耳障りな金属音で浅い眠りは破られた。
 不本意な目覚めに毒づきながら枕元の時計に目をやる。短針が七の少し前のところにあった。
 「くそガキが……!」
 呻くように呟いたが、体を起こしかけて気づいた。文句を言おうと思っていた相手は もうここに来るはずがないのだった。


 三井寿が初めて鉄男の部屋にやってきたのは二年以上前の夏のことだった。 そのときは仲間数人と一緒で、それからも何度かは大勢のうちの一人だったが、夏の終わる頃、 ふらりと一人で顔を見せるようになった。苦労知らずの子供のくせに、何かの痛みを抱えている ような表情をふとした折りに見せるのが気になって、そばにいるのを許しているうちに 関係ができた。十月。冷たい雨が降っていた。
 その後しばらくふっつりと姿を見せなくなったが、二ヶ月ほど経った雪のちらつく日に 部屋の前にうずくまっているのを見つけて拾った。寒いと言うので抱いてやった。
 それからはやって来る回数が少し増えた。だいたいは夜に顔を見せてそのまま泊まっていくという パターンだったが、たまに朝早くから彼をたたき起こして部屋の中に転がり込んできた。
 そんなとき三井は開くまでドアを叩き続けるということはしなかった。
 配管の関係か、修理工場になっている一階の外壁に衝撃が加わると、鉄パイプを思い切り打ち 合わせたような音を鉄男の部屋に響かせる。その音を初めて聞いたのは三井が来ているときだった。 近所の悪ガキがボールをぶつけて遊んでいるうちにそのスポットに当たったらしい。 窓を開けて怒鳴ると、ガキどもは蜘蛛の子を散らすように遁走した。 三井はその後部屋を出ていった。帰ったのかと思っていると少ししてまた例の音がした。 いきなり内耳に飛び込んできて神経を鷲掴みにするような不快さがあった。鉄男は窓を開けた。 怒鳴ろうと思った彼の視界の中に三井の笑顔があった。怒りは不発に終わった。
 それ以後、そのスポットは三井が鉄男を叩き起こす目覚まし時計代わりになった。 最悪の目覚めの後、不承不承ベッドから離れ、窓を開ける。仏頂面を迎えるのはいつも、 何かから逃げようとしている長髪の高校生だった。
 三井はバスケットボールのことは何も言わなかった。 同じ高校の徳男たちも知らなかったと言う。
 だから例の殴り込み事件で全てがわかったときは正直、呆気にとられた。しかし 「バスケがしたい」と言って泣き崩れた姿を見て感じたものは、妙なことに、安堵の気持ちだった。
 その後、三井とは一度会っている。全くの偶然で煙草を一服する間分話した。 思い切りよく切った髪が存外似合っていて、別人のようだった。その健全スポーツマンがどうにも 気詰まりそうに話すので、早々に退散した。落ちた悪い憑き物の中に自分も入っていることを 再確認させられて、バイクを走らせながら苦笑いした。
 鉄男の思索を断ち切るように再びあのすさまじい音がする。
 彼は舌打ちするとベッドから降りてドアの方に向かった。曇りガラスの向こうは薄暗い。 余計な記憶と感情を呼び覚まされた腹立ちも手伝って、他人の安眠を妨害するやつをとっつかまえて やろうと思った。椅子の背にかかったGパンをひったくってはき、ランニングの上に 直接ゴアテックスのジャケットを引っかけ、素足をブーツに突っ込んだ。
 ドアを開けると冷たい風が吹き込んできて思わず身を縮めた。脇の階段を下りて、 窓の側にまわりこむ。
 まだ明け切らぬ空の下に、髪の短い三井が立っていた。


 スポーツマンみてーだな。
 五月のあの夜に会ったとき鉄男はそう言ったが、この朝の三井はもっとずっとスポーツマン らしかった。
 濃い色のトレーニング・ウェアを身に着けて襟元にはタオル。背負ったデイパックが 丸く膨らんでいるのはボールが入っているのだろう。夜よりも朝の暗さの方が似合う青年には、 長髪で拗ねた目をしていた甘ったれの影は少しも重ならなかった。
 「よう」
 靴底が階段を打つ音で三井はすでに鉄男の接近に気づいており、先に声をかけてきた。
 「……おう、久しぶりじゃねえか、どうした風の吹き回しだ?」
 「ランニングでこの近くまで来たから、ついでに寄ってみようと思ってよ」
