豊後町祇園車 ● 御神殿奉斎車


豊後町祇園車 昭和35年以来43年ぶりに復活

 豊後町の車は中津祇園史上最初の祇園車であり、現在の祇園車の原型と言われています。
豊後町はかつての大友街道で、老舗が軒を並べた町でした。
天和3年(1683年)、豊後町有志から、「闇無し浜神社の祇園社は京都の祇園社から勧請された由緒正しい祇園社です。私たちも京都の祇園にならって美麗な山車を出してはどうでしょうか」との発意がありました。

これに対して当時の中津藩主である小笠原長胤はこの事を許し、早速京都に山車を発注し、豊後町に与えました。これが中津の「祇園車」の発祥と言われています。このとき、長胤公は祇園車だけでなく、後神殿も同時に与えたので豊後町の祇園車は「御神殿奉斎車」という格の高い車となりました。車全体を朱の漆で塗られた優雅な車であったそうです。「踊り車」に対して、豊後町の車は「楽車」と呼ばれ、辻では「影向楽(ようごうがく)という舞が披露されていました。笛の音にあわせて鉦が拍子をとり、白の唐衣に真紅の母衣を背負った稚児たちが輪になって舞うというものでした。
舞が終わると、車の後ろに稚児が続き老舗の傭人が大傘を差してあげたり、大団扇で煽ってあげたりして稚児に付き添ったそうです。囃子も「チキチンチキチンチキチンコンコン」ではなく、傘鉾が後に付き、笛の入った優雅な囃子であったと伝えられています。
今回の調査で、車後上部の鳳凰の裏には安政4年(1857)の裏書が確認され、台輪や兜金などには明治44年(1911)に大規模な補修を行ったという記録も確認されました。

中津祇園の中で、豊後町後神殿奉斎車は特別なものでしたが、戦後に踊り車へと姿を変え、そして昭和35年の祇園祭が最後の参加となりました。以降、「老朽化のため、昭和40年代に豊後町の車は破棄された」というのが祇園関係者内での認識だったのですが、平成15年3月に中津市三保の歴史民族資料館倉庫にほぼすべての部品が保存されているということが判明しました。平成15年4月から7月にかけて、中津祇園研究会を中心に上祇園と下祇園の各町の有志が集い「踊り車」ではなく「御神殿奉斎車」として復元作業に取り組みました。数十年の時を経て、ここに蘇った「御神殿奉斎車」をご覧下さい。
展示場所看板写し

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