年表                                          

@Tレックス Aザ・フー2/20 Bレオン・ラッセル3/28 Cチャックベリー4/17 DGFR6/8 ECS&N8/22 Fビリー・ジョル10/1
G特別編 Hジミ・ヘンドリックス1/21 Iオールマン・ブラザーズ・バンド4/15 Jビーチ・ボーイズ7/1 Kザ・ベンチャーズ11/4

  


そのK ザ・ベンチャーズ

アメリカがビートルズ熱に感染した1965年、日本はテケテケサウンド熱に誰もが感染してしまった。
誰もがベンチャーズだった65年。
ビートルズも「ロックン・ロール・ミュージック」をヒットさせていたがその上にザ・ベンチャーズの「十番街の殺人」と「ダイヤモンド・ヘッド」がありその年だけでも15枚のシングル盤を出している。
エレキサウンドは初め歌詞をつけて ♪ノッテケ ノッテケ ノッテケ サーフィン 波に波に波にノレノレ・・・太陽の彼方♪とほうきを持ってみんなが歌っていた「アストロノウツ」だったと思う。
そのアストロノウツとのジョイントコンサートでベンチャーズは65年1月来日して日本中の若者にベンチャーズの実体とモズライトのカッコ良さを見せることになる。
歌謡曲の世界もエレキを使った橋幸夫の「恋をするなら」がヒットし、いっきにエレキサウンドが若者音楽ブームの頂点に立つ。
ベンチャーズは日本各地のコンサートだけでなくTVにも出演し誰もが外国から来たミュージシャンの実体を目にすることが出来たのは大きかったのだと思う。

ベンチャーズは1958年ドン・ウイルソンとボブ・ボーグルが仕事の部下と上司として知り合いギター好きで意気投合して活動を開始する。
二人のベンチャーズは62年初来日して弘田三枝子、スリー・ファンキーズと共演している、当時はノーキー・エドワーズ、ホーウィー・ジョンソンは二人に雇われる形であっため二人での来日だったようである。


日本からアメリカへ帰るとドラムのホーウイーがメル・テイラーに変り、リードギターもボブがベースのノーキーに本格チェンジされ64年7月、60年の2枚目シングルだった「ウォーク・ドント・ラン」をサーフィンヴァージョン「ウォーク・ドント・ラン64」でヒットさせた。
日本では「急がば回れ64」の邦題で発表され彼らの代表曲になる。
逸早くベンチャーズに心酔した加山雄三、寺内タケシ、山内賢のベンチャーズのとらえ方もタイムリーに日本中にベンチャーズを広めた。

65年のベンチャーズはその年2度目の来日を7月24〜9月3日の1ヶ月以上の間28都市58公演をおこなった。
日本公演で17万人を動員したベンチャーズはTVラジオにも出演し東京でのサイン会には2万人のファンが殺到するに至り社会現象まで引き起こすまでになる。

ベンチャーズは聴いた人観た人へエレキギターのカッコ良さと4人でバンドが演れることを教えてくれ、聴く観る者にプレイする喜びも伝えたと思う。
ギターは高価なものであったので誰もが手にすることは不可能であったが、可能な若者達はギターを手にして“テケテケテケ”し始め誰もがベンチャーズを演奏した。
それは次の年ビートルズが来日してヴォーカルが入るエレキバンドを目にして一変していくことになるが、ベンチャーズの心地良いインストエレキサウンドは永遠に日本人好みの音楽となって毎年夏になるとベンチャーズは日本で最高にご機嫌な永遠のナンバーと“テケテケテケ”をカッコ良く聴かせつづけてくれる。

      

毎年、夏になると日本でプレイするベンチャーズはもう一方で日本に曲の提供をつづけている。
66年ベンチャーズのデモテープに入っていた「Ginza Lights’」に永六輔が詩をつけ当時東宝の加山雄三の「エレキの若大将」に対抗した日活のエレキバンドを組む若者たち“ヤング&フレッシュ”を描いた「青春・ア・ゴーゴー」で主演した山内賢と同じ日活の和泉雅子によって66年9月「二人の銀座」のタイトルで発表され大ヒットする。
作曲で成功を収めたベンチャーズは奥村チヨ「北国の青い空」 山内賢&和泉雅子「東京ナイト」 渚ゆう子「京都の恋」「京都慕情」 小山ルミ「さつらいのギター」 欧陽菲菲「雨の御堂筋」など次々とヒットさせた。
彼らが感じる日本につけられたメロディーは新しい感覚の歌謡曲のジャンルを作り出しベンチャーズもインストで67年6「POPSinJAPAN」のタイトルでヒットさせた。
大ヒットこそしないが、その後もベンチャーズは現代に至るまで曲の提供をつづけている。
日本のポップスシーンでロカビリーとグループサウンズの間にベンチャーズがあり、彼らこそが誰もがロックをプレイする楽しさを教えてくれた始めてのアーティストだと思う。


