年表                 

@キャロル2001 Aトワ・エ・モア3/10 B寺内タケシ4/7 C岡林信康6/4 D小椋佳7/23 E弘田三枝子9/1 Fジャックス11/9
G荒木一郎 1/15 H泉谷しげる3/29

  


その\ 泉谷しげる

最近70年代のフォークの曲とギターを引っ張り出して口遊んでみて、改めて詩曲の深さに驚かされた。
私のギターの程度は3〜4つのコードを繰り返しジャラジャラやる程度のものですが、当時よく言われたイメージとして、ほとんどのフォークシンガーは3〜4つのコードで自分で思いのままに曲を作り歌ってる、そんな感じだったはずであるが、今歌ってみるて、メロディーラインのカッコ良さ美しさ、詩の奥深さを感じながら唄える歌の多さに感動してしまう。
と言ってもそれぞれの曲に難しさがあり何とか弾き語りらしく歌える曲は数曲でその中でも、NSPの・夕暮れ時はさみいそう・拓郎の・落葉・そして泉谷さんの・春のからっ風・はギターで弾くにはいい感じなのです。
そんな泉谷しげるのイメージはよく語られるように破壊屋であるが、彼の歌を聴き入れば聴くほどに破壊のイメージはシャイで繊細な部分のカモフラージュではないかとより思えるのです。
彼は自分の本質を隠す行為として、ギターを弾くというより叩くところへ移していったのだと思う。
漫画家であった彼は、RCサクセションや古井戸がライブをしていた渋谷の「青い鳥」に出入りしていて唄うようになる。
71年頃池袋で吉田拓郎などエレックレコードのシンガーによる《唄の市》が開かれ、泉谷しげるはこのライブに参加してギターを叩くようにかき鳴らし「戦争だ、戦争だ、」と叫び、そこに集った聴く人、唄う人を驚かせたと言う (私はその頃、池袋から6つ目の中村橋にいてこの時のことを知り合いより聞いた記憶がある) そしてエレックを抜けた拓郎と入れ替わるようにレコードデビューを果たし、同時期の古井戸、ケメを一歩も二歩もあっという間にリードすると本人が意識する以上の現象として人気を拓郎と二分するところまで行った。

初め泉谷しげるは吉田拓郎の模擬者に過ぎないと思ったが、・春夏秋冬・がヒットして春のからっ風を聴いた頃にはシンガーソングライター泉谷しげるは繊細なロマンティストで自分の想いを、時に優しく時にはき捨てるかのような激しい感情で唄う、聴くにつれ他のフォークシンガーがニューミュージックなラブソングに移行していっても、いつも熱さが苛立ち「このヤロー、バカヤロー」でメッセージを歌いつづけていることを感じる。
フォーライフ発足に参加し、役者として誰にも出来ない彼ならではの役者像を確立し性格俳優を目指す役者達に多くの影響を及ぼし、自然災害救済活動に対する彼の涙とパワー、いずれも自由に自分の思うがままに行動に移せる場所に自分を置きつづけているからこそ彼は自分のスタイルで動く。
今も、過激で禁止される言葉をスリリングに叫びつづけて神出鬼没で優しさが垣間見れる泉谷さんに70年前後の歌で何かを変える思いで歌っていた真のフォークシンガーを感じる

泉谷しげるは過激な優しい自由人である   
元気な泉谷さんがiZ流LOVE SONGで社会に人に元気であれと唄っている! 

彼こそがメッセージソングとしてスタートした
70年代フォークシンガーを貫いているただ一人の
熱いシンガーソングライターではないのかと思う!!
彼の歌を聴き彼を見るといつもそう思う。

