駅前ラーメン


 40年ほど前の話である、思い立って一人新宿発夜行列車の客となり 信州に向う 一人旅は生まれて初めてのことで、友人連中と一緒にワイ ワイガヤガヤと賑や かなそれまでの旅行とは勝手が少し違っていた。
  ゆっくりと走る夜行列車、夜明けの洗顔をしたのはホームの洗面所 下諏訪か、 塩尻駅だったかは定かではない。 松本では大糸南線の茶色の電車に乗り換え、ゴトゴト走る電車の窓からは まだ白雪の残るアルプスを眺められ、 やがて信濃四谷(白馬)駅のホームに 降り立った 。
  うららかな春になってもスキー場のリフトは動いていた、こんな時期に訪れる客は 少なく、八方尾根のスキーリフトに一人腰掛けて登って行っても雪の消えた地面は 足下に遠く、ただ快晴のこの日 見渡す眺望は素晴らしく大きく気持ちが良かった。

 山を下りて大糸北線へ乗り継ぎ、庇かと思えるほどに崖 の迫ったその下を姫川 沿いに糸魚川まで気動車は走る、糸魚川駅では当時まだ蒸気機関車が客車を 牽く北陸本線の各停に乗り換え程なくの「親不知」駅に降り立った。

 親不知駅の周辺には何もなく、駅前の国道が海岸沿いに通じている だけの寂しい光景だった。 駅前バス停の時刻表には一日何本も走らない定期バス、最終便にはまだ相当 間がある事を確かめ、目的の親不知の難所に向って国道を歩き始めたのである。
当時は海岸に迫る崖の中腹を砂利道が曲がりくねって延びているだけ、時折徒歩 の小生へも遠慮なく砂煙りを浴びせてかけてトラックが通り過ぎるだけだった。

 親不知の難所の辺りにやっとたどり着き、小説にも厳しいと描かれた景色を眺め、 やがて予定の最終バスも来る頃だと思っていると、砂煙を巻き上げながら山蔭を周って定期バスが追い迫って来た。
田舎のバスだから大丈夫・・・と大きく手を 上げて停車してくれるのを待ったのだが、 何と!バスはスピードすら落とさず、もうもうと砂塵を 浴びせかけて通り過ぎて 行ってしまった。
それが 最終便である、 これからヒッチハイクのできる車とて期待できそうにないこの道、 ただ幸いにもまだ 日は高い・・・仕方なくトボトボと道を先へと向わなければならなかった。

  この心細さよ・・・


40年前の市振の関・老松

 

 

 

 


市振海岸・侵食で今はない

 だが、そう悪いことばかりではない、やっと北陸本線の「市振」駅にたどり着く。 親不知駅と次の市振駅のあいだに鉄道はいくつものトンネルを通り抜ける、ここの海岸 には大きな砂利の浜があり、老松も見事な枝を大きく延ばす鄙びた海岸だった。
浜辺の石に腰掛け夕日を眺めていた、今ではこの海岸も侵食ですっかり流され てしまったと聞いている、市振駅は新潟県最後の駅、富山県との国境の関である。
 

 しかし、考えてみると昨夜からのこの一日、何を食べていたのか腹が減ってたまらない、 次の列車時刻まではだいぶ間がある、親切な駅員さんは「なにもない所」だがと駅近くの ラーメン屋さんを教えてくれた。駅を出た先の街道を左に曲がったところにあるその店は、 寂しい集落にたった一軒の食堂で看板さえ出ていなかったかも知れない。
  その店でおばさんが作ってくれたラーメンをすすった、チャーシューや鳴門だけが入った 何の変哲もないその普通のラーメンでも 空腹には特別に美味しく感じられた。

 さて駅舎に戻り、次の列車までの長い待ち時間も過ぎ やって来た各停列車には先程の食堂のオバサンも 乗客、となりの魚津まで行くという、隣席を勧められ土地の話やいろいろな世間話を 聞かせて貰っているうちにすぐに魚津駅到着、既に日も落ち明かりの点いたホームへ降りていった。

 全くガラガラとなった車内、暗くなった鉄路を淡々と走る列車から窓外をぼんやりと 見ながらも、今夜の宿 富山のホテルの風呂が ただ恋しかった。

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