春は学生にとって変動の季節である。
 おおむね学年が上がり卒業生の空白を新入生が埋める。そして、去っていった最上級生と比べる までもなく、三井が所属する男子バスケットボール部の新一年生はとびきり生きが良かった。 推薦入学の学生のやってくる三月末頃から、部内はひどくにぎやかになっていた。
 その日も練習後体育館から寮に戻る道すがら、図体だけがまた大きくなった赤頭と無愛想な黒髪が やりあっていた。発端は練習後の掃除のときにモップがぶつかったとかどうとかいう些細なこと だったが、いさかいは果てしなく発展していく。
「だいたいてめーは邪魔なんだよ」
「てめーに言われたくねえ」
「早いとこアメリカへでも行っちまえってんだ、キツネヤローめ」
「言われなくても行く」
 短期間に全国の強豪にのし上がった湘北高校の二枚看板がそろって同じ大学に進んだことは、 ある種のセンセーションだった。当然同じ高校だった三井がパイプ役になっていると思われ、 赤木や宮城からも色々言われたのだが、早くから相談にのっていた桜木はともかく、アメリカ留学を するとばかり思っていた流川の入学には三井も驚いた口だった。もっとも入学の条件にアメリカ留学が 入っていたというから、それが決め手になったのかもしれない。
 腐れ縁の彼らは、いやなら無視すればいいのに律儀にもとことんやりあうのだ。そんな二人の いがみ合いは、「喧嘩するほど仲がいい」という範疇からは大幅に逸脱しているが、それはそれで やはり名コンビと言うべきだろう。数メートル背後で展開している相変わらずのやりとりに三井は しぜん微笑んだ。
「三井さん……」
 すぐ後ろからかかった声はそのころにはいちばんなじみになっていた声だった。
 振り返ると、仙道の穏やかな笑顔が三井を迎えた。
「そろそろ例の約束を実行したいんですけど」
「ああ?」
 いきなりそんなことを言われてもわからない。三井は本気で眉間にしわを寄せた。三井より高い ところにある笑顔の持ち主は、少し困ったような表情を浮かべた。
「そうかあ、約束って言っても三井さんの了解をとったわけじゃなかったですよね。……今日は 気候もいいし、どうかなって思ったんですけど」
 そう言って振り仰ぐ視線の先に、前の年三井が一人で眺めた桜の木がある。そこで三井は仙道が 言おうとしていることを理解した。もっとも今度はわからない振りを続けたが。
 二人で花見をしようというのは、一年と十一ヶ月前に仙道が一人決めしたことだった。しかし すでに桜の季節の過ぎていたそのときは実現できず、一年経った前年も仙道は花見に間に 合わなかった。だが季節は巡る。心をつないでいる恋人たちに再び機会を提供するために。
「どうです、とっておきの花見スポットに案内しますよ」
 仙道の誘いに三井は慌てて周囲を見回した。確認すると、誰も彼ら二人を見ている者はいなかった。 ほかのみんなは全員一年生二人の騒ぎの方に気を取られていて、三井はほっと胸をなで下ろした。
 何気ない風を装っていきなり誘いをかけてくる仙道の神経の太さに三井はいつも肝を冷やしていた。 仙道イコール恋人という認識ができても世間の目は気になる。それどころか自覚が邪魔をして、 ふだんは必要以上に距離を置いてしまう三井だった。もっとも割り切りが早かったら、彼はとっくに 「三井寿」を廃業していただろう。
 三井は相手を睨めつけた。
 仙道はいつも通り柔和な笑みを返してくる。この笑顔に、実は三井は弱い。彼はきつくしきれない 表情を隠すために後ろに向けていた顔を前に戻した。
「まあいいけどよ」
「ほんとですか?」
 仙道の弾んだ声を聞いて三井は嬉しくも面映ゆい気持ちになる。
 うわつく気持ちを振り切るように注意を仙道以外の人物に向ければ少し離れたところでは騒ぎは まだ続いていた。よくもまあそんな元気が残っているものだと三井は感心した。おかげで普通の神経を している部員たちは早々に退散していて、気がつけば学年を飛び越えて決まった顔ぶれがいつも 帰路を共にすることになっていた。すなわち、三年生四人、二年生一人、一年生二人の精神的規格外 メンバーである。
