吉 田 拓 郎

A-5/12 B-8/6 C-9/12 


 吉田拓郎は初めよしだたくろうだった、1970年エレックレコードより広島フォーク村のアルバム・古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう・でデビューする。
GSがビートルズ、ストーンズのスタイルで独特の音楽ジャンルを作って、音楽性の成長の伸び悩みとアイドル的な人気の流行、廃りの怖さの中で消え始めた頃、ボブディランのスタイル、一人でギターを弾き、ハーモニカーを吹き、歌を自分のメッセージとして聴く者に伝える形で登場した。
よしだたくろうの存在を知ったのはデビュー当時TVに出たらしいが見ることはなくラジオで変わった歌だなーと聴いていると“ジュリー〜ショーケン〜”のフレーズがあって気になり調べて・青春の詩・を知り、この野郎、GSをチャカしやがって!と思う反面、これかな?て思って、いつのまにか我が7福神の1人になった吉田拓郎の色々を幾つかに分けて書きます。

C−フォークソング

ニューヨーク、セントラルパークがステージに作られていて、拓郎さんがフォークソングの話をしてくれたことがある。
吉田拓郎がレコードデビューになる《古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう》は広島フォーク村と上智大学全共闘による自主制作レコードに3曲提供して、・イメージの詩・を自身で歌っている。
「僕たちが一番最初にフォークソングをカジッタ頃は、自分で曲を作ったりしないで向うの曲をコピーしていたんですね、今日はそう言った感じを、あじわってもらをうかなって・・・まっ!はっきり言えば古臭い話です」
そんな感じで話が始まる。
66年頃フォークソングはPPM、ブラザーズ・フォア、キングストン・トリオなどの曲が大学生の間でコピーされ歌われるようになる、フォークギターなどまだなくてヤマハがフォークギターを作ると(ヤマハFG−180)ギターを弾きながら歌う若者が増えて、国産フォークソング第1号・バラが咲いた・のヒットもありビートルズのボーカルエレキ派とフォークギター派に分かれ若者が自分達の音楽を楽しみながら演じ始める。
拓郎さんがFG-180を使ったり、
guts、ヤングギターなだのギター教本を使ったかは解りませんが、私はgutsで3300円のクラシックギターでした、拓郎さんの初めての楽器はウクレレだったようですが私のウクレレは中学の時、何かの懸賞でウクレレが当たったのですが家の誰かが家にはこんな人はいませんと郵便屋さんに返してしまった出来事がありました・・・余分な話でした!
軽く咳払いをして、ハーモニカのフォルダーと音を確かめるように♪むすうんでひらいいて・・・吹いた後《祭りのあと》を歌う、拓郎フォークの傑作であるこの曲は72年アルバム・元気です・に収められている、ギター、ハーモニカ、そして拓郎のボーカル、70年代の初めのフォークのスタイルを代表している曲だと思う。

「僕たちが一番最初フォークソングをやった頃、ギターも弾けないし日本語で歌を唄う時代ではなくてアメリカ、イギリスのフォークソングと言われたヤツをコピーしてその通り弾けたら出来た!って時代だったんですが、その頃僕は広島で大学生だったんですが、東京へ出てきて最初にお世話になった方を紹介するわけですが、この人をおいてこの話は(フォークソング)出来ないだろうという人を紹介します、公私共にお世話になっています、小室等さんです。」
小室等さんが紹介されて、お酒を飲んでののしりあい、お互いの主張、フォーク激論などが語られる話、解っていることとは言え小室さんと拓郎さんのやり取りは最高です。
結論は基本的にはお互い嫌いで、喧嘩をよくして、小室さんは自分が正しいと思っているけど、拓郎さんは内心自分が正しいと思っていて・神田川・などでフォークは暗いと思われがちだが実はフォークソングは元々明るい歌ということで小室さんが、石川鷹彦さんと白鳥英美子さんを呼んでPPMを再現する、曲はボブ・ディラン・の曲をPPMがカバーした・くよくよするなよ・、静かに明るくてギターが素敵で小室さんのボーカルがやさしくて、三人のハーモニーが素敵で、いい時代の曲を思わせてくれる。

ブラザーズ・フォア  PPM  キングストーン・トリオ 

そして我が道を行く拓郎さんは、グループでなくボブディランの・風に吹かれて・を久しぶりと言う感じでテレながらそれでもボブディラン風に唄ってくれる。
拓郎さんは《親切》で
♪君は僕のこと とても詳しく知っているんだね あっ 今日もまたボブ・ディランの話かい やだね♪と唄っているけどやはりボブ・ディランなのだと思う、ハーモニカフォルダーを針金で自ら作り唄い当時の雑誌で和製ボブ・ディランと紹介されているし彼が作る楽曲に見られる字余り的な歌詞はボブ・ディランを日本語で歌うとき英語的日本語が出来たのだと思う。