その[ 荒木一郎

      
1966年頃、日常の自然な出来事が語られ、日常の自然な言葉に音が付けられラジオから流れていました。
TVドラマなどに出ていた荒木一郎が周波数を合わせた人へ語りかけるラジオ番組〈星に唄おう〉です。
それまでにない新しさと不思議なやさしさとあたたかさを感じさせ、荒木一郎の話と音楽に聴き入ったことを思い出します。
その番組でよく流れた記憶がある〈空に星があるように〉はあっという間にヒットし荒木一郎は今までの歌手とは違った形でスターになっていきます、母親が女優の荒木道子であったことはそれほど知られることもなく独特の音楽はそれまでの歌謡曲、流行歌とは確かに違う雰囲気に包まれていました。
自分で詩を書き、曲を作り、それを歌う、今ではシンガーソングライターは珍しいことというよりポップス系ではあたりまえのパターンであるが当時は幾つかのアーティストの所でも触れているように自分で唄う歌を自分で作るというのはまったく稀な時代で、加山雄三の〈君といつまでも〉が65年12月の作品で加山雄三が映画、TVでどこまでも明るく健康的でエレキを弾いて若者の憧れだったカッコ良さを見せていた時期にラジオから聴こえた66年9月の〈空に星があるように〉はどこか若者の内にあるペイソスな部分を唄い加山雄三とは違った共感を得て聞く者の心をとらえたのだと思う。
加山雄三が作曲だけだったことを考えても詩と曲を自分で書いた荒木一郎の音楽センスは才たるものを感じます、叉ポーカーフェイスで唄う歌唱法もそれまでにないもので斬新であった。
2曲目の〈今夜は踊ろう〉3曲目の〈いとしのマックス〉とノリのいいポップなサウンドに仕上げ、空・星・海・など自然を散りばめた日本語詩に英語詩を散りばめた作詞方法はその後のJポップの詩・曲へのヒントを与えつづけていると思う。


〈空に星があるように〉は昭和41年レコード大賞新人賞に、自作自演のLP「ある若者の歌」は芸術祭奨励賞に輝く。
芸術祭審査員は「荒木の歌には現代の若者の生活がある。」と絶賛した。

スパイダース〔ノーノーボーイ〕《詩・田辺昭知・曲・かまやつひろし》、ブルーコメッツ〔青い瞳〕(英語盤)《詩・橋本淳・曲・井上忠夫》それぞれ66年3月に発売され、67年当初にスパイダースの夕日が泣いている、ブルーコメッツのブルーシャトーが大ヒットしてタイガースがデビューしてグループサウンズ一色になるほんの少し前の荒木一郎サウンドと詩は、GSそしてGSの後に来るフォークの詩・曲作りのヒントが詰まっていたことは確かだと思う。
最近、荒木一郎さんが活動を再開したことを知りました、そのきっかけに現在活動をつづける荒木一郎に影響され荒木一郎ファンであるアーティスト達に後押され彼らとCDを作くり活動の再開です、嬉しくなります。

そのZ ジャックス

ジャックスはボーカル・ギター早川義夫、リードギター水橋春夫、ベース谷野ひとし、ドラム木田高介の4人で1966年に結成され68年《ジャックスの世界》を発表する。
ジャックスの音楽はもしかしたら、詩もサウンドも聴き始めると、"ジャックスが唄う歌は、どうしてこんな曲が出来たのだろう”と深く深く海の底へ引きずり込まれる感覚で考えざるを得なくなってしまうのである・・・それまでにない初めてのジャンルを歌ったグループなのかもしれないと思った。
同時期のブームであったGSの恋に星を散りばめたそれとは違い、かといってフォークルの画期的なアイデア、メッセージを叙情的に唄うものとは明らかに違って聴こえたことを覚えている。
人間が持ち合わせている性や愛、それに伴う生命力やセックスなどの潜在意識を飾らず詩に音に変えることで、ジャックスの世界が創作されたのだと思う。
早川義夫が初めに思ったことは「歌いたいことがあるのか」でそれは歌いたい曲があるのではなく自ら作るオリジナルへの拘りへの言葉だと思う、叉彼は「ころがろうともしない石になった固定観念を捨てましょう。すべてのものをいつも新鮮な眼で見ることができるよう、子供に戻るべきです。」と言っている。
ジャックスの《からっぽの世界》はかなり異質であるが、彼の発言をどのように解釈するかは個々にあるにしても、1968年に聴くには衝撃的な曲であった。

            