 「ランニングだあ? おめえがか?」
 鉄男は笑った。
 「学校だってまだ始まってねえのに、新年早々ご苦労様なこった」
 「健全青少年だからな」
 相手の微かな表情が読めるほどまだ明るくなってはいないが、鉄男には三井がどんな顔で そう言っているのかわかった。たぶん口元に自嘲するような笑みを浮かべているはずだ。
 「大学でもやんだろ、バスケット」
 三井の体がぴくりと動いた。
 「徳男から聞いてる。良かったじゃねえか」
 言いながらジャケットのポケットを探った。
 実を言うと彼はインターハイの結果も知っている。
 第一戦、大坂代表の高校に勝った後、広島まで応援に行っていた堀田徳男から電話が かかってきたのだ。熱烈な三井信奉者の徳男は勝利と三井の活躍がよほど嬉しかったらしく、 三井のかつての仲間たちにてあたりしだいに電話をしてきたらしい。鉄男もその中に含まれていた 。いったん注意を喚起されるとその先も何となく気になって、翌朝から新聞のスポーツ欄の隅にまで 目をやって結果を追うようになった。大会二日目、前回優勝校を破って湘北は一躍全国区になった。 三井もシューターとして注目され始めた。
 指先はすぐに煙草とライターを探り当てた。
 「このオレが四月から大学生なんて、おかしいよな」
 煙草を一本取り出してくわえ、火をつけようとして下を向いたところに三井が答えた。
 「……んなことねえだろ」
 ものをくわえたままだったのでしぜんはっきりしない声音になるが、煙草の先が薄明の中で 赤く光ると、寝起きの肺に深く煙を吸い込んでから唇を自由にした。
 「強くもねえのにいきがって道っぱたで喧嘩売ってるより、よっぽどらしいだろーが」
 「……で、何の用だ、今ごろ」
 きっかけを作ってやる。
 「……ん……」
 しばらく三井はどう切り出したらいいのかわからないという風に考え込んでいた。
 風が吹き、明け方の冷え込みを存分に思い知らされる。 鉄男は背を丸めて片手を腋窩に突っ込んだ。
 「さみいな、部屋ん中、入るか?」
 返事も聞かずに背を向け、煙草をくわえて一歩階段の方へ踏み出すと、三井の声が追ってきた。
 「鉄男、オレ、おまえにまだ謝ってなかった」
 「ああ?」
 眉をひそめて振り返る。三井はそのままの場所に立っていた。
 「みんな振り回して殴り込みまでして、それなのにあっさり仲間抜けて平気な顔して バスケやって……」
 深刻ぶった物言いがおかしくて、つい口元が緩んだ。
 「それがどうしたよ」
 「鉄男?」
 「おめえはそういうやつだよ。好き勝手し放題で気まぐれで、そのくせ人一倍臆病で何も できなくてよ」
 煙をもう一回深く吸い込み、彼は灰を落とした。拗ねて荒んだ生活をしていても、 三井の不良ぶりは鉄男の目から見れば可愛いお遊びだった。結局喫煙癖すら身につかなかった くらいだ。
 「ま、そんなやつだって知ってて話に乗ったんだ。謝られる謂れはねえな」
 鉄男は煙草を足下に落とし、ブーツで踏んで火を消した。
 「まったく、そんなこと言うためにオレを叩き起こしたのかよ、てめーは。やめとけ、やめとけ、 雪が降らあ」
 紺から青への移り変わりを見せている空は、あいにくというのか、晴天の到来を約束している。
 「……ひでえよ、鉄男。せっかく謝ろうって気になってんのに」
 「がらに合わねえことすんじゃねえってんだよ。……それとも」
 鉄男はふと思いついたことを口にした。
 「いまのおめえはオレの知ってるおめえとは別人か?」
 言って歩み寄った。見慣れていないはずの短髪があまりにもしっくり目に馴染むのが 不思議だった。だがその下の表情は違う。似合わなかった暗い焦りはいまはみじんもない。
 「……ああ、そうかもしんねえな。あの体育館で無様にぼろぼろ泣いて 別人になっちまったんだろ?」
 「鉄男だって前はそんなにしゃべんなかったじゃねえか」
 三井は軽く切り返してきた。少々意外だった。
