邦楽の歴史
1966年(昭和41年)高1の12月に初めてのレコード・加山雄三の君といつまでも・を買って、ポータブル電蓄で、繰返し聴いて、サファイア針が駄目になったのか、レコードが擦り切れたのか、針が飛び雑音だらけになるまで1枚のレコードを聴いた、それまではラジオの音楽番組を耳で、TVの音楽番組を耳と目で楽しんで来た邦楽にレコードを聴く楽しみが増えた、このページは流行歌、歌謡曲、GS、フォーク、Jロック、ニューミュージックの歴史年表です。
1951年S26 第1回紅白歌合戦放送 日本初LPレコード発売 1955年S30 マンボ・チャチャチャ・シャンソンがブーム 1956年S31 ジャズ喫茶に若者の出入が増え始める 1957年S32 ジャズ喫茶を中心にロカビリーが流行りだす 1958年S33 ロカビリーブーム 第1回ウエスタンカーニバル、日劇で開催 1959年S34 フジTV、ザヒットパレードスタート ザピーナツ・可愛い花・でデビュー 第1回レコード大賞・黒い花びら・水原弘受賞 |
50年代の邦楽はラジオから聞こえる流行歌の中に江利チエミのテネシーワルツのヒットから始まったカバー曲が流されるようになり、小坂一也、山下敬二郎、平尾昌晃、ミッキーカーティス等が、それまでジャズの生演奏を聴かせていたジャズ喫茶に進出してロカビリーを歌い始める、腰を振り、ギターを掻き鳴らす彼等は凄い勢いでスターになりウエスタンカーニバルが開かれ、紙テープとティーンの悲鳴のなかで日本にアメリカ音楽文化が完全に入り込む。 TVの普及に合わせ、宮川泰、平尾昌晃等が歌謡曲とは違うオリジナル曲を書き始め日本のポップスの歴史は東京から全国の若者を夢中にさせていった。 |
1960年S35 4月 西田佐知子・あかしやの雨がやむとき・ヒット ニールセダカ来日 7月 ハリーベラホォンテ来日 |
58年のポールアンカに続き来日したニールセダカは東京、千葉、札幌、川崎で公演を行い日本にアメリカンポップスの魅力を見せる。 紅白歌合戦で、ザピーナツ・悲しき16歳・森山加代子・月影のキューバ・ミッキーカーチス・恋の片道切符・などカバー曲が歌われる。 |
1961年S36 1月 キングストントリオ来日 2月 渡辺マリ・東京ドドンパ娘・ヒット 3月 ブライアンハイランド来日 6月 シャボン玉ホリデー放送開始 10月 坂本九・上を向いて歩こう・ヒット 11月 弘田三枝子デビュー |
ジャズ喫茶から人気が出たロカビリー歌手達がドーナツ盤レコードの普及と共にTVに進出してカバー曲を次から次へヒットさせていった、ロカビリ−歌手たちのカッコ良さとガールズポップスを歌う女の子たちの可愛さ、そして何より曲のイメージを上手く日本語に訳した作詞家たちの活躍は流行歌の時代をポップスの時代に変えはじめ、永六輔、中村八大による上をむいて歩こうが作られTV夢であいましょうで紹介され、大ヒットする。 |
1962年S37 3月 パットブーン来日 5月 ブラザーズフォー来日 6月 PPM来日 ジェリー藤尾・遠くへ行きたい・ヒツト |
ツイストが大流行したこの年は、去年からのカバーポップスが依然流行り飯田久彦・ルイジアナママ・弘田三枝子・ヴァケーション・中尾ミエ・可愛いベイビー・がヒットする、中尾ミエは伊東ゆかり、園マリとスパーク3人娘を結成する、ザピーナツは恋のバカンスをヒットさせ和製ポップスがTVで毎日放送される。 アメリカフォークミュージシャンの来日も増えはじめ、日本フォークフェスティバルが初めて開かれる。 |
1963年S38 2月 ツイストのチャビーチェッカー来日 6月 舟木一夫デビュー 7月 梓みちよ・こんにちは赤ちゃん・ヒット 12月 紅白でスパーク3人娘キュティーパイ・メドレー歌う |