「おいおい、いい加減にしろよ。おまえたちには軽い挨拶でも、端から見るとすごく物騒なんだから な」
 次期主将当確の牧がやっと割って入るころには、衝突はいつものように殴り合いに発展していた。
「挨拶なんて冗談じゃねえぞ!」
 桜木が大げさに飛び退いて怒鳴ると、流川は流川でまるで汚いものでも触れたかのように ジャージで手を拭き出す始末だった。
 しかし争いが小休止したのを待っていたというように牧はさりげなく問題児の間に割って入った。
「それより桜木、今日はシュートが絶好調だったじゃないか」
 練習中のいいところをきちん見て、桜木の気を逸らす。単純な桜木はすぐに話にのってきた。
「今日も、だぞ、じい。この天才桜木にできないことはないんだからな」
 絶妙のタイミングである。さすがに常勝海南の主将だっただけある、 とこんなとき三井は感心しながら思う。
「おい、牧、おまえって教育学部だったっけ?」
 聞いたのは騒ぎを少し離れたところから笑いながら眺めていた諸星である。
 牧は怪訝そうな顔をした。
「いや、経済だけど」
「それにしちゃあ、子どもの扱いがうまいってな」
 河田が面白がっているように続ける。
「ふぬっ、丸ゴリ、誰が子どもだ?」
 いったん収まった騒ぎの種がまたぞろ芽吹く。河田も諸星も面白がっているだけで何も言わない。 すると流川がぼそっとつけ加えた。
「牧センパイはサルの扱いが得意。相手し慣れてる」
 それにはさすがの河田も目を丸くしてしまった。諸星は吹き出した。流川は自分もその「サル」の 一人だとは考えていないらしい。
「ルカワ、てめー、キツネの分際で何言ってやがる」
「うるせー、サル」
 再び始まった練習後のレクリエーションに牧はため息をついた。この二人がそろって入学したから には、そろそろ彼も腹を据えなければならない。サルの扱いに長けていると当の本人からお墨付きを 頂戴したのだから、早晩調教方法を考えなければならないだろう。しかしそれまでは忍の一字しか ないようだった。
 もちろん桜木と流川のいざこざに馴れている三井は、湘北時代が戻ってきたような懐かしさを 感じながら騒ぎを見ていた。
「……三井さん、後輩は可愛いですか?」
 半分飛んでいた意識を自分の方に引き戻そうとする声がする。三井は振り向かずに答えた。
「ったりめーだ」
「でもいまはオレだって後輩なんですからね」
「可愛くねえ後輩だろ?」
「……それは三井さんのが可愛いから」
 すぐ近くに人がいないのをいいことに言いたい放題だ。次に何と言ってやろうか勢い込んで 振り返ったとき、牧の声がした。
「それにしてもずいぶん暖かくなったなあ。今日は夜までこうらしいぞ」
「そういや、知ってるか、理工学部図書館の裏のあたりは、桜がえらく見事なんだってな」
 牧の言葉に答えたのは諸星だった。
「それじゃあ、花見でもするか?」
「花見って言ったら夜桜だよな」
「おっ、いいね」
 何かとお祭りの好きな面々のこと、話は一気に盛り上がった。ただし一人を除いては。
「よっしゃ、それじゃ、盛大にやろうぜ。……都合の悪いやつはいるか?」
 河田が視線をめぐらすのに、仙道が反応した。
「あの、オレ、ちょっと野暮用で」
 三井が何を考える暇もなく仙道は宣言してしまった。とたんに全員が好奇心に満ちた表情を 浮かべた。
「何だ、仙道、デートかよ。まったく、もてる男は違うな」
 全くもてないわけではない諸星が言う。彼自身部活をきちんとこなし、つきあいもいい。それで 彼女もキープしているスーパーマンのような男だ。もっともデートよりバスケ部連中と過ごす時間が 長いのは危険信号かもしれない。