     

ボブ・ディランの昔のインタビューで「あなたの歌には怒りがある、何かへの抗議のつもりかな」と言う質問に少し間をおいて「僕は機嫌のいい男ですよ」とディランは答えている、確かにディランの歌にもそれに影響受けたであろう拓郎の初期のフォークにも若者の悩めるメッセージがあると思う、それでも音を楽しむ時、ハートはいつもご機嫌なんだと思う。
コピー、カレッジフォーク、反戦フォークから始まった日本のフォークソングに吉田拓郎はそれまでになかったスタイルで我々の前に現れた。
それはPPMなどのフォークソングとは明らかに違うものであったが、楽しく、明るいフォークソングを歌のスタートに選んだ吉田拓郎は最後に・天使のハンマー・を小室等さん石川鷹彦さん白鳥英美子さんと楽しそうに聴かせてくれた。

シャイで機嫌のいい拓郎さん、いいものです。

60年代ロック少年はベンチャーズ、ビートルズを体験して自分の歌を唄いだしたように、フォークを歌う若者達はブラザースフォア、PPM、ボブ・ディランを体験して自分の歌を作り唄い始めている、そのスタイルは吉田拓郎が教えてくれたのだと思うが吉田拓郎を超える個性は出ていないと思う、そんな拓郎さんの照れて話すフォークソングの話、叉聞きたいですね!


B−今日までそして明日から
♪今日までそして明日から♪は吉田拓郎が25才の時、それまでのエレックレコードからCBSソニーにレーベルを替えて7/21発売された。
ラジオで初めて聴いてギターと繰り返される言葉、メロディーに不思議な想いを感じ詩をノートに書きとめて何度か繰り返し読んで歌って見て(当時も今もスリーフィンガーは出来ないのです)凄く長い時間生きてきたような人生を語るのでなく今日まで生きてきて明日からもさほどの変化を想像することもなく生きていくであろう自分の今を語っているようでそれは作り物とは違う初めてのメッセージソングとして聴こえてきた。
好きになったこの曲は今でも時々聴いてしまう一曲です。


♪ 私は 今日まで 生きてみました

   時には誰かの 力を借りて

   時には誰かに しがみついて

   私は 今日まで 生きてみました 

   そして 今 私は思っています

   明日からも こうして 生きて行くだろうと
 ♪


1972年の邦画に*旅の重さ*という男出入の多い母や学校がいやになり家を飛び出し四国巡礼の旅に出る少女が、痴漢にあったり旅芸人一座に加わりレズビアンを初めて体験したりしながら遍路道中を続け少女は中年の魚行商人と夫婦もどきな生活を始めてしまう、母への手紙と少女の大人へのモノローグが四国の自然の中で描かれる作品があって音楽をよしだたくろうが担当している、そこで使われている曲が*今日までそして明日から*で効果的に流される。

       

家出した少女から母に宛てられた手紙が読まれる、うろたえる母、そしてローソクが消され真暗な場所に光が差し込む、画面いっぱいに緑の田園が広がる。
ギターが奏でられる、ギター、ハーモニカーから始まるオリジナルとは違うさわやかに軽やかなフレーズがフォークギターで繰り返されるなか、どこまでも広がる田園の畦に立てられた小屋で野宿した少女は大きな伸びをして田園の中を歩き回り歯を磨き顔を洗う、初夏の太陽が輝いて、たくろうの歌が流れ唄われる中少女何かを決意するように歩き出す。
    
             トマトを盗んで怒鳴られ逃げる少女。
             逃げ切り笑顔でトマトをまるかじりする少女。
             緑の田園の中を、川を歩いて、橋の上で一眠りする少女。
             眠りをヤギに起こされ、突然のヘビに来た道を走り逃げる少女。

たくろうの 〈今日までそして明日から〉 が心地よくやさしくバックで歌われる。
ラストシーンでに苦難の末、魚行商人と夫婦となって、荷車の後ろを押す少女の生きてゆくだろう今日の笑顔に〈今日までそして明日から〉は流される。
〈今日までそして明日から〉はまさに旅の重さのテーマ曲としてこれにまさる曲はないと思う心地よさである。

    

この映画を今見て、現代に置き換えるのは困難なことでると思うが、この映画が作られた70年代に彼女と同じ世代でその時代を経験していれば、いつの時代にこの映画を見ても感動はよしだたくろうの音楽とともに蘇るはずである。

