グループ・サウンズ ♪

    

ビートルズを誤解することから始まったとさえ言われる《グループ・サウンズ(俗称GS)》は元々洋楽レーベルからリリースされる邦楽を和製ポップスという言葉でジャンル分けをした頃から始まる。
1966年当時としては画期的なレコード発売形態であった和製ポップスの中で67年後半(スパイダース)(ブルーコメッツ)が独特のジャンルを作り68年の《タイガース》《テンプターズ》の出現により短くも最大の音楽ジャンル《GS》が確立され数百のGSバンドが若者文化の中で熱く歌い消えていった、そんな私の最も大好きで魅せられた《GS》を紹介していきます。

1/7 A-ザ・ダイナマイツ 1/27 B−日活ヤング・アンド・フレッシュ 2/26 C−ザ・ゴールデン・カップス 4/7 Dヴィレッジ・シンガーズ 5/12 E-ザ・ランチャーズ
8/24 F-ザ・サベージ H15・4/3 G-ザ・ハプニングス・フォー
 


                   

清水道夫のボーカルと小池哲夫の電子オルガンが加わったヴィレッジは彼ららしいサウンドを確立し68年2月《亜麻色の髪の乙女》を大ヒットさせる。
最近TVCMで亜麻色の髪の乙女がカバーされて流されている、デビューから5曲目の《亜麻色の髪の乙女》は、ドビッシーの曲を思わせるタイトルで作曲者すぎやまこういち氏のタイガースの花の首飾りと並ぶ最高傑作であり、すぎやま氏ならではのクラシックの要素を取り入れたGSの楽曲スタイルの一つとして永遠の名曲として歌い継がれるGSナンバーだと思う。
解散後ドラムの林ゆたかはオールディズライブハウス・ケントス・の総合プロデューサーで腕を振る、そのケントスで93年グィレッジ・シンガースを復活させ楽しませてくれた。

メンバー
小松 久(リードギター) 笹井 一臣(ベース) 清水 道夫(ヴォーカル) 
小池 哲夫(電子オルガン) 林 ゆたか(ドラムス)


C−ザ・ゴールデン・カップス

 
デイブ平尾はビートルズが日本公演のあった次の日、1966年7月3日アメリカへ渡ってアメリカポップ音楽を現地で実体験し感化され帰国、すぐにハーフの仲間を集めてバンドを結成する。
バンドは、よく演奏していた横浜・ゴールデン・カップ・からザ《ザ・ゴールンデン・カップス》と名付け本格的バンド活動をスタートさせた。
リズム&ブルースやブルースのコピーを得意とするメンバーは音楽のことで喧嘩を繰り返し、元々かなりの実力者ぞろいの彼らによりハイレベルな演奏力、独特のルックスと雰囲気が備わっていく、そんなハマで人気の彼らは、・恋のハレルヤ・で人気の出てきた黛ジュンの目にとまり彼女の所属レコード会社に推薦され、67年6月レコードデビューを果たす。
68年4月にリリースした・長い髪の少女・の大ヒットでGSシーンのトップバンドの仲間入りをするが、彼らの演奏するコピー曲、オリジナル曲は他のGSとは違い、ロック色の強い確かな演奏力、特にそれまでのリードギターのベンチャーズ風な綺麗なメロディーを弾く奏法とは違う、フェズ・ギター(ベンチャーズも以前から演奏に取り入れている)をギンギンに取り入れたサウンドに、バンドではいつも地味な存在だったベースギターをマー坊ことルイズルイス加部はポール・マッカートニーばりに演奏してカップスのサウンドに厚みを持たせた、彼は当時、ルックスと奏法のカッコ良さでベーシストの人気を一人占めにした、そしてアメリカナイズされたデイブ平尾の自由なフィーリングから発せられるボーカルにマモル・マヌーのボーカルの絡みは、洋楽を完全に消化できる実力バンドならではの独自性を感じさせた。
オリジナル曲の・いとしのジザベル・銀色のグラス・長い髪の少女・などの楽曲も作りて鈴木邦彦氏は洋楽をかなり研究して他のGSに書く曲とは異なり、より高度な演奏力を備えたカップスならではの思いで書かれているように感じる。
しかし彼らは、オリジナル曲をTV用の曲にしか思わず、ステージではもっぱら洋楽をカッコ良く演奏していたようだが、カップスのオリジナル曲と雰囲気はハマのアメリカをサウンドで作り上げ、それ以後のキャロル、ダウンタウン、山口百恵など横浜、横須賀を背景にJポップシーンに登場するアーティストの原点になっているのは確かだと思う。
カップスはオリジナルメンバーの他にミッキー吉野、アイ高野、柳ジョージなどのメンバー入替えの末72年解散した。

オリジナル メンバー

デイブ平尾(ボーカル)  エディー藩(リード・ギター)  ルイズ・ルイス加部(ベース)
マモル・マヌー(ドラム)   ケネス伊東(サイド・ギター)


B−日活ヤング・アンド・フレッシュ

1965年12月東宝で加山雄三のエレキの若大将が封切られると映画のヒットとエレキギターの大ブームが起こる。
日活でも同時期歌謡映画(舟木一夫主演ものを中心にヒット作が上映されていた)が制作されていたがエレキのインパクトは強烈で日活でもブームの兆しを感じギターが弾けた山内賢を中心にドラムを叩く和田浩治等日活若手俳優でバンドを結成する。
ネーミングはそのままの感がある日活ヤングアンドフレッシュと名付け、加山雄三が寺内タケシとブルージーンズと共演させたようなバンドとして人気が出始めていたザ・スパイダースを起用して、1966年3月27日青春ア・ゴーゴーが制作封切られ、66/7涙くんさよなら、67/2二人の銀座、67/5夕日が泣いている、67/8ザ・スパイダースのゴーゴー向こう見ず作戦、67/10東京ナイトと制作された。
ザ・スパイダース、ジョニー・ティロットソン、ベンチャーズそして山内賢と日活ヤングアンドフラッシュ、彼はエレキサウンドをそれぞれの映画で効果良く見せ、聴かせた。
私は日活の映画をジュディオング、太田雅子、和泉雅子見たさに映画館に行きましたが、それらの映画を見るたびに彼等のサウンドとバンド編成(ボーカル・リードギター、サイドギター、ベース、ドラム)の魅力に魅せられ音楽が急速に変化していくことを感じました。
日活ヤングアンドフレッシュが青春ア・ゴーゴーで結成された時は、スパイダース、ブルーコメッツが単独バンドで活動し始めたばかりの頃で1年後のタイガースその後のテンプターズを初めとするGSの出現を見ても、GSと言う言葉がまだ生れる前、エレキバンドとしてGSしていた日活ヤングアンドフラッシュは私には大好きなGSの一つで、加山雄三と同じくらいの評価を受けてもいいのでは、と思います。
日活ヤングアンドフラッシュの曲はヒットとまではいかなかったが、TVでベンチャーズと共演していた彼等はカッコ良く日本を代表するGSに見えました。

*青春ア・ゴーゴー〈作詞 青島幸男〉 植木等の詩を書いていた青島氏の作品。
♪はじけるんだ 青春が♪・・・新しさと生意気さが感じられる当時らしい詩である。
*僕だけのエンジェル・きっと何処かに〈作詞・作曲 山内賢〉 山内賢、自ら書いた2曲。
・きっと何処かに・はGSの哀愁おびたせつないラブソングの原点のような気がする良い曲です。
*二人の銀座、東京ナイトはベンチャーズが山内賢と和泉雅子に書いた作品。