GSがまだまだ元気だった68年、この年はフォークルの年でもあった、そしてフォークでもないGSでもないジャックスはメジャーになったフォークルの最大のライバルだったのだと思う。
《ジャックスの世界》は全曲オリジナルというフォーク・クルセダースに続く画期的なアルバムだったし、フォークルの・イムジン河・は南北朝鮮への政治的配慮から放送禁止になったし、ジャックスの・からっぽの世界・は
・おし・などが差別用語という理由で発売禁止になるなど、当時としてはまだアングラなる言葉が生れたか生れない頃で明と暗の位置付けの違いはあるにせよ後の音楽界への影響力は双璧であった。
1994年再び歌い始めた早川氏に遠藤賢司は「人生史上最強のライバル出現」と叉、中川五郎は「ぼくもまた歌をつくりたくなってきました。早川さんの歌には人に何かをさせたくする(何か創作意欲を湧かせる)不思議なパワーとエロチシズム?とがある」と絶賛した。
  A面 @マリアンヌ
      A時計をとめて
      Bからっぽの世界
      Cわれた鏡の中から
      D裏切りの季節



  B面 @ラブ・ジェレネーション
      A薔薇卍
      Bどこへ
      C遠い海へ旅に出た私の恋人
      Dつめたい空から五百マイル
 

早川義夫は初めて書いた《僕自身とジャックスのための広告》というエッセイを次の文章で終わらせている。
・・・・・・・・新しいものを生み出すために、ほんとうのものを生み出すために、だからきたないものに首をつっこみ、
きれいにみせかけているものをきたないものだときめつけましょう。
そして傷いっぱいつけて、およめに行ってやりましょう。傷いっぱいつけておむこさんにいってやりましょう。・・・・・・・・
ジャックスはどのジャンルにも属せないままジャックスの世界を1969年8月第1回中津川フォークジャンボリーで
次の時代に暴れまくることになるフォークシンガーを尻目に閉じてしまいました。
再びジャックスの世界の扉を開けられるのはジャックスでしかないのだとこの頃思うことがあります。


そのY 弘田三枝子




アメリカ文化の吸収がスピードアップし出した1950年代後半、音楽界もジャズ、カントリーなどからプレスリー等のロックンロールのカバーが盛んになり58年第1回ウエスタンカーニバルの成功を境にロカビリーがブームとなる。
60年代に入るとロカビリーとともに創生期のTV音楽番組の人気を高める少女カバーミュージック(翻訳ポップス)が人気を集めるようになる、ザ・ピーナツ・森山加代子・中尾ミエなどがテレビのブラウン管を透して身近な親しみやすい人気アイドルとなる、その中で当時女性歌手人気投票(ミュージックライフ)で1954年から63年まで連続1位であった江利チエミを抜いてトップに立ったのが弘田三枝子だった。



弘田三枝子は14才で・子供じゃないの・でデビューする。
中村八大に可愛がられ《ダイナマイト・ミコ》のキャッチフレーズでパンチをきかせた元気いっぱいの笑顔と可愛らしさで人気を得る。
確かデビューの頃は中学の制服で歌っていて若さをブラウン管いっぱいにはじかせていて、歌の上手さが抜群で、その歌唱法はアメリカンポップスを日本語で歌うのに、男性では坂本九、女性では彼女なのだと思う、それほどその発声方は隔世遺伝を繰り返し、現在のJ-POPに生きつづけていると思う。
デビュー曲の・子供じゃないのは・ロンドン出身のヘレン・シャピロが弘田三枝子と同じ14才(1961年)の時に放ったヒット曲で同じ年に・悲しき片思い・もヒットさせている。
今でも歌いつづけられている、バケイション・もヒットさせている、V-A-C-A-T-I-O-Nで始まる歌詞は強烈なパンチで歌う彼女のオリジナルをおもわせるが、この曲はコニー・フランシスが62〜63年にヒットさせた彼女自身がハンク・ハンター、ゲイリー・ウエストンと書いたナンバーであるが、バケーションは弘田三枝子のナンバーが絶対いいのである。