「……まあ、しゃあねえな。無理にとは言わねえよ。……おい、一年のサルどもは大丈夫 なんだろ?」
 河田が続けた。サルという言葉は大型ルーキー二人のワイヤーロープのような神経にも障った ようだったが、河田のことはどちらも彼らなりに苦手にしているらしく、衝突は起こらなかった。 そして口々に参加の意志を表明すると、もうそれまでの殴り合いは終息してしまった。
 そこで河田は三井の方に向き直った。
「三井、おまえは? おまえも野暮用か?」
 据わった目でじっと見られる。
「オ……オレは大丈夫だよ」
「え……」
 仙道が声を上げさらに何か言おうとしたので、思わず足を踏みつけていた。そして決まり悪さを 感じる間もなく、桜木が笑いながら言った言葉に三井は反応してしまった。
「はっはっはっ、ミッチーがデートのわけねえよな」
「何だと、桜木、てめえ!」
 つかつかと歩み寄って桜木のTシャツの襟元を掴み上げるが、体力小僧は少しもこたえた様子が ない。
「ホントのコト言われて怒ってる」
「流川!」
 無口な流川までが茶々を入れてきて三井は完全に切れた。
 寮までの道はそれからは騒ぎの中だった。気がつけば仙道に全くフォローをしないうちに 帰り着いていた。



 寮に戻った面々はそれぞれに花見の準備に入った。
 暗くなったら出かけようと思っているのに、春の日はなかなか落ちてくれない。結局寮を出るのは 図書館の閉まる八時ということになった。
 しかし楽しいはずのその時間を、三井はあまりわくわくした気分で過ごせなかった。玄関ロビーの ソファに座って頬杖をつく。お祭り騒ぎは大好きなはずなのに、どうも気勢が上がらなかった。
 原因はもちろん仙道との約束を一方的に破棄したままにしたことだった。謝ろうにも、彼は寮に 入っておらず、電話でもかけない限り声も聞けなかった。
 もともとスポーツ推薦の特待生でない仙道は、入寮の義務のないことを良いことに寮から歩いて 五分ほどのマンションに一人暮らしをしている。二人で過ごすときは、もっぱらその部屋か、 その部屋から外に出るかで、一年の間に三井にもなじみになっている場所だ。それもこれも、 寮に押し掛けられないための苦肉の策だったのだが、約束をすっぽかされて仙道はその部屋で独り 夜を過ごすのだろうか。
 そして彼を怒らせたかと思うと気が滅入った。怒って当然だが、知り合ってこのかた仙道が 怒ったところは見たことがなかったので、そう考えると少しこたえた。
 そのときうすぼんやりとした目の前の風景が不意に変化した。その理由を確かめる間もなく両頬を 掴まれ、思い切り引っ張られた。
「なっ、何すんだ!」
 頬を無遠慮につまんでいた指が離れると三井は言った。気がつけば大きくてごつい顔が 視界いっぱいに広がっている。
「ぼーっとして、どうしたんだよ」
 河田だ。半分わかっていたが、確認してため息をついた。
「ガキくせーことすんなよ。オレだって考え事ぐれえすんだって」
「へえ……雪でも降んじゃねえか? ま、どうでもいいけどよ。それより食いもんの手配は どうした?」
 三年生が資金、一年生が労力を提供することでこの日の宴会は成り立つという寸法だった。 そして強面の二人に使い走りを命ずるのは当然高校時代からの先輩三井だった。
「桜木と流川に買いに行かせた。桜木がコンビニとパン屋で流川がケンタだ。一緒にやると騒ぎを 起こして逮捕でもされかねないからな。酒は行く途中で仕入れてけばいいだろ」
 やることはやっているんだ、と胸を張る。食糧と酒の調達さえ済めば、もう準備は整ったと 言ってもいい。
「おい、三井」
 呼ばれて振り返ると、牧が手招きしていた。
「何だよ、牧」
 ソファから立ち上がって、風呂場へ向かう廊下の角に立っている牧のところまで行く。
「うん、ちょっと……」
 彼は三井と肩を並べて立ち言いにくそうにしていたが、すぐに意を決したように小声で続けた。
「おまえ、ほんとは今日、仙道と約束してたんじゃないか?」