 あの頃の三井は、挑発されると必ず正面から反発してきた。胸の内に苛立ちの種を くすぶらせていた分、少ない言葉で感情はたやすく沸点に達した。その頑なさに業を煮やして、 睨み合ったまま無言で体を重ねたこともある。終われば三井は必ず精神を弛緩させたからだ。 鉄男にとってはとんだお荷物  それも毀れ物取扱注意の札の貼ってある厄介な 荷物だったが、突っぱねることもせず居場所を空けていたのは、まったくどんな気紛れから だったのだろう。
 そして三井はあの殴り込み事件をきっかけに元の世界に戻っていった。 鉄男はトラブルメーカーから解放された。
 めでたし、めでたし  のはずがこれかよ。
 童話では大団円を迎えた後に姫は森の小人のところになんか戻ってこない。姫は城で、 小人は森で暮らすのだ。そしてそれぞれの領分は決して重ならない。
 もっとも三井は姫ではないし、鉄男も小人ではないけれど。
 頭に浮かんだたとえが滑稽で、鉄男は小さく吹いた。
 「なんだよ、鉄男、何がおかしいんだよ」
 三井が口を尖らす。
 「いや、なに、こっちのこと」
 空が急速に明るさを増してくる。早朝の大気はひたすら冷たく、清々しかった。 街はそろそろ動き始める時間だが、いま二人が立っている路地裏の狭い空き地には、 まだ生活の臭いは漂ってこない。
 鉄男は三井の顔を改めて見た。目元の険がとれ、代わりに別の厳しさのようなものが 備わっている。それでいてどことなく柔らかさも感じるのは、きっと納得のいく環境にいる せいだろう。
 「鉄男……オレのことどう思ってた?」
 しばらく沈黙していると三井は聞いてきた。またも意外な言葉だった。
 「どうって、考えたこともねえよ」
 「邪魔だとか、うっとうしいとか、ガキで困るとか思ってたんだろ?」
 「ああ、そんなとこだな……」
 何気なく答えた。そう思ったのも事実だった。
 三井は笑った。
 「でもさ、オレは鉄男んところ、居づらくなかったんだ」
 少し照れたように言うのを見て戸惑いが大きくなる。
 「本当にしようがねえやつだって思われてたかもしんねえけどな……」
 三井はいったん逸らした目をまた戻してきた。
 「オレ、感謝してんだぜ、たとえ嫌われてたって……」
 「おい、三井」
 間違った勢いのつき始めた相手の言葉を遮って鉄男は言った。
 「……嫌いなやつのお守りするほどオレは暇じゃねーんだよ」
 口に出した言葉はどこか自分に不似合いな気持ちを代弁しているようで、がらにもなくうろたえて、 解毒剤になるような言葉を探した。
 「たとえばだ、寒い日に雨でも降ってたとするよ。そんで道ばたで捨て犬かなんか 見つけちまったとするだろ? そうしたら部屋へ連れ帰ってミルクぐれえ飲ませてやんだろ」
 今度は三井が吹き出す番だった。
 「らしくねえぜ、鉄男」
 思った通りの反応だったので気に障ることはなかった。鉄男は眉を動かしただけで先を続けた。
 「……その犬が腹一杯にしてどっか行っちまっても探さねえけどよ」
 「オレは捨て犬かよ」
 「犬より簡単」
 「ひっでえ……」
 抗議する三井の声は少し笑っていた。
 「一生面倒見る覚悟がなくて拾えるからな」
 鉄男は肩をすくめて言った。
 「……まあ、女とガキと犬猫は抱いてやるしか扱い方がわかんねえからよ、オレは。 それ以上でもそれ以下でもねえ」
 彼が口を閉じても三井は黙っていたが、しばらく何か言おうとしてためらっているようだった。 鉄男は建物の外壁にもたれて相手を促した。
 「何か言いたいこと、あんじゃねえのか?」
 「あっ、ああ……」
 そのとき三井の顔に見慣れぬ表情が走った。それはごくわずかなものだったが、 一瞬の違和感を抱かせるには十分だった。
 「……知り合いのやつに言われたんだけどよ……」
 遠い目をする。
 「鉄男はオレのこと嫌ってなかっただろうって」
 少なからず鉄男は驚いた。二人の関係は徳男や竜すら知らない。それは三井の意志だったはずだ。
 「話したのかよ、オレとのこと」
 「ああ……口滑らせた」
 そこで三井は慌てたようにつけ足した。
 「でもそいつだけだからな! 誰にでも言ってるわけじゃねえ」
 「だろうよ」
 プライドの高い三井が過去の荒んだ生活の実態を打ち明けられる人間がそうそうたくさんいる とは思えない。そしてそれがただ一人だというなら……。
 特別なやつなんだろ?