ドン・ウイルソン(リズムギター)  ボブ・ボーグル(ベース)  ノーキー・エドワーズ(リードギター)  メル・テイラー(ドラム)

最近仲間内で楽しんでいるライブで“アド・ベンチャーズ”さんがベンチャーズを演奏してくれます、聴くたびに・・・なんて良いんだろう・・・って想っています、それは何にもたとえることの出来ないベンチャーズサウンドの素敵さを当時の時代背景の中で体験出来た特権のように思えます。

そのJ ビーチ・ボーイズ

熱くなると必ず聴きたくなる音楽に“サーフィン/ホット・ロッド”がある。
その中でも私が一番気持ちよくなれるのがビーチ・ボーイズのベスト盤《ENDLESS SUMMER》です。
このアルバムは1974年にリリースされ全米NO1になっている。
ビーチ・ボーイズが活動を始めたのはそれより溯ること13年前の1961年、当時のアメリカはベトナム戦争が激化する少し前でビートルズが上陸することなど思いもよらない束の間の穏やかな時代を過していた。
アメリカ西海岸南カリフォルニアのビーチにはサーフィン/ホット・ロッドの音が新しい文化となっていた。
ビーチの近くに住むウィルソン家のサーフィン好きのデニスは兄ブライアンにサーフィンミュージックをやろうと働きかけ、兄弟のカール、従弟マイク、友人アルが参加して自作の「サーフィン」を吹き込む、曲はロスのラジオ局を中心に流されウエスト・コーストに広がっていった。
ビーチ・ボーイズの音楽テーマはサーフィン、車、女の子、ハイスクールなど自分達の日常にメロディーを付けてリズムスタイルは彼らの好きなチャックベリー風R&Rを下地に、なんといってもブライアン・ウイルソンのソングライターのセンスとファルセットを基準に完璧に構成されて歌われるコーラスとハーモニーを最大の武器にして数々のヒット曲をカリフォルニアビーチから世界に発信していった。

ブライアン・ウイルソン(ベース)
 マイク・ラヴ(リードヴォーカル・サックス)
 カール・ウィルソン(リードギター)
アル・ジャーディン(サイドギター)
 デニス・ウィルソン(ドラムス)

夢の夢であるアメリカ少年のライフスタイルが彼らの音楽を耳にすると、不思議と思い浮かんでくる。
ビーチ・ボーイズを始めて知ったのはやはりチャックベリーの「スイート・リトル・シクスティーン」から創られた「サーフィン・USA」だったと思う。
夏の海で波に乗るサーファーや海辺のドライブに最適な軽快なナンバーとサンセットビーチのもの悲しさがシルエットで描かれるような美しいスローなナンバーは60年代初め、ほんの短い夏に誕生した音楽、そしてその音楽は永遠に夏に似合いつづけている。
ビートルズを始めとするブリティシュの波がこなければビーチ・ボーイズはどう変っていったのかと考えると面白い、サーフィン/ホット・ロッドのもう一つの雄“ジャン&ディーン”のディーンはビーチ・ボーイズに対して「ビーチ・ボーイズはサーフィンの世界を開いた、彼らは僕たちからサウンドを貰い、僕たちは彼らから海と車を貰ったんだ」と言った。
ビートルズより先に実験的サウンド作りをしていたブライアンの発展的才能はビートルズにも影響を与えたと思うし、後にウエスト・コースト・サウンドとして世界を魅了する、ママス&パパスの「夢のカリフォルニア」スコット・マッケンジーの「花のサンフランシスコ」イーグルスの「ホテルカリフォルニア」などに受け継がれていると思う。

幾つかのアクシデントを乗り越えてビーチ・ボーイズの美しいハーモニーとサウンドは生きつづけて今年の夏、40th Anniversaryで日本の夏にENDLESS SUMMERを伝える。