 三井は眉をひそめるしかなかった。牧は天を仰いだ。
「やっぱりそうか……まったく、気づかなくて悪かったよ。でもおまえも言ってくれりゃいいんだ」
「言えって、仙道とのことをかよ」
「いや、だからな、嘘でいいから……って言ってもおまえには無理か」
 牧は息をつくと三井の方に向き直った。
「こっちの方はオレが何とかするから、仙道のところに行ってやれよ。誰かさんにないがしろに されて寂しがってるぞ」
「やなこった」
 頬をふくらませて答えた。牧が肩をすくめる。
「冷たくして浮気でもされたらどうする?」
「ふん、オレは何とも思わねえぜ」
 鼻で笑って言う。強がりというより、そんなことは考えたことがなかったのだ。そして他人から その可能性をつきつけられてもいっこうに現実味を感じられない。目の前の牧は苦笑していた。
「おまえも変わらないなあ。すっごい純愛ぶりを見せてくれたかと思えばこうだもんな。 喉元過ぎれば熱さを忘れるって言うけど、本当だ」
 牧の言葉に三井の頬は熱くなった。
「……な、行ってやれよ、おまえだって……」
 そのとき玄関の方が騒がしくなったかと思うと、真っ先に桜木の声が響いてきた。
「てめえ、どうして……」
 初め、寮の入り口で流川と桜木が鉢合わせしたのかと三井は思った。しかし次に聞こえてきたのは 意外な声だった。
「そんな目くじら立てないでくれよ、オレだってバスケ部員の端くれなんだから、 入れてくれたっていいだろ?」
 のんびりとした口調のその声は紛れもなく仙道のものだった。
「よう、仙道、どうした、デートじゃなかったのか?」
 ちょうど階段を下りてきた諸星が玄関に寄っていく。仙道の声は前より近いところでした。
「いやあ、ふられちゃったもんですから」
 三井と牧は期せずして目を見合わせた。声の主は別にすすめられてもいないのに中に上がり込んで くる。
「何だ、センドー、ふられたのか!」
 先輩を先輩とも思わない桜木の言葉を受け流す笑い声の後に、やっと三井のいるところからも 仙道の姿を認めることができた。目が合った瞬間、彼は嬉しそうに微笑んだ。その笑顔だけで三井の 憂鬱は吹き飛んだが、今度は照れくさくなって顔を背けてしまった。
「それにしてもセンドー、いきなり来られてもてめえの食うもんなんかねーぞ」
「そいつは大丈夫。ほら」
 差し出した紙袋には寮近くの小さな食堂の名前が記されていた。バスケ部員の間でいなり寿司と 海苔巻きの安くてうまい店として人気を集めているところだった。
「買い占めてきましたから」
 ずっしりと重い袋を近くに来ていた諸星に渡すと言った。その手みやげで仙道はめでたく 仲間入りを認められた。遅れて返ってきた流川が少し不機嫌な表情を見せたが、すぐに時間が来て、 結局いつもの七人は賑やかにキャンパスに向かった。



 寮から近い西門は、土曜のこの日には七時で閉鎖されていた。しかし周りを囲う塀が一メートル 五十センチほどの低さでは、乗り越えるのは大して難儀なことではない。まず下級生三人が塀を 乗り越え、食べ物の受け渡しを門越しにした後で、残りの四人がキャンパス内に入った。
 中は静かだったが、ところどころに設置された常夜灯のせいで真っ暗というわけではなかった。 立ち並ぶ建物の窓にもぱらぱらと明かりがつき、夜の大学はそれなりに活気を見せている。
「理系の連中ってさ、実験やら何やらで、結構夜中も大学に残ってんだよな」
「一日二十八時間で生きてるやつもいるらしいぞ」
 諸星が言うと河田が続ける。もっとも一日二十八時間で暮らす学生は一週間が六日で巡るらしい、 とつけ加えた。
「これから行く理工学部の図書館も、教官は閉館後に磁気カードで入館できるってことで、 だから結構夜間も明るいらしいんだ」
「詳しいんだな、ダイちゃんは」
 この中で諸星を「ダイちゃん」呼ばわりするのは当然桜木だけである。そしていまさらそれを 咎めるような人間はそこにはいなかった。
