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小さく鳴るアラームを何度か掴み損なった手で止める。
重い瞼を片方だけ開けて、目の前の時計の文字盤を覗く。8:00AM、オレはそっとか
らだを起こした、とたんに鈍い痛みがからだの奥を襲う。
「誕生日には一日中三井さんと過ごしたい」
その言葉は冗談まじりにもう何回も聞かされていたが、昨夜はへらっとした笑いの上の
真剣な目に懇願されて下宿に泊まった、今はいわゆる後朝(きぬぎぬ)っていうことだ。
普段つれなくしていても誕生日くらいは甘い顔を見せてやってもいいと思っていた。
プレゼントのひとつでも……といいたいところだが、いかんせん、授業とバスケに追われる身ではバイトもままならないのが実情だった。
だから下宿に誘われた時、朝食でも作ってやろうと思いついた。
下着……とあたりを見回す。
カーテンの隙間から差し込む柔らかな朝の光の中、それは仙道の大きなからだの下敷き
になって、申し訳なさそうに少しだけ顔を覗かせていた。
引っ張ったら破れちまうかも……。
こいつを蹴りとばして計画を台無しにするわけにもいかねえし……。
満ち足りた顔で眠る隣の男を眺めながら俺は小さくため息をついた。
乾燥機を開けて「しまった」と思った。昨夜は珍しく仙道が先にシャワーを使って、
俺はトランクスをはいたところでベッドに運ばれてしまったんだった。
(笑・御免ね、そんな性急じゃないと思うけど、そうしないと話が続かないの)
また部屋に戻るのもな……。
脱水状態で洗濯槽にへばりついている服やらバスタオルやらを見て、
俺はまたため息をついた。
キッチンに戻る。椅子の背に掛かったエプロンが目に入ったので、無いよりましと
身につける。裸エプロン姿だが布一枚でもからだに触れていると肌寒さはともかく
恥ずかしい気持ちは少し落ち着いた。
我慢だ我慢、今日だけは。
朝飯の用意といっても調理は家庭科でしか経験がねえし、それも食べ役専門だった
から、メニューはトースト、コーヒー、カップスープにハムエッグだが、ま、いいよな。
え〜っと、仙道のやつはどうやってたっけかな?そうだ、先ず湯沸かさねえと。
ケトルに水を入れ火にかけてからフライパンを取りだしオーブントースターにパンを
放りこむ。
ふふん、簡単じゃねえか、さすが俺さま、とにんまりする。
フライパンにハムを並べ卵を割り落として火を点ける。周りが次第に白くなっていく
3つの目玉焼きに殻の欠片発見、取り除いているうちに黄身が2つ壊れちまった。
冷蔵庫を開けたらトマトが目についた。特別サービス、トマトサラダも作ってやるか。
皿に乗ったトマトの輪切りを頭に描きながら包丁を入れる。
くそっ、バスケのボールを操るようにはいかねえな。
隣の部屋で起こった大声と騒音に、寝汚いといわれるオレもさすがに目が覚めた。
聞き慣れた声に「えっ?」となって横を見ると居るべき人の姿が無い。
三井さん!
慌ててキッチンへの扉を開けた途端オレは目が釘付けになってしまった。
桃が……、季節はずれの白桃が、エプロン姿で、何故?
孫悟空や仙人が食べた桃ってこんな感じ? オレも仙道、この目の前のジューシーな
やつを今すぐひとくち齧って不老長寿になりたい……。
手を伸ばしかけた途端、オレの桃はこちらにからだを向けた三井さんによって消されてしまった。
「どうしたの?」
少し上に向けられた目は悲しそうで、オレは声を掛けながらさすがに後ろめたく、
三井さんの背後に目を遣った。
コンロではケトルが転がりフライパンの中でハムエッグが潜水をしている。
床に散らばったまな板とトマト、そしてシンクのごみ受けには包丁が見事に刺さった
風景がそこにはあった。
「ケトルで……」
「火傷したんですか!」
おずおずと差し出された手を見ると人差し指と中指が少し赤くなっている。
すぐさまオレは細くて長い指を口に含んだ。
そうか、持った途端熱くて放り出したケトルが転がってフライパンにお湯が
入っちゃったんですね、驚いた拍子にからだがまな板にぶつかってこんな有様に。
可哀相に。でも左手で、それも軽い火傷で本当によかった。
その時の光景を頭で再現しながらオレはほっとした。
すぐ良くなりますよ、唾液は治癒力があるし、オレのは特に愛の力が溢れてますからね。
他人だったら氷水の方が良いと思うけど。
取り出した白い指先にそっとキスを落とす。
「朝飯作ってたんですね」
三井さんそんな、耳まで赤くしなくても。恥ずかしくないですよ、慣れない事なんだ
から。でも何でそんな事を?
