理に舌鼓を打ち、地酒を酌み交わしながらすっかりメートルを上げてしまったあたりは芭蕉翁も顔負けだろう。
明くる朝は背中のザックにスケッチブックを詰め出発、駅周辺の変わりように驚き、500円の一日バス券を求めて市内循環バスで駅前を出発した。
|
浅野川小橋で下車、主計(かずえ)町、浅野川畔を歩いて東茶屋、兼六園へと先ずは定番コース、広坂から本多町はお屋敷町の小路を歩いて犀川の川岸に出る。犀川左岸にはむかし随分お世話になった料亭が当時そのままにある。金沢料理の美味に加えて春の桜、窓一杯に爛漫に咲き誇る川岸の古桜を借景する頃の二階の座敷は天下一品である。
まだ小学生だった娘達にも後学のためだなどと思って夕食の座敷に上がったこともある、それは冬の先触れ北陸特有の「ぶりおこし」の霰が音を立てヽ降り始める頃だった。 |
犀川左岸にある古桜 |
さてスケッチ散歩はちょうど昼時である、久しぶりに門をくぐったものヽ生憎その日は月に一度の
調理場整理の定休日だとのこと、帳場に女将さんへの伝言を頼んだだけであきらめざるを得なかった。
代りの昼飯は犀川大橋際の魚屋さん、今は食堂だけの営業になってはいたが、相変わらずの庶民的な献立で店内は土地っ子たちの昼時だった。食後の探訪は寺町から始めて西茶屋の検番の辺りをスケッチ、そして街に戻って片町から長町の武家屋敷へ、さらに尾山神社から近江町市場まで・・・本当に良く歩いた。一日バス券を使ったのは3回だけだったから元値はギリギリ取れたろうか?
ところで旅を終えて帰宅すると早速記憶も覚めないうちにと制作を始める。この日はたまたま家に娘が遊びに来ていた、画室ではちょうど金沢の風景の制作をはじめたところに電話が鳴
って、犀川岸の料亭の女将さんからのコールだった。留守にしていた詫びや生憎の定休日の言い訳などがあったが、聞えてくる声は昔と少しも変わらぬ金沢弁・・・若女将たちもがんばっているけれど、やはり自分が出なければならないお座敷も・・・などと元気な声が聞えてきて
遠い昔の思い出がよみがえってきた。
電話の会話を脇で聞いていた娘は昔の座敷に上がった記憶は定かではないけれど・・・ただ、お椀の中からお魚が睨みつけていて怖かった!・・・のを覚えていたそうだ。
お椀の中の魚は「ごり」、金沢名物で「はぜ」のような姿の清冽な水を好むカジカ科の川魚は美味だけれど、椀の汁の中に白目をくっきり覗かせているのは子供には不気味だったかも知れない。
海が荒れはじめる「ぶりおこし」の季節からは北陸の魚が一段と旨くなるという、かぶら寿司、治部煮などなど・・・料理の味を生かす加賀の地酒・・・あヽ思い出してもたまらない。
犀川の中州の葦などが大きく茂っていて気になったので女将さんに尋ねると、年に何度か市が整理をするそうだが、野鳥など茂みの自然への影響も考えているとのこと、
最近では犀川の「ごり」の生息数も多くなったと言うことだった。
(2009)
想い出落書き帖のTOPへ戻る
|