ビーチ・ボーイズ JAPAN TOUR 2002
8/23(金) 8/24(土) 東京フォーラム
残念ながらマイクが急病の為中止になりました。7/8


その] オールマン・ブラザーズ・バンド

ツイン・リード、ツイン・ドラムの大胆で小事にこだわらない力強いサウンドは心地良く、「これがサザン・ロックだ!楽しみな!!」彼らの音楽は、いつもそんな風に聴こえる。
南部ならではの温かみにブルースが時に激しく時に穏やかにディアンのスライドギターとディッキー・ベッツのギターの絡みの巧みさのバランスとグレッグのボーカルこそは70年最初のアメリカンロックである。
実力有るディアンのギターにマイアミで遭遇したエリック・クラプトンは彼を誘いクリームからの脱皮を図るべく名曲レイラをレコーディングする、愛しのレイラにサザン的・スワンプ的な部分がどことなく感じられるのは彼の功績であると思う。
そのディアンの死は突然であった、《ライヴ・アット・フィルモア・イースト》をヒットさせた1971年10月29日のバイクによる事故で24年の生涯を閉じてしまった。

        

ディアンの死後1年、ベースのベリー・オークリーも同じバイク事故でABBは失ってしまう、悲劇を乗り越えてグレッグのABBは《Brother・And・Sisters》を全米5週連続bPを記録させ、《ランブリン・マン》は彼らのシングル最大ヒットとなり、アメリカンバンドを代表するようになるが、メンバーのトラブルなどがABBを解散させてしまう、79年に復活するが83年解散してしまう。
当時はバンド名とディアンの死の出来事だけが大きく記憶されて、いつしか過去のバンドになっていってしまったオールマン・ブラザーズ・バンドが89年グレッグ、デッギー、ジェイモー、ブッチのオリジナルメンバーを中心に活動を再開すると91年突然初来日を果たしてビックリした。
残念ながら91年は観ることが出来なかったABBだったが92年にも来日してくれ、観ることが出来た。
何とも言えない円熟したABBはアメリカ流ブルースロック、カントリーフォーク的なアコースティックなサウンドとハーモニがサザン・ロックを充分堪能させてくれた。
ディアン・オールマン
    (スライド・ギター)

グレッグ・オールマン
     (オルガン・ヴォーカル)

ディッキー・ベッツ(ギター)

ベリー・オークリー(ベース)

ブッチ・トラックス(ドラム)

ジョイ・ジョニー・ジョンソン(ドラム)

その\ ジミ・ヘンドリックス

私がジミ・ヘンドリックスを知り聴き始めたのは、彼がこの世で“永遠”になり始めてからでした。
存在は知らなかった分けではないのですが、いけない事なのかもしれないのですが、私の好きなロックは、ルーツに黒人のR&Bを持つ白人が歌い演奏するロックに魅力を感じどんどん彼らに惹かれていきました。
60年代のR・ストーンズを初めとするロックを好きになっていく中で白人ミュージシャンが影響されたアーティストとしてチャック、ベリー、黒人ブルースメン達を知り聴いていました。
彼がサウスポーで天才狂気なギタリストであることを目のあたりにしたのは映画ウッドストックを見たときでした。
それから彼の短い生涯と音楽にのめり込んでしまった時期があり、FMで彼の特集がありテープにとり繰り返し聴いたことを思い出します。
彼の音楽シーンでの活躍は僅か4年余りであるが、活動はリトル・リチャード、サム・クックなどのアメリカR&B、ソールシンガーのバックでギターを弾き、彼独特のテクニックは研ぎ澄まされ、66年チャス・チャンドラー(アニマルズ)に誘われイギリスに渡るところからロックシーンで驚異的な存在となります。
当時イギリスのロックシーンはアメリカに影響されたロックバンドがブリティッシュロックを確立したスタイルとしてボリュームを最大に上げて延々とブルースロックのギターソロを弾きまくっていた時期で、そこへ突然現れたジミ・ヘンドリックスのギターは見事に受け入れられ・ヘイジョー・紫のけむり・風の中のマリー・とヒットさせる。
そして何より彼のギターテクニックに関心を寄せ出演クラブに足を運んだのは他でもないアメリカをはじめ世界的にすでにトップアーティストとなっていたブリティシュロックの面々であった。
破壊的なロックザ・フーのピート・タウンゼント、ロックギターを極めていたジェフ・ベック、エリック・クラプトン、ストーンズ、ビートルズまでが彼に脅威を覚えながらも彼を認め賛辞をある者は素直にある者はヒネクリ送りました。
アメリカでは彼は無名だったと言うよりも、彼を知るアメリカのミュージシャンは彼を煙ったくさえ思い認めようとしなかったようです。
そして1967年ジミ・ヘンドリックス・エクスペリアンスはポール・マッカートニーの推薦とブライアン・ジョーンズの紹介でモンタレー・ポップ・フェスティヴァルのステージにザ・フーの後、登場した。
彼がアメリカではダメでイギリスに渡って逆上陸したことさえ知らなかった者達の前で・ライク・ア・ローリング・ストーンを演奏しワイルド・シングで彼はギターを股間からにわかに立たせ弾きまくった。