「他に怪我が無くてよかった」
もう大丈夫と、にっこり微笑んでおく。
「プレゼントが……」
少し俯いた顔からポロリと零れた思いがけない言葉にオレは目を瞠った。
じゃあ、誕生日に朝食をプレゼントしてくれるつもりだったんですか?
いつもそっけないのに それはそれでオレにとっては楽しめる姿だけど こんな甘い姿を見せてくれるなんて、神様、いやオレの誕生日どうもありがとう。
空いている腕を三井さんの背に回しゆっくりと引き寄せる。
「嬉しいですオレ。三井さんの気持ち、一番嬉しい」
オレに触れる三井さんの唇はいつも蕩けるように甘くて、柔らかくて、いつもずっと
このままでいたいと思う。
あ、キスが長すぎて苦しかったですか? オレの気持ちをいっぱい伝えたかったから
つい、ごめんなさい。
三井さんの少し潤んだ瞳に写るオレの顔を見ながら反省した。
「愛しています」ともう一度堅く抱きしめた途端「キューッッ」という返事が三井さんの
お腹から返ってきた。
「お、俺は早起きしたから腹が減ってんだよ」
三井さんは早口でそう言うなり緩めたオレの腕の中でプイっとそっぽを向いて
しまった。
わかっています、そんな言い訳しなくても。今のは「安心した」っていうサインでしょう。
横顔の、尖らせた口があんまりかわいくて、頬に手を添えてこちらを向かせると
今度は軽くついばんで甘さを味わう。
「じゃあ散らばった物を片付けて、今度はオレが作りますよ、三井さん指がまだ
痛いでしょう?」
「そうでもねえけど」
ちょっと不満そうな顔なのはプレゼントに拘っているからですか?
「じゃあ2人で、その方が早く出来ますね」
「ああ、そうだな。だけどお前その格好」
「え?」
三井さんはオレのからだにチラッと視線を落とすと眉を顰めた顔を上げてきた。
「そんなむさ苦しいものを朝から人前に晒すなよな」
そんな三井さん、酷い! 昨日は三井さんだってオレのむさ苦しいモノでさんざん……。
三井さんに何があったのかと飛んで来たんです。さすがにオレでも、好きで
こんな格好するのは三井さんとナニする時だけです。
服を取りに戻りながらオレは少し悲しくなってしまった。
「これでどうです」
「お前なあ、ちゃんと服着ろよ、変態」
「だって三井さんとお揃いにしたかったから」
ピンクのフリルが付いたエプロン姿のオレを見て三井さんは心底呆れたような顔を
した。
「男のくせによくそんなひらひらしたもの持ってたな」
「前に姉貴が『目に付くところに置いておくと女の子よけになるから』って
くれたんスよ」
ぴくりとした三井さんの眉に「しまった」と思った。
「ほーう、女よけね」
「もちろん使った事なんてないですよ。オレは三井さんだけだから」
実際それは以前女の子に押しかけられて困った、という話をしたら姉貴がくれた
ものだし、三井さんが好きになってからやましいことなんてしたことも無いけど。
言い訳は却って機嫌を損ねそうだとオレは黙っていた。
「俺はおめえなんかとお揃いは御免だ」
「着替えてくる」
冷たく言って部屋の扉を閉めた三井さんの背中はやっぱり怒っていた。
まったくふざけやがって、何が女の子よけだ。
自惚れかもしれないが、俺に告白してからお前が女と付き合ったりしてはいないと
思っている。だけどな、離れて暮らしているから、あんなものを見せられたら胸が
騒いじまう。
お前を起こしちゃいけねえと思ってこんな酷い格好してるんだぞ、俺は。
何がお揃いだ、バカヤロウ!
ふと見るとベッドの上に裏返ったTシャツがある。
ぶん投げてやる、とそれを掴んだとたん卒然とひとつの考えが浮かんだ。
この脱ぎ捨てられたTシャツ、俺が起きた時は無かった。
ひょっとしてあいつ、自分だけ服を着た姿を俺が見たら決まり悪くなっちまうと
思ったんじゃないだろうか。
だからワザとあんな格好をしたんじゃ……。
確かにあいつの格好に呆れちまって、部屋に来るまで自分の姿が酷いものだと
いうことをすっかり忘れていた。あのよけいな一言がなかったらずっと忘れた
まんまだったかも。
だけど、だったら俺の分のTシャツ持って来りゃいいじゃねえか、よく気がつく
くせにそこらへんの感覚がおかしい奴。
でもな……
俺はベッドの端に腰を下ろした、そのまま仰向けになって胸の上にTシャツを乗せる。