夢であいましょう、シャボン玉ホリディーからカバーポップス、和製ポップスのヒット曲が生まれる中、S36年の上を向いて歩こうが全米で1位、英国で6位になり、前年の遠くへ行きたいのヒットに続き、永六輔、中村八大コンビのこんにちは赤ちゃんがレコード大賞に輝きアメリカンポップスから影響を受けた音楽が日本の歌謡曲の頂点に立つ。 |
1964年S39 1月 3人娘、安井かずみ作詞、宮川泰作曲・聞いちゃった!歌っ ちゃった!ないちゃった!・競作 4月 ビートルズ、LPレコード発売される スリーファンキーズ・抱きしめたい・発売 8月 日劇ウエスタンカーニバル、ビートルズ色で開催、この時1番 人気はデビュー前のジャニーズ |
4月ビートルズの・シーラブズユー・キャントバイミーラブ・フロムミートゥユー・が同時発売されると、日本にビートルズ旋風が瞬く間に広がりそれまでのアメリカンカバーポップスに和製ビートルズが次から次と出始める又アストロノウツ・太陽の彼方・のヒット、日本語でもカバーされ和製サーフィン曲で橋幸夫の曲がヒットする、エレキギターサウンドが和製ポップス、歌謡曲の演奏に欠かせないものになる。 |
1965年S40 1月 ベンチャーズ、アストロノウツ来日 2月 グヤトーン全国アマチュアバンドコンテスト、スタート 4月 洋楽レーベルからエミージャクソン・涙の太陽・ホットリヴァー (湯川れい子)作詞、中島安敏作曲で発売されヒットする 5月 東京でモンキーで踊ろう開催、フリフリでデビューしたザスパ イダースが話題 6月 勝ち抜きエレキ合戦スタート 7月 ベンチャーズ1ヵ月で58回の日本公演、17万人動員 12月 加山雄三・エレキの若大将・封切り |
世界中がビートルズ中心に動いている頃、日本ではテケテケテケのベンチャーズ人気が完全にビートルズを抜き日本中にエレキブームを作り、TV局はアマチュアバンドコンテスト番組をスタートさせ、加山雄三の君が好きだからで寺内タケシとブルージーンズがエレキ合戦のレギラーバンドでシャープフォークスがプロの演奏を聴かせ、自作自演・加山雄三・君といつまでも・夜空の星・が和製ポップスとして本格的に洋楽レーベルから発売されるようになりまだGSなどと言わないロカビリーバンドのスパイダースがかまやつひろし作曲のオリジナル曲を出し和製ポップスは急速にエレキと言う武器を手にして日本独自のサウンドを作り出してゆく、レコードジャケットはほとんどギターを持つショットが使われ、ベンチャーズのモズライトは加山雄三、寺内タケシが使い、ジョンレノンのリッケンバッカーは井上孝之が使い、最高の憧れだった。 紅白でピーナツがロックンロールミュージックを歌う。 |
1966年S41 1月 ビーチボーイズ来日 君といつまでもヒット 3月 スパイダース・ノーノーボーイ・発売 ブルーコメッツ・青い瞳・英語盤発売 4月 スバイダース発LP発売 5月 ファニーズ、京都バンドコンテスト優勝 6月 ビートルズ来日 荒木一郎・空に星があるように・発売 マイク真木・バラが咲いた・発売 7月 フォーク合戦TV放送開始 8月 スパイダース・夕陽が泣いている・発売ヒット 9月 勝ち抜きエレキ合戦終了 10月 ヤング720放送開始 11月 ファニーズ改めタイガース、TV初出演 |