A−アジアの片隅で

 吉田拓郎はマイペースで時代を演出する天才だと思う、拓郎は拓郎の前に誰もいないところから歌いだしたシンガーでソングライターである、独特の拓郎節は後を追うもの憧れであり手本であるが誰一人拓郎になる事はないし、なれるほど拓郎は浅くはないと思う。
70年のデビューから幾つもの伝説を残しながら後のミュージシャン、我々ファンを驚かせ音楽が作り出す可能性と勝負を仕掛けケンカしてことごとく勝利して拓郎がデビュー10年経った80年に出したアルバム・アジアの片隅で・のレコード帯にコピーされた言葉は
ーー時の暗がりに葬られぬために、再び強烈に突きつけるーーーこのアルバムを聴いた時、重大で厳粛さを感じさせるものであった、前作を海外で録音した時海の向こうから拓郎は日本を見たのだと思う、・人間なんて・を封印した拓郎は丸くなり始めていて、喧嘩相手を探していて見つけたのが日本だったのかもしれない?
TVに出ることのない拓郎がTVで歌った、夜のヒットスタジオにでる、それだけでTV欄を朝見てからそわそわワクワク状態だった事を何となく覚えている、何を歌うのか・元気です・かも拓郎ならTBSクソクラエで歌うかもしかし聴きたいのは・アジアの片隅で・ある、12分あるこの歌を何人もの歌手が出演する番組で歌えるのも不可能に近いのでは、12分の曲を3〜4分にカットしたら拓郎でなくなるしの想いが強くなってわからないまま夜のヒットスタジオが始まり拓郎の番に、多くを語ることなくスタンバイする。
女性バックコーラスとエレクトーンが少し重めにアジアの片隅でのフレーズをスキャットしてカメラに背を向けた拓郎がギターでイントロをカッティングしてリードギターが絡む、白のTシャツにグレーのダブルのスーツそして白のスニーカーでマイクへ拓郎独特のリズムを取り近づく、カメラに目線を合わせることなく歌いだす。

  
♪ ひと晩たてば 政治家の首がすげかわり 子供共は慌てふためくだろう・・・・♪
  ♪ アジアの片隅で 狂い酒のみほせば アジアの片隅で このままずっと生きていくのかと思うのだが ♪


拓郎が歌っている、吼えている、3本マイクを立ててアルフィーの3人がコーラスに参加する、アルフィーに拓郎は憧れだ、間奏に入り拓郎はリードギターを弾く、ツイーンになったリードはTVであっても迫力が伝わる。
ムッシュ(かまやつひろし)が静かに見つめる・・・・・スタジオは完全に拓郎のものになってテンションを上げていく、搾り出される声の迫力がしっかり刻まれるリズムの中でのたうち舞う、ドラムの絡みに、TVでこんな歌が歌われているのが不思議にさえ思えるくらい陶酔して行く、拓郎の額の汗に拓郎の本気を感じさせる。
  
  
♪ アジアの片隅で お前もおれもこのままずっと アジアの片隅で このままずっと生きていくのかと ♪
        
♪ アジアの片隅で・・・・・・♪ アジアの片隅で・・・・・・♪ 
           アジアの片隅で・・・・・・・♪ アジアの片隅で・・・・・・・・♪ アジアの片隅で・・・・・・・・


エンディング、拓郎が吼えるマイクから外れて、マイクの前に出てギターを弾く、アルフィーのコーラスに静観していたムッシュが加わる、他の出演者が総立ちで手拍子でリズムを取る、ムッシュ、アルフィーが笑顔で歌う、拓郎が一瞬笑顔を見せる、してやったりの笑顔か?
一度もカメラを見ることなく最後にバックバンドに目配りして演奏が終る。

朝までやる!の拓郎が1曲を10分で歌い上げた、TVの1曲10分は朝までやった感じでファンとしてもしてやったりである!最高のカリスマとオーラをのこした・アジアの片隅で・最高だった!!!
          
SIDE、A まるで孤児のように
       いつも見ていたヒロシマ
       古いメロディー
       アジアの片隅で


SIDE、B 二十才のワルツ
       いくつもの朝がまた
       ひとつまえ
       元気です
       この歌をある人に
 
岡本おさみ氏の詩の素晴らしさに拓郎の曲のオリジナリィーの絶妙さは20年前のものであるが、完全なスタンダードである。
・アジアの片隅で・の詩が20年前に現代を暗示していたのか、20年前から社会の状況が変わらず寧ろ悪化しているのか・・・テーマを持った曲に最近出会えないような気がする、拓郎に吼えるエネルギーをまた見たくなる1枚である。