    

イギリスから来たアメリカ人は背中で、歯で、転がりながらギターを弾き巨大アンプとの忘我の境地へ我が身と聴衆を引き連れフェイド・バックさせた音の余韻の中、床に寝かせたギターに油を振り掛けると火を放ち叩き破壊した。
サイケデリックなトリップの中ジミ・ヘンドリックスはその時アメリカの頂点に立ってしまった。
アメリカにしてみればビートルズ、ストーンズに征服されたポップシーンを取り戻し始めていたときに叉イギリスからやって来たバンドに打ちのめされてしまったのである。
66年頃からヒッピー、サイケデリックと新しい方向へ動き出していたロックはドラッグとフラワー・ムーブメントと67年のジミ・ヘンドリックスによって幻覚状態を彷徨うことになってしまった。
サイケデリックなクリームもサージェントペッパーズのビートルズもドラッグの象徴ストーンズも皆トリップした時、ジミ・ヘンのギターの音が聴こえていたのだと思う。

僕にはジェフ・ベックよりいいフレーズがあるし、ジェフには僕よりいいフレーズがある、しかし僕ら二人が束になっても、ジミ・ヘンドリックスにはかなわない。      Eric・Clapton

ジミ・ヘンドリックスには、誰もがぶったまげたね、奴はB・B・キングと同じくらいにすごいブルース・プレイヤーだった、きっと逆立ちしたって弾けたぜ。                 Mick・Jagger


エレクトリック=ファンキー=ブルース=チャーチ=ミュージック。                              Jimi・Hendrix
黒人ブルースメンに憧れた白人ロックミュージシャンに認められ、気がつけば頂点に立ち、ドラックとエレクトリックの幻覚状態の中で1970年9月18日恋人モニカの部屋で逝ってしまった。
ギターでできることがまだあったのかなかったのかは分からないが、彼を超えるエレクトリックギタリストは出ていないと21世紀になっても語り継がれている。
彼が心酔したアーティストはビートルズ、ストーンズがアメリカを征服した時、一人でアメリカを背負っていたボブ・ディランだった所がジミ・ヘンドリックスをより好きにさせる。

その[特別編 ビートルズと本多康弘

少し前《開運なんでも鑑定団》にビートルズものが出品された、ビートルズとなれば、ビートルズ鑑定士“本多康弘氏”の登場となる。
長身でなんとなくジョンレノンを意識したような風貌を漂わせて彼は静かに、楽しそうに、嬉しそうに出品されたレコードに魅入る、この日のお宝はビートルズ日本初代デレクター高嶋氏所有のビートルズ来日時に制作され、ビートルズ側からクレームがつき未発売レコードとなった幻の欠番THE BEST OB THE BEATLESに80万円の値をつけた。