ベンチャーズをコピーするバンドがビートルズの来日に合わせるように演奏だけからボーカルを入れ東西のジャズ喫茶で人気を集めるようになる、同じ時期和製フォーク第1弾バラが咲いたがヒットしてフォーク人気も出始めたが、スパイダースの夕日が泣いている、ブルコメが青い瞳を日本語で発売するとグループサウンズが日本中を熱狂の渦の中に引き込み始める、その頃大阪ジャズ喫茶ナンバー1番で内田裕也にファニーズ(タイガース)がスカウトされ上京する、加山雄三はランチャーズをバックにヒット曲を次から次へ出し、寺内タケシはブルージーンズを抜けボーカルバンドバニーズを結成する、グループサウンズこの言葉を初めて使ったのは、自然発生的に使われてきたが、加山雄三、寺内タケシこの二人のどちらかである事は確かである、寺内さんは自分で語っている、若大将はワイルドワンズの上田さんに尋ねられ、答えている、そんな事に拘る時間を与えることなくGSバンドが動き出した。 バラが咲いた、夕陽が泣いている共に、浜口倉之助の作品である。 ザサベージがエレキ合戦を経てデビュー、ヴィレッジシンガース、暗い砂浜でデビュー、ワイルドワンズ、思い出の渚でデビューしたこの年の紅白に青い瞳でブルコメが初出場を果たす。 |
1967年S42 1月 森山良子・この広い野原いっぱい・デビュー 2月 ザ・タイガース・僕のマリー・デビュー 5月 ニューポートフェスティバルインジャパーン開催 6月 ジャニーズ・太陽のあいつ・ヒット 7月 第1回関西フォークキャンプ開催 8月 第33回日劇ウエスタンカーニバルGS最高メンバーで開催 9月 第1回全日本ライトミュージックコンテスト開催 10月 フォーククルセダース・ハレンチ・自主制作 ザ・テンプターズ・忘れ得ぬ君・デビュー 12月 スパイダース、ブルコメ、タイガース武道館コンサート フォークル・帰って来たヨッパライ・発売 |
GSの人気高まるこの年、タイガースのデビューが世の中全てを巻き込み、ジャガース、カーナビーツ、ゴールデンカップスと次々デビューしてヒット曲が世に出る、そしてテンプターズのデビューでスパイダース、ブルコメ、タイガース、テンプターズがジャズ喫茶、日劇ウエスタンカーニバルでオリジナル曲に欧米のロックをカバーしたステージを見せ、TV歌番組のメインでオリジナルヒット曲を演奏してブルコメは第9回レコード大賞に輝く。 その一方で関西方面で新しい音楽の動きが始まる、GSの出現で静かな動きになっていたフォークである、フォークル、高石友也、中川五郎等がエレキでないアコースティクギターで自分達で作った歌をうたいはじめる。 |
1968年S43 1月 解散後日本だけのコンサートでウォーカーブラザーズ来日 2月 フォークル・イムジン河・発売中止 3月 アンダーグラウンド音楽祭開催 5月 オックス・ガールフレンド・デビュー 8月 岡林信康・山谷ブルース・デビュー 10月 フォーククルセダーズ解散 |
ヒッピーからサイケと世の中の若者文化は多方面で社会問題化して来るが音楽界はGSの勢いを止めることなく、ジュリー、ショーケン、チャッピーと人気の競い合いをエスカレートさせウエスタンカーニバルはそれぞれのバンドの戦いのステージとなりファンもそれ以上に悲鳴をあげた、レコード会社、プロダクションは後先考えることなくレコードを作りTV、ステージを機械的に消化させていく、カッコ良くて素敵な音楽が商業主義化する中オックスがデビューする。 この年、フォークルは1年で解散を銘打って、加藤和彦、はしだのりひこ、北山修はフォークギター2本、ウッドベースと言うスタイルで自分たちの可能性を1年間で作り上げ今までの音楽業界の形を変えて行く、同時期ボブディランの影響を受けたであろう岡林信康がギター1本で歌いアングラ、反戦フォークの歴史が始まる。 |
1969年S44 2月 アングラレコード設立 新宿フォークゲリラ土曜日集会始まる カルメンマキ・時には母のない子のように・デビュー 3月 加橋かつみタイガース脱退、後任岸部四郎 7月 3千人の機動隊によるフォークゲリラ排除 8月 第1回中津川フォークジャンボリー開催 9月 第1回10円コンサート開催 第1回日本ロックフェスティバル開催 |