「ま、独自の情報入手ルートがあるからな」
 笑って答える諸星のいまの彼女が理工学部生らしい。
 ともあれ「夜の学校」につきものの陰惨な雰囲気は、一緒にいるメンバーのせいか、あまり 感じられなかった。
 西門からの車道沿いには土手の上に桜の木が連なり、闇にぼうっと浮き上がっていた。目的地は その並木の奥の一画で、そこまでくると土手に刻まれた石段から上へ昇った。
「わあ……!」
 上の世界に着いた三井たちを迎えたのは満開の桜の天井だった。土手の上の小径を覆うように枝を のばしている。土手下から見上げる桜より、数段壮観だった。横を窺うと、いつの間にか隣りにいた 仙道と視線が合った。
「すげえな、桜がこんなにきれいだなんて、思ったこともなかったぜ」
 素直に口に出すと仙道が頷いた。
「夜桜はまた特別ですよね」
 満足そうな笑みに三井も微笑んだ。
「桜がきれいって、あったりめーじゃねえか、オレ様の花なんだからな」
 元気な桜木が割り込んでくる。三井は笑ってしまった。
「桜木、確かにおまえの名字に入ってる花だけど、おまえと桜っていったら、どっちかっつーと、 遠山の金さん思い出しちまうぜ」
「そう言われて考えるとおまえの名前って、派手な名前だよなあ」
 三井に続いて諸星の言った言葉に流川と桜木を除く全員が爆笑した。
「天才だからな!」
 皆が笑うのも気にせず桜木が豪語するのに流川がぽつりと「名前負け」と呟く。桜木はその小声を どういうわけか笑い声の中から聞き取ってまたも喧嘩になりかかったが、河田と牧が押しとどめて、 何とか花見の宴は始まった。
 そこは、図書館の裏手というより図書館に併設されているカフェテリアの庭で椅、子やテーブルも あったが、彼らは持ってきたレジャーシートを地面に敷くと、その上に食べ物や酒を広げて車座に なった。
 花見と言いつつ、宴もたけなわになると肝心の桜はすっかり頭の中から飛んで、結局バスケ馬鹿たち の集まりはバスケの話で盛り上がった。場所柄カラオケをやるわけにもいかず、手垢のついた宴会芸も お呼びでなかったので、それがいちばん自然な形だった。
 春は気まぐれでときには冬の名残の冷たさをまとうことがあるが、この日は夜に入っても大気は 暖かかった。
 その中で酒がいちばん強いのは河田で、この男は飲んでもほとんど普段と変わらない。諸星は 番付としてはその次ぐらいだろうか、酔うとかなり陽気になる。牧はあまり無茶な飲み方をしないが、 結局介抱の手が必要なときにはその役にまわっているので、ひょっとすると恐ろしく強いのかも しれない。それを言うなら仙道も一緒だ。もっともとりたててアルコールに強いわけではない三井の 目から見てだから、全くあてにはならないが。
 しかし弱い方ではまだ下がいた。桜木だ。彼の不良生活は喧嘩とパチンコだけだったらしい。 ビール一杯で顔は真っ赤になり、格段に賑やかになる。そして静かになったときには眠っている。
 もう一人の一年生流川は強いのか弱いのかさっぱりわからないのだが、気がつくと座ったまま 寝ているというパターンだった。合宿や遠征で一緒に過ごした経験からすると、それがアルコールに よるものなのか、それとも「おねむの時間」になったからなのか、よくわからないのだ。
 この七人を含むメンバーで飲み会をしたのは新歓コンパも入れてまだ三度目か四度目だったが、 やはりこの日も例に漏れず、やたら賑やかだったのが落ち着いたと感じられるようになったときには、 一年生二人が気持ちよさそうに寝入っていた。
「ほんとになあ、寝てるときは素直で可愛らしい顔してんのに」
 思わず三井が呟くと河田が変な声で笑った。
「誰かさんと一緒だぜー」
「ああ?」
 すぐにはぴんとこなかったが、仙道も牧も諸星も笑いを噛み殺しているのでわかった。
「オレか?」
「牧が可愛かったら気持ち悪いだろ?」