 そう認めて苦笑いを浮かべ、本当に別世界の人間になっちまったんだな、と心の中で呟いた。
 三井の顔が晴れやかに見える。太陽はいつの間にか昇り、その路地裏にも建物の隙間を縫って 最初の光の一条を投げかけてきた。
 「そいつ、ずいぶんいい線いってるぜ」
 「そうかな……」
 まんざらでもない様子で続けた。
 「でもまだよくわかんねえ野郎でよ」
 照れ隠しに頭をかく。感情の発露が驚くほど素直で、自分の知っていた三井はいったい 何者だったのだろうと訝るほどだった。
 「これからだろ。大事につきあえよ」
 「じじくせえこと言うなって。わかってっから。……ダチはみんな大切だぜ。鉄男も徳男も……」
 「一緒にすんな、コラ」
 やっぱりわかっていないと思い、笑いをかみ殺した。
 三井に特別扱いされている幸運な野郎は、それでも彼の鈍感のせいで少しだけ不幸かも しれなかった。
 ざまあみろ。
 「あ……? いま何て言った、鉄男?」
 最後の方を無意識に口に出し、慌てて口元に手をやる。
 「いや、何でもねえ」
 「そうか?」
 三井は、やっとそのときあたりがすっかり明るくなったことに気づいたらしく、 腕の時計に目をやった。
 「もうそろそろ行かねえと。今日から朝練が始まんだ。引退はしたけど、 体は動かしとかなきゃな」
 「ああ、行けよ。オレももう一眠りできる」
 「じゃ、な」
 三井は背を向けた。その意外にしっかりした背を見たとたんに鉄男の意識の表層に 確信に似たものが浮かび、彼を呼び止めた。これに肯定の答えが返れば、三井とは本当に おさらばだ。
 「なあ、そいつはバスケをするやつなんだろ」
 三井は一瞬きょとんとしたものの、すぐに首を大きく縦に振った。
 「おう」
 白い歯がこぼれる。
 「本物の天才だ」
 笑顔が眩しかった。
 不意に徳男から聞いたことを思い出した。
 三井のシュート・フォームはそれはしなやかでシャープで目を引くほど美しいのだという。 正確なだけのシューターならほかにもいくらかはいる。しかし三井のプレーには、 決してひいき目ではなく光るものがあると、あの徳男が少ない語彙で懸命に説明していた。
 だからおめえもバスケから選ばれてるんだからな。それを忘れんなよ。
 しばらく足を止めていた三井はまた走り出そうとする。二、三歩跳ねて、今度は向こうから 声をかけてきた。
 「また遊ぼうな」
 鉄男はにやりとした。
 「ああ。おめえが球遊びに飽きたらな」
 三井は手を振って、今度こそ本当に走り去って行った。
 一月五日、快晴。そろそろ安眠を妨害されない部屋でも探そうかと鉄男は思った。



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