TVの歌番組はミニスカートの女性ポップスが華やかにヒット曲を歌い人気を集めるようになると、GSの人気にかげりが出てくる、それでもタイガース、テンプターズはヒット曲を出し続けるが、GS最後の社会現象となるオックスの失神騒動はGSの行き着く場所であったかのように滅びの路で喘いでいた、人気、ヒット曲の継続をアーチストが出来ない形態の中にあってGSバンドの幾つかが自分達でロックの道へ歩き始め自主的なコンサートが開かれるようになる、ウッドストックを体験した成毛滋、内田裕也、ゴールデンカップス、モップスなどである。 学生運動、対抗文化等の政治運動からボブディランに影響された高石友也、中川五郎、岡林信康、五つの赤い風船等がURCを設立メッセージソングを歌いURCと中津川労音は、第一回中津川ジャンボリーを開催する、このコンサートでジャックスの解散が発表され日本の音楽シーンの急変を暗示させて60年代は幕を下ろす。 |
1970年S45 1月 第2回ロックフェスティバル開催 2月 ソルィーシュガーデビュー 3月 RCサクセション・宝くじは買わない・デビュー ぶぁれんたい・ブルー、はっぴーえんどに改名 4月 よしだたくろう ・古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう・発売 6月 よしだたくろう、エレックより・イメージの詩・デビュー 8月 第2回フォークジャンボリー開催 9月 第1回日本語のろっくとふぉーくのコンサート日比谷野音 12月 ロックカーニバル♯1開催 |
60年代最後に出現したフォーク、ロックはメッセージ色を強くしてこの年内田裕也のロック勢、岡林信康のフォークロック勢は共に野外ライブの聖地である、日比谷野音を舞台に強烈なエネルギーをそこへ集まる若者を巻き込み社会へ浸透させていく。 よしだたくろう、赤い鳥、オフコース、ジローズ、フラワートラベリンバンド、アンドレカンドレ(井上陽水)、小椋佳、がデビューして岡林信康ははっぴいえんどを率いてフォークロックで新しい支持を受け、加川良はフォークジャンボリーに飛び入り、柳ジョージはゴールデンカップスに参加する、そしてGSの言葉さえあまり言われなくなったタイガースに最後のトップテンに入る・都会・のヒットが生れている。 新しい若者音楽の方向が見え始めていた。 |
1971年S46 1月 ザ・タイガース解散 2月 PYG結成 4月 PYG・、花・太陽・雨発売 6月 加川良・教訓・デビュー 7月 GFR豪雨の後楽園コンサート 8月 ハコネ・アフロディーテ(ピンクフロイド)開催 第3回中津川フォークジャンボリー開催 (たくろう人間なんて2時間の絶叫) はっぴいえんどデビュー 9月 レッド・ツェッペリン初来日コンサート 11月 沢田研二・君をのせて・ソロシングル発売 泉谷しげる・帰り道・ゲビュー 12月 はしだのりひことクライマックス、花嫁で紅白出場 |
1月24日のタイガースの解散でGSの時代が完全に過去のものとなりロック、フォークがコンサート活動、深夜放送などで若者の心を捉える。 フォーク勢は独自にメッセージソングを歌うシンガーソングライターの出現で各地のコンサートを成功させていく、一方ロック勢は、外国ロックバンドとのコンサートを開き気勢を上げお互いを刺激しあう所から個々の音楽性の違いから独自の音楽追求の路を見いだしていく。 TVで歌うフォークグループからジローズ・戦争を知らない子供たち・加藤和彦、北山修・あの素晴らしい愛をもう一度・はしだのりひことクライマックス・花嫁・などフォークル後のメンバーがヒット曲を歌う。 日本語でロックをの論争があり、はっぴいえんどは日本語ロックを歌う。 洋楽ファンもミッシェルポルナレフルなどのフレンチポップスが流行する。 TV、ラジオ、音楽雑誌などで情報入手が困難でなくなると、音楽への興味の持ち方も様々になりアイドル(小柳ルミコ、天地真理、南沙織)のデビューもあって音楽はジャンル別にファンを獲得していく。 |
