トウモロコシ 下の娘夫婦が揃って初めて富士登山をして来たから土産だと言って山麓で採れたトウモロコシを
持ってやって来た。娘はそれまでに2度富士山へ登っているが子供の頃の思い出くらいにしか
記憶はないとのこと、二人ともしっかりと装備を整えて挑戦したらしい。
初回は上の娘が5歳 下はまだ3歳にはなっていなかった、夫婦はまだ若かったから子供達の
手を引きながらゆっくりと富士吉田口のつづら折の登山道を登っていった。やがて8合目を通り
過ぎる頃、何のはずみか下の娘が鼻血を出してしまい登山を断念しようかと思った時、とある山室
でアルバイトの若い娘さんが子供二人を預かってくれると気持ち良く言ってくれた。
結局残りの登山は夫婦二人で頂上まで往復してきたのだったが、残念ながら頂上は霧の中にあり
冷たかった。山室のお姉さんに相手をしてもらいながら帰りを待っていた娘二人の機嫌は良かった、
お姉さんと山室に礼を言って下山にかかった。
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当時は砂走りが富士吉田口にもあり下山は直線的に走り降りることが出来たけれど、3歳にはまだ間がある小さな子供にはやはり無理だった。小生は娘を胸に抱いて金剛杖で転倒をガードをしながら砂走りを走り下った、思い返してみても元気だったのだと思う。
当日90歳を越えるお年寄りが登山していて途中で我々も追い越したりしていたが、翌日の新聞には最年長登山記録と報道されていたほどだ、ちなみにその記事には年少記録は3歳と書いてあったから我が娘がその日に登頂成功していれば記録更新だったねと皆で笑ったものだ。 |
そのような経緯もあって次に頂上目指して挑戦したのは下の娘も小学校高学年になってからだ。
スバルラインの終点に車を置いて夜半に登頂を始めたが、東の空にご来光を拝んだのは八合目半
の辺りだったのではないだろうか、冷たく澄み切った空気、地平線に伸びる雲の向こうから意外に
早い
スピードで昇る太陽は神々しく、そこに立って拝めるのは感激的である。
そして娘達と言えば、その上の胸突き八丁などは難のそのピョンピョンと登ってゆく後姿を見ながら、
我が膝を上げる重さを身に染みながら頂上にやっと立ったのを思い出す。
この日の下界は雲も少なく富士五湖や駿河湾、大島など手にとるように見えて素晴らしかった。
小生の初富士登山は中学生である。富士山測候所の職員の方との文通友達だった姉と共に
その方に案内されての登山だった。当時はまだスバルラインなどはなく精進口辺りの5合目まで
全輪駆動のバスに揺られて行った。やはり夜中登山だったが天気が素晴らしく良かったようで星のきらめきが神秘的でさえあったような記憶が残っている。ご来光をどの辺りで迎えたかは定かには
覚えていないけれど 測候所に着いた時は朝食時だったのだろう、圧力釜で炊いたご飯や暖かい
味噌汁などをご馳走になった、また測候所の中を見学させてもらったと思う。
お鉢周りも案内して頂いて 「ここ触ってご覧、暖かいだろう」 と小さな窪みを示し富士山はやはり
火山であることを確認した覚えがある。
下山道は須走口の砂走りを下った、柔らかいさらさらな砂は直ぐ靴の中に詰まり何度も靴を脱いで
中の砂を捨てなければならなかった。山麓の太郎坊というところに測候所の山麓事務所があったよう
だ、我々二人はバス停でご案内いただいた測候所の方とお別れをした。測候所職員の山本さんは
富士山を撮る写真家としても有名だったが残念なことに早逝されたと聞いている。
いまや山頂 剣が峰の富士山測候所は閉鎖されてしまったが、長い間シンボルのようだった白い
レーダードームが出来たのはこの登山の
ずっと後のこと、人力のみが頼りの測候、資材上げも強力
(ごうりき)の肩を頼りの時代だっただけに とても貴重
な経験をさせて頂いたのだと思う。
話は元に戻るが、カミさんは上の娘のところへ孫の顔を見に行って留守、今では一番小さな孫で
さえ、もう小学生になっている。
トウモロコシは教えられた通りに皮をむき鍋の湯には塩を溶かして初めて自分で茹で上げた。
ぎっしりと粒を並べたアツアツのトウモロコシは甘くて
とても旨かった。
(2008)
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