干し柿

 「干柿舎」は小生の父の雅号である。何故そうつけのたか、どんな思いがあったのか・・・ 聞いたことは無かった。京都嵐山の落柿舎辺りがもとだろう。父が戦後まもなく久しぶりの 関西旅行の途中に立ち寄ってきたと、その情景を感慨深げに話していたことがあった。
 生まれ育ちは花の吉野山で、古刹の庭や山の中を走り回っては遊んんでいた幼い頃の 話を両親が 良くよく話していた。母の里も吉野山で蔵王堂のすぐ脇だったが、父の家は 勝手神社の 上で、吉野山では上町と呼ばれていたと言う。

 雪の日はその急峻な坂道で車を引く牛がすべり ひざから血を流してとても可哀想だった という。いまその坂道はコンクリート舗装されているが急峻であることは変わっていない。
当時の上町のガキ大将は父の生涯一番の親友で、晩年になるまで二人の話し込む後姿 を傍から見ては微笑ましさを感じたものだ。そのガキ大将は小生のカミさんの父親、19世紀 末頃の 同年同月生まれの二人のその後は、日本の激流の中 それぞれの道を生き抜き、 そして子供達を育ててくれていた。

 父の過ごした実業の世界では戦争の影、科学技術の進歩など時代の流れに揉まれ続けて いて、中小企業の悲哀を母親や年上の姉妹はいやと言うほど味わっていた。
それでも家族を思い、荒波にもまれる気の優しい父を周りが支えてくれたのは、誠実な父の 姿を認めてくれていたからだと思う。
現役を次代に譲って以降の毎春は、欠かさず吉野山に帰り 花の山を眺め歩き回っていた。

 干柿舎と銘した頃、彫刻に凝って板彫りし着彩した干し柿の額はなかなかの出来映えで 我が家の玄関に永く飾ってあった。彫刻は体力が要るらしい、母には彫刻に懲りすぎ体を 壊したからと言い、それから彫刻刀を持つのをやめてしまった。
 そのあとは書道、書を始めてからは「哲真」と号していた。そして散歩の途中に出逢った 句会にめぐり合ってからは このグループに加わり生涯の交友を続けさせて頂いた。
 俳句では師を囲んでの連句の会はことさら面白かったようで、また書も手習いの俳句同人 や 幼い子供達に手ほどきをする様な賑やかな日々を過ごしていた。

 
 
 父が最後に趣味に加えたのは油絵で、50号のキャンバスなど何枚か我が家に残っている。
実業の世界、趣味の世界で世間に大きく名を上げたという訳ではないけれど、家族を思い 子供達に残してくれた有形無形の父の財産は大きな誇りである。
 良い方々に囲まれた幸せな父の享年は86歳であった。

 父が残した和紙を使って絵を描いたこともある。いま小生が捺す水彩画の落款の 朱肉は 父の愛用した立派なものである、父の何かの祝いに周りの方から贈られた品らしい。
展覧会用の父の書に色を添えた朱肉は、いまは小生の水彩画の落款に彩となっている。

 かつて趣味の世界で父の教えを直接受けたことは無く、筆を持っては足元にも及ばないと 思うけれど、顧みれば吉野山からつながるルーツは、いまの小生に多くの影を伝えている ことを 認めない訳には行かないと思う。

(2007)

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