昨年の夏、本多氏のビートルズ研究所へ行きました。
私は基本的にストーンズ派です、ビートルズより“ヤッパ、ストーンズさ!”ってどこかで思うようにしているのですが、やはりビートルズの魅力は接っしてしまうと否定できなくなり入り込んでしまいます。
その時もUKピクチャーレコードを探しに研究所へ寄ってみました。
研究所のお宝を見せてもらっていると、本多氏が部屋(研究所はマンションの一室)に入って来ました。
軽く会釈をすると、本多氏が「どんなものをお探しですか?」と話し掛けてきました。
UKピクチャーのことを話すと本多氏はピクチャーレコードの解説から何故金額に違いがあるのか、盤によってデザインの違いがあることなど疑問の解ける話をしてくれました。
いろいろな話をしてくれる中で本多氏の本物へのこだわりが伝わってきます。
特にサインへのこだわりは凄い迫力で感じられました。
偽物を許さない気持ち、サインの書かれた状況、時代背景を思えば確かに60年代初期〜中期のビートルズの状態、サインのもらえたファンの状態、その時代の経済、若者の社会環境などそれらの指摘、解説の説得力に驚かされました。
多数のファイルされたサインのデーター、海外オークションでの他の落札者が出品された商品を見るより本多氏の動向を見て手を上げるので扉の向うで密かに出品物を鑑定するなどのエピソード正に研究をした研究の成果が世界に4人足らずのビートルズサイン鑑定士となり、ビートルズを文化と言わしめ、社会現象としての価値観で捉え、よくぞ極めてくれたと思いました。

 
お宝の研究所と本多氏(左)と私(恥ずかしながら)      説明してくれた本多氏のサイン

本多氏はサインのこだわりを沢山の資料を見せながら偽物と本物の違いについて解いてくれます、自分のサインでの見比べ、ポールのサインでの見比べ、ジョンのサインでの見比べ、偽者の多いのもビートルズならではのエピソードです。
幾つか書いたメンバーのサインを頂ければと思いましたが、本多氏は「このサインは普通の人では本物に見えるので残念ですけど」という訳でいただけなかったのですが本多氏のサインは頂けました。
本物を見分ける秘訣は?の答えは、微妙なビートルズメンバーのくせの見極めと、それ以上に感じる
《オーラ》だそうです!
凄いことだと思いました。

その日は機嫌が良いとのことで、「いいものを見せましょう」ととなりの事務所からわざわざ持ってきてくれたものは、星川ルミ子さんより貰ったブレスレットでした。
ビートルズに会った最初の日本人、ミュージックライフの編集長星川ルミ子さん!すぐ私の脳裏に数々の当時のことが蘇ります。
そのブレスレットはミュージックライフの表紙になった、ビートルズとルミ子さん、その時ルミ子さんがしていたもので、本多さんがルミ子さんより頂いた時のこと、本多氏の最高のお宝になったこと、ビートルズを日本に紹介した話など最高でした。
そしてなんといっても私がストーンズの話をしようとすると、「あらそいになるとこまりますから」とビートルズの話に終始する本多氏、また本多氏が言った「一つ持ったらいいですよ」とサインを勧めてくれたこと、私もビートルズ関連のお宝はかなり目にしているのですが、エスキモーカバーを見てみたいというとその日は研究所には無かったのですが詳しい説明をしてくれたこと、宝くじがあたったら「ここで販売しているものは売りません、私も食べていかなければなりませんので」と言う本音話など、貴重な楽しい時間が送れました。
ビートルズ4人のそろったサイン、欲しくなりました、私も本多氏もいまだに宝くじには当たっていないようです。

アーティストのプレミア物をコレクションする!
音楽を耳と感性、目と感性で楽しむのも素敵である!

ビートルズ研究所 TEL03−3366−5661
高田馬場駅徒歩3分 早稲田口を出てすぐの商店街、栄通りを入る、約100mクリーニング屋のある所パチスロB&Bを右に曲がる、橋を渡りまっすぐ約120m、左側にある茶色い大きなマンション「ジョリー・メゾン・ヌベル」の407号