1972年S47 1月 よしだたくろう・結婚しようよ・発売ヒット 3月 井上陽水・人生が二度あれば・再デビュー 6月 サディスティックミカバンド、デビュー 7月 荒井由美・返事はいらない・デビュー 8月 ディープパープル、初来日コンサート 10月 五輪真弓アルバム・少女・デビュー 12月 キャロル・ルイジアンナ・デビュー はっぴいえんど解散 沢田研二・許されない愛・紅白初出場 |
歌謡曲、流行歌のジャンルに背を向ける形でスタートしたフォーク、ロックから、よしだたくろうが、結婚しようよをヒットチャートの2位まで上げて50万枚以上のヒットを出すと、アーティストがレコード製作に参加し新しい感覚の音楽を世の中に提供し始める。 7月、よしだたくろうはアルバム・元気です・を発売する、このアルバムはアルバムチャート1位になり13週続きレコードセールスがシングル盤だけでなくLP盤のセールスの可能性を実証する。 この年になると外国からのロックグループの来日公演が急増する、2月CCR、3月ピンクフロイド、ビージーズ、7月EL&P、フリー、8月ディープパープル、10月レッドツェッペリン、11月ミッシェルポルナレフ、ゲスフー、Tレックス、12月スリードッグナイトが来日しコンサートを成功させていく、そしてディープパープルの武道館ライブは世界で発売され武道館が欧米のロックバンドのメッカとなる。 加藤和彦が夫人のミカさんと高中正義、小原礼、高橋幸宏をメンバーにそろえサディステックミカバンドを結成活動を開始する、また財津和夫はビートルズのコード進行をヒントにチューリップで活動開始、ミッキーカーチィスのプロデュースでキャロルが登場する。 |
1973年S48 2月 吉田拓郎・新六文銭・参加 トム・ジョーンズ来日 3月 井上陽水・夢の中へ・発売 5月 山口百恵デビュー 9月 かぐや姫・神田川・発売 11月 荒井由実ファーストアルバム・ひこうき雲・発売 沢田研二・危険なふたり・で日本歌謡大賞受賞 レオンラッセル来日 12月 井上陽水アルバム・氷の世界・発売 ガロ・学生街の喫茶店・紅白出場 |
フォーク・ロックがよりポップになり始める。 拓郎が参加した小室等の新六文銭には、柳田ヒロ・チト河内・後藤次利等も参加するが活動は短いものであった、この頃になるとビックネームユニットバンドが数多く登場する。(キャラメルママ・はちみつぱい等) 各地でフォーク・ロック・ニューミュージックのコンサートが盛んに開かれるがTVにはほとんど出ることはなくコンサートとアルバム作りの活動が成功していく。 TVでは沢田研二が歌謡界をリードして昨年そろった野口五郎、西条秀樹、郷ひろみの新御三家と5月にデビューした山口百恵が森昌子、桜田淳子と中3トリオを結成し第2期アイドル時代のメンバーがそろう。 プレスリーのハワイ・コンサートの宇宙中継が話題を呼び、カーペンターズのさわやかなヴォーカル、トムジョーンズのセクシーヴォーカルに人気が集まる。 |
1974年S49 2月 フェイセズ(Rスチュワート、ロンウッド、山内テツ)来日 3月 スレイド来日 5月 吉田拓郎、愛奴(浜田省吾、在籍)をバックにツアー 6月 山本コータロー・岬めぐり・発売ヒット 8月 郡山ワン・ステップ・フェスティバル開催 11月 甲斐バンド・バス通り・デビュー 12月 吉田拓郎作曲・襟裳岬・森進一、レコード大賞受賞 |