 すかさず諸星がたたみかける。
「そっ……それは……」
 牧に目をやると、彼はとんだとばっちりに苦笑していた。が、さらにつっこもうとしたとき、 仙道が拍子抜けする声を出した。
「あっ、もうビールがない」
 言いざま立ち上がった。
「確か正門前の酒屋に自動販売機がありましたよね。オレ、ちょっと行って買ってきます」
 そこで彼は三井の方を向いた。
「すいませんが、三井さん、つきあって下さいよ。一人じゃ心許ないんで」
「お、おう」
 その誘い方があまりにも自然だったので、三井もつられて立ち上がった。
「それじゃ、すぐ戻ってきますから」
 仙道の言葉を合図に二人は酒の買い足しに向かった。三井はいまいる裏庭から正面の方に道が 抜けているのを見た。そして石段の方に向かいかける仙道を止めて、建物を回り込む方を指す。
「正門はあっちだぜ。きっと通り抜けできると思う」
 二人は石段とは逆の方に進んだ。選択した近道は正面出口にはつながっていなかったが、内と外を 隔てる金網のフェンスは簡単に乗り越えられそうだった。
 桜は裏庭だけでなく、建物の側面も彩っていた。一本の立派な木が、まるで天幕のように二人を 包み、豪奢に花を咲かせている。先刻の花のトンネルも印象的だったが、この古木の趣はまた格別な ものがあった。
「きれいだなあ、ここも」
「すっげーよ……」
「せっかくだから、しばらくここにいませんか」
「おう」
 二人きりになるのがこんなにたやすいことだとは思わなかった。思いがけない時間に三井の気分は 浮き立った。
 かいま見える空には春特有の朧月。暖かい大気と合わせ、何とも言いようのない幸せな気分に 包まれる。
「……三井さん、オレね……」
「ああ?」
 幹によりかかって、隣りにいる仙道を見るのに少しだけ目を上げた。視線が合うと仙道は目を 細めた。
「オレ、二人きりで花見したかったんですけど」
「そのことについてはオレが悪かった! いくらでも謝るから……」
 それ以上仙道の口から恨み言めいたことを聞きたくなくて三井は必死に謝った。仙道は少し 驚いたように目を見開いた。
「いや、違うんですよ、そんなに下手に出ないで下さいよ。……雪でも降るんじゃないかなあ」
 寮で河田に言われたのと同じ言葉を聞いて三井は頬をふくらませた。
「オレが謝るのはそんなに珍しいことかよ」
「三井さんはね、口より目の方が正直だから、いまのままでいいんですよ、きっと。 ……肝心なことだけは伝えてくれないときっと困るだろうけど」
「肝心なこと?」
「上と特上の違い……とか」
「なんだそりゃ……寿司か?」
 仙道は直接答えず微笑むだけで、空をふり仰いだ。
「……ほうら、雪が降ってきた」
 そよ風の散らした白い花びらが風花のようにちらちらと舞い落ちてくる。やがて仙道は三井に 目を戻してきた。
「今日の二人の約束は駄目になっちゃったけど、何もこれが最後の機会ってわけじゃないんですよね。 今日が駄目なら別の日があるし、今年が駄目ならまた来年もあるし、再来年もあるし……」
「何だよ、そこまでオレたちつきあってんのかよ」
 目は正直、という仙道の言葉を思い出し、顔を背けて言う。
 なぜなら、三井も仙道と同じように、ずっとずっとこの季節をこんな風に楽しんでいけたら、 と思ったのだ。だいぶ毒されているという自覚はあるが、この甘さは浸ってしまえば快くなくもない。
 そのとき、闇が一斉に息をひそめたと思うと、いきなり突風が吹きすぎた。
「わあっ!」
 巻いて過ぎていく風に満開の桜が花を散らした。花びらが乱舞し彼ら二人を包み込む。 静寂と不完全な闇、そして狂気さえはらんでいるような花嵐。眩暈がするほど圧倒的で、 三井は思わず息を詰め、仙道の手を掴んでいた。その手は三井の手を握り返してきた。 夢のような光景の中で、その感触と体温だけが確かなものだった。