そのZ ビリー・ジョエル

米中枢同時テロから11日目、4日間の準備期間でアメリカは被害者への寄付を呼びかける番組を全ての垣根を払い世界に発信呼びかけた。
トムクルーズ、ジュリアロバーツ、シルベスタースタローン、ムハマドアリ、クリントイーストウッド等俳優著名人、イマジンを唄うニールヤング、ヒーローを唄うマライアキャリー、明日に架ける橋を唄うポールサイモン等ミュージシャンが悲しみを悲しいままにコメントし切々と唄う、それはイベントではなく企画されたものでもなくアメリカエンターテイメントの歴史者達が自ら受けてしまった悲しみを“Amerika:A Tribute to Heroes(アメリカ英雄賛歌)”の元集まり決して演じられたものでなく、救済と復興に対するものであると言うよりハートの悲しさだけが伝わってくるものを感じてしまうと同時にアメリカの大きさ凄さを強さを感じさせた。
どれくらいの数のローソクに火が付けられたのかそれをバックにウイりーネルソンを中心にラストでアメリカのエンターテイナーが“アメリカ・ザ・ビューティフル”を悲しく熱く唄って放送は終った。
その中でニューヨーク生まれのビリージョエルはピアノに消防士のヘルメットを置き、“ニューヨークの想い”を唄う、切なさと戸惑い、そして一番感じるのは、ぶつけようのない悲しみと悲しんでいるハートであった。   
空へ空へ誇らしげに伸びる摩天楼こそがニューヨークでありマンハッタンであるのは確かであると思うがビりーに感じるニューヨークは摩天楼の谷間にあるニューヨークを唄っているように、ずっと想っている。
70年代も後半になって・ストレンジャー・を聴いた、イントロのピアノ、口笛は哀愁をおび日本で大ヒットとなりアメリカでは・素顔のままで・が第21回グラミー賞最優秀シングルを受賞しビリージョエルは世界ののトップロックアーティストとなった、そして・ピアノマン・を知り、ニューヨークの想いを聴き、ストレンジャーの次のアルバム《ニューヨーク52番街》はまさにアメリカの都会にある谷間の部分が切なく激しく唄われた最高傑作として聴き、アメリカウエストコーストとは違うイーストコースとの雰囲気を色々な形で想像豊かに導くものであったことを思い出させる、そしてビリージョエルの音楽は崩れ落ちた摩天楼で身を粉にして活動する消防士と犠牲になった消防士のタフさと悲しみを改めて感じる。

☆ ☆ ☆ 悲しみだけが増えていく戦争で無いことを願いたい ☆ ☆ ☆










79年来日パンフレットカバーの裏面に書かれたマンハッタンのイラスト。
FINANCIAL DISTRICT地区にWOLD TRADE CENTERが書かれている。
ビリージョエルのコンサートへ初めて出かけたのは来日2度目の1979年5月のことでストレンジャー、素顔のままでがヒットしてマイライフ、ビッグ・ショット、オネスティがFM放送でよく聴こえてきた頃だったと思う、武道館のステージセンターでピアノを弾きながら唄うビりーは彼らしいジーパンにシンプルなジャケットで数々のヒット曲を演じる、当時のアメリカのロックはどちらかと言えばカントリーの流れから来る南部西海岸的なロック、ロックンロールであった時期でそんなイメージを強くして聴いていた。

            

70年代に入って多様化したロックからアメリカ本来のロックポップスの真の姿をビリージョエルが繰り出す音楽に見つけ気づかせるものだったような気がしたことを覚えている。
都会、ニューヨーク、ダウンタウン、奥の深いクラシック、薄暗い照明に煙草の煙とつよい酒が似合うBARで演奏されるジャズ、そしてアメリカンロックンロールがテンポよく弾かれる、ビリーの音楽はブリティッシュロック、ウエストコーストロックから都会的なアメリカを取り戻した感じがした。
ビりーが語るように唄う《オネスティ》は私にとってポール・マッカートニーの《イエスタディ》ジョンレ・ノンの《イマジン》に値する名曲となって聴くたびに新しい感動と癒しを与えてくれる。


95年1月45歳のビリージョエルはロック色をより強くして聴かせてくれた、ピアノ、ギターを巧みに操り93年にリリースしたアルバム《リバー・オブ・ドリームス》で円熟期を迎え同アルバムよりノーマンズ・ランドからロックンロールしてくれた。
そのレパートリーにビートルズのア・ハードデイズ・ナイトを入れたり親日家らしく・さくらさくら・のメロディーを奏で、痛い足をかばうことなく(当時足にケガをしていた)相撲のしこを踏んだりと、元気を振りまき楽しませてくれた、もちろんニューヨーク、アメリカも充分感じさせていた。
60・70年代のロックアーティストがスタンダードにならずに脈々とプレーしつづける姿は、現役プレーヤーを確認させてくれた。




ビリージョエルは長い下済みを経て一流アーティストになった、彼が若い時
《ニューヨークで生き抜いて行くためにはタフでなくちゃ》
と語っている、
タフなアメリカが平和を取り戻したらビリージョエルのタフなニューヨークを聴いてみたい。