この頃より日本人アーティストが海外ミュージシャンと本格的に活動する、フェイセズでの山内テツは際立っていたし、ジョンレノンのパートナーオノヨーコはヨーコオノ&スーパー・プラスティク・オノバンドを率いてワンステップフェスティバルに参加する。 日本人ミュージシャンの海外挑戦も本格化し、サディスティック・ミカ・バンドはイギリスでデビューする、2枚目のアルバムはアメリカでもリリ−スされた。 沢田研二はハワイ・インターナショナルセンターでコンサート、8000人の観客を動員、成功させる。 フォーク系アーティストはメッセージソングよりも日常の出来事生活を歌うようになり、昨年ポプコンでグランプリを取った小阪明子の・あなた・が165万枚の大ヒットとなる。 歌謡界に作曲家として吉田拓郎が森進一へ曲を提供しレコード大賞を取る、これ以後シンガーソングライターの曲提供が盛んになる。 |
1975年S50 2月 かまやつひろし・我がよき友よ・ヒット 3月 バッド・カンパニー来日 4月 沢田研二Je viens du bout du mondeフランスでヒット キャロル解散 クイーン来日 6月 フォーライフ・レコード発足 8月 吉田拓郎・かぐや姫・イン・つま恋開催 井上陽水・氷の世界・100万枚突破 9月 矢沢永吉ソロデビュー 10月 中島みゆき、ポプコングランプリ 12月 頭脳警察解散 小椋佳作詞作曲シクラメンのかほり、レコード大賞 |
ロックバンドの限界が見えてくる、最もメジャーなキャロルの解散、最もマイナーな過激な頭脳警察の解散に見られるようにJロックのやるべき事に次のステップが必要になってきた時期であり、フォークもまた次のステップ現象が発生してくる、ダウンタウンブギブギバンドの港のヨーコ・ヨコハマヨコスカ、甲斐バンドの裏切りの街角、風の22才の別れ、バンバンのいちご白書をもう一度などのヒットは新しい音楽を感じさせた。 小室等を社長に吉田拓郎、井上陽水、泉谷しげるがレコード会社を設立し自分達のレーベルでレコード発売を始める陽水・青空ひとりきり・拓郎・となりの町のお嬢さん・発売。 井上陽水のLP氷の世界が日本初のアルバムミリオンセラーを記録し拓郎、かぐや姫は静岡つま恋に7万人以上のファンを集めるコンサートを成功させる。 沢田研二がフランスで発売した・モナムール・ジュ・ヴィアン・デュ・ブー・デュ・モンド・がフランスチャートベストテンに入り20万枚の売上を記録する。 イギリスではサディスティックミカバンドがツアーを開く、それとは逆にイギリス、アメリカで無名のクイーンが武道館コンサートを成功させ世界への足がかりを作る。 新しい試みがためされそれらはそれ以後のJ-POPの方向性として確立された年である。 |
1976年S51 1月 ドゥービー・ブラザーズ来日 2月 イーグルス来日 3月 ナイアガラ・トライアングルVOL1発表 南こうせつ武道館コンサート 4月 浜田省吾デビュー 11月 松任谷由実誕生 12月 ベイ・シティ・ローラーズ来日 ジュリー・イン・武道館 |
この1年の日本はタータン・ハリケーンの1年であった。 74・75年イギリスで大ヒットを連発したベイ・シティ・ローラーズは76年アメリカ・日本でも大ブレークする、特に日本での人気は社会現象を引き起こすほどで、12月来日時のマスコミ表現は「ビートルズの来日騒ぎを上回る人気」の活字が新聞、雑誌に飛び交った。 決してオーバーな表現ではなく私の記憶でも時代背景を考えれば、まさに外国文化の襲来であったビートルズ来日とベイ・シティ・ローラーズの来日の凄まじさは意味合いの違いこそあれ近いものは確かにあったと思う。 外国アーティストの最高ステージだった武道館へ南こうせつ、沢田研二が登場し成功を収め、これ以後武道館はJPOPのアーティストにも最高ステージとして目標とされるようになる。 ニューミュージックの女王荒井由実は松任谷正隆との結婚で松任谷由実となりユーミンのハイセンスな音楽は、ますます広い世代に指示されて行く。 |