       ヘレン・シャピロ        コニー・フランシス

私的 カバーミュージック ガールズベスト10

順位 曲  名 カバー歌手 オリジナル
 悲しき片思い  弘田三枝子  ヘレン・シャピロ
 恋の売り込み  伊東ゆかり  エディ・ホッジス
 ボーイハント  伊東ゆかり  コニー・フランシス
 可愛いベイビー    中尾ミエ  コニー・フランシス
 バケイション  弘田三枝子  コニー・フランシス
 砂に消えた涙  弘田三枝子  ミーナ
 ヘイ・ポーラ  田辺靖雄・梓みちよ   ポールとポーラ
 アイドルを探せ  中尾ミエ  シルビィ・バルタン 
 子供じゃないの  弘田三枝子  ヘレン・シャピロ
10  私のベイビー  弘田三枝子  ロネッツ
カバーポップスの多くの曲はアメリカのヒットチャートを常にチェックして吹込みをしていたようで、一つの曲が何人かの歌手の競作になることが多く、それぞれに良さがありファンができヒットした、英語詩を訳詞する作業にもかなりハードなものがあり、その中でも. 漣健児氏の翻訳詩の素晴らしさがそれぞれの歌手の歌唱力、表現力をより高めヒットにつながっていたと思う。
TVから毎日聴こえてきたカバーポップスもビートルズの出現からGSの人気が出る頃には短い時間で姿を消すことになるが、歌唱力が備わっている彼女達はすぐにオリジナル曲で復活する、小指の思い出の伊東ゆかり、白い蝶のサンバの森山加代子、いしだあゆみのブルーライトヨコハマなどで弘田三枝子も華麗に変身して人形の家で復活する、抜群の歌唱力、表現力、リズム感のともなう彼女達は今もカバーポップス、オリジナル曲を聴かせてくれている。

そのX 小椋 佳

小椋佳さんが胆石で休まれた事を知ったのは私が同じ胆石で苦しみ入院した頃だったと思う、小椋佳さんの病状がどのようであったかは分かりませんが同じ痛さを経験した小椋佳さんを書いてみます。
小椋佳さんをどれほど知っているかと言えば、元銀行員で、中村雅俊の俺たちの旅、布施明のシクラメンのかほり、研ナオコの泣かせて、梅沢冨美男の夢芝居などの作曲者で自らも、少しは私に愛を下さい、めまい、などのヒットを持つ1970年にデビューしたシンガーソングライターで87年頃NHKでコンサートの放送があって見たことを記憶しているシンガーであるがなんと言っても彼の容姿を知る前の、さらば青春、しおさいの詩を聴いてそれまでに無い良い曲だなーと思い、それらの曲が使われた70年代初めの映画・初めての旅・を見て小椋佳の世界を知ったときでした。
 
1970年代に入って若者文化、生活スタイルは急速に代わった、青春映画も痛快娯楽作品からその時代の若者の悩める日常を扱ったものが増えてくるその先駆けの一つに・初めての旅・が作られた、東宝系封切りで見た初めての旅は自分の日常に重ねることが出来るのではないかと思わされ、使われた小椋佳の4曲の楽曲(しおさいの詩 六月の雨 さらば青春 砂漠の少年)の印象は変わることなく今もその時代を思い起こさせる、初めての旅と音楽をたどって見ます。

めての

                       

神宮銀杏並木に駐車されている何台もの車、その1台のスポーツカーを見つめるジージャンの若者、そこへ赤のブルゾンの若者が近づく二人は無言のままその車のエンジンを直結でつなぎ、かかると初めて笑い、盗んだ車が走り出す。
「どこへ行こうか?」 「どこでもいいさ!」  「僕の行きたいとこでいいか?」 「あぁーいいよ!」
見ず知らずの育ちのよさを感じさせる大学生西村、工場を辞めて無職になった尾根、若者二人の初めての旅が始まった。
尾根は悲惨な生い立ちを西村に話す・・・それに何も言わず聴きつづける西村・・・
車はトンネルを出る、そこに海がひろがる。