 やがて嵐は過ぎ、飛んでいた花びらは一面淡い色の絨毯となった。一瞬前の妖しい美しさを片鱗も 見せず、桜の古木は荘厳に咲き誇っていた。
「三井さん」
 名前を呼ばれたので顔を声の方に向ける。すると仙道は口角を上げた。 実に艶のある笑みを掃いて。
「……唇に花びらが……」
 言われて気づいたが、指でとることを考える前に仙道の顔が近づいてきた。その唇が、 三井の唇についた花びらをついばみ、軽く触れただけであっさり離れる。自然に閉じていた目を 開ければ、仙道は唇でつまんだ花びらを手で取り去り、すぐにまた唇を近づけてくる。 今度は前より深く、だが、それより先に進むことを前提にした性急さのない、ただ豊かさだけが 感じられるキスだった。嘘も意地も、全ての虚勢はその前に消え去ってしまう。
 唇を離し顔を離すと、三井は肝心のことだけは言ってほしいという仙道の注文に半分応えてやった。
「オレは、誰にでもこんなことさせてるわけじゃねえんだからな」
「はい……?」
 そんなことはわかっていると言いたげに仙道は声を上げる。
「そりゃ、昔は何もわからない馬鹿だったかもしんねえけどよ、人間ちっとは進歩していくもん なんだぜ、その気になりゃあな」
 そこで三井はため息をついた。
「……でも、その、なんだ、肝心で決定的な一言なんて、オレにはなかなか言えねんだよ、 そこんとこはうまく解釈しろよな、もう二年もつきあってんだから」
 その後の一言はたぶん昼間だったら言えなかっただろう。
「……いまんとこ、おまえのいいように考えていいからよ」
「三井さん……」
 軽々しく三井の名前を呼ぶ男は、それでもとりわけ感慨深げな声音で言った。
「おまえの言う肝心って、それだけじゃねえかもしれねえけど」
 言いながら照れくさくなってもうこの話題はいい加減にしようと思った。
「行こうぜ、あんまり遅くなっちゃ、みんな変に思うだろ」
 返事を聞かずにフェンスに向かって歩き出した。酒に酔っているのかそれとも桜に酔っているのか、 柄にもなくロマンティックになったりして、何だか背中がむずがゆかった。
 仙道はすぐ後をついてきた。
 これからもずっとそうだという予感がした。



 朧月夜に花吹雪。  春の夢はずっと終わらない。




*   *   *






おまけ■■■In the Backyard■■■


「あの二人って、まあ似合いの二人だよな」
 仙道と三井の二人が正門の方に向かった後、河田がぽつりと言った。
「な、何のことだ、河田?」
 あまりのことに牧が慌てて答えると、横から諸星が続けた。
「何、牧って気づいてなかったのかよ?」
「気づいてって……」
「三井って、ああいう性格じゃねえか、隠せば隠すほど行動とか顔とかに出てくるんだ」
「そうそう。すごく距離をおいてるかと思えば、やけに仙道のことに詳しかったり」
「それに二人でいるとやけに嬉しそうなんだ」
「すぐわかるよなあ」
 河田と諸星はけらけらと笑った。
 牧は眩暈がした。あんなに気を使って二人の仲が露見しないようにしてやっていたのは、 何のためなのか。この一年の胃の痛みを思うと泣けてくる。
「なあ、牧は本当に気づいてなかったのか? そうだとしたら、悪いがものすごく鈍感だぞ」
 諸星の言葉に牧は腹を据えた。
「オレは本人から直接聞いてた」
 だからかえってわからなかったと心の中で言い訳した。
「……でもおまえたち、知らない振りをしてやってたんだな。感謝するぜ」
 すっかり二人の保護者になってしまった牧は、なぜだか礼を言ってしまう。
「だって、そんなこと周りが知ってるなんてわかったら、三井のやつ死んじまうだろ?」
「だから、殺さない程度につっついて遊ぶ方が面白いって」
 またも河田が笑う。
 これ以上老け込んだらどうしてくれる、と思いつつ、牧はまたため息をついた。


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