♪しおさいの浜の岩陰に立って しおさいの砂に涙を捨てて・・・・・


車から下りて浜を走る、取っ組み合いをする二人、

♪消えた僕の若い力呼んでみたい・・・

浜に寝転ぶ二人、尾根が聞く、「これからどこへ行く?」 三島のおじさんの所へ行こうと思う。」
そのおじさんのアメリカ大陸の夕日にまつわる話を尾根に聴かせる、西村の家系からはみ出したおじさん、叉西村は母親の話をする、尾根は軽蔑した笑いを浮かべる。
西村は家出について尾根に聞かれ親を試して見たいと答え、親達は警察には届けないと語る、どうしてと聞き返す尾根に西村は「恥じだからさの」尾根は世間体ってやつだな・・・答えると車とすれ違う自転車を見て西村は「ストップ、ストップ」と叫ぶ、男の子と間違える女の子、追うことは止めて去年の夏、出逢った女の子と江ノ島が見える海辺のひと夏を回想する。
女の子の日常と家庭を西村は複雑な思いで自分の家庭に無いものに興味を持つかのように自分を偽り吸収するかのように見える.
魚を釣って、それを食堂に売るその儲けで映画にいく、その時の約束でお互いの家の飼い犬スピッツの見合いをさせる、突然の雨・・・・帰る西村を追う女の子、雨宿りの軒下で・・・みつめ合う二人・・・
西村「六月の雨って知ってる」 女の子「今は8月よ」 西村「六月の雨ってのはね・・・・」

♪六月の雨には 六月の花咲く・・・・・変わらぬ心を誓いながら・・・・・二人でいたい・・・・

オシャレをした男と女、ピンクの傘と黒い傘、道を尋ねたのか?同じ方向へ歩き出す・・・・
やがて二人は一つの傘で楽しそうに語らう・・・・・

♪そよ風が見えない 幸せも見えない・・・・・・・幾つ春を数えても 幾つ秋を数えても 二人でいたい・・・・・

ドライブインで休憩する二人は故郷に錦を飾った演歌歌手のグループに遭遇する、そこで陰口を叩く主婦達、騒ぐグループ、西村と尾根、ささいな出来事に涙する歌手、やさしさを見せる尾根、軽蔑してシラケル主婦グループ、そのやりとりに西村は自分の人生にはなかった人間模様として捕らえるかのようであった。
箱根を車は登る、電気系統のトラブルで霧の山道で車は突然のストップ、そこへ近くに住むであろう子供がと出会う、子供の父親の死を屈託の無い様子で話す子供に言葉を無くす二人・・・子供を家の近くまで送る、子供を下ろして
尾根「あの子もよっぽど退屈なんだな」 西村「あんな子供が退屈するかな」 尾根「貧乏は嫌だけど退屈は嫌だからな・・・」
この短いやりとりに二人の旅の意味を感じる。
そしておじさんの牧場に着く。

♪僕は呼びかけはしない 遠く過ぎ去るものに・・・・・
       少女よ泣くのはお止め 風も来も土も みんなみんな たわむれの口笛を吹く♪・・・・・・・

二人は最高の笑顔でカーボーイになる。


おじさんの話を二人はそれぞれの気持ちで聞く、西村は自分の周りにいない憧れを抱くように、尾根は現実を指摘しながらも自分の世界には無縁な二人の話を聴き入る。
おじさんの「嘘をつかない人」・・・・その言葉に西村は東京から車を盗んできたことをおじさんに告げる、そして警察の迎えがくる、西村は泣き尾根は無言でおじさんに助けを求めるが罪の償いへうながされる、おじさんは西村に強くなることを望む。
パトカーへ乗せられ牧場を後にする、途中来る時に出会った子供の事故に遭遇する、子供の父も車の事故で死んでいる、泣きじゃくる母親・・・・・
二人の取調べは西村の父親の社会的地位が確認され二人は引き離される、19才の二人の若者・・・・それぞれの若者を大人は差別した・・・・
西村は二人でやった事を叫ぶ・・・尾根はあきらめ顔で遠くへ目をやる・・・・・・・・

♪母親の物語にあきて 父親の本を読みあきて・・・・・・・少年は旅に出る・・・・・・・
       地平線の向うに何がある・・・・・・ララララララそして見た・・・・彼と同じ年頃の腹をへらして疲れきった少年だった・・・

短い二人の初めての旅・・・・・生まれ育った環境へのそれぞれの不満を感じ、それでも二人は確かに楽しかった短い時間を過したのだと想う。


久しぶりに 歌いたくなりました。11年ぶりのNHKホールです。43才、いまさらの感がありますが、
       歌は折々の想いの影を映し出すものと思いなおして・・・・
     年なりの贅沢な恥さらしをさせてもらいます。                     小椋佳 

                    

来生たかお 井上陽水 二人のゲストと・少しは私に愛をください・を歌う  NHKホール
やさしく穏やかな小椋佳の詩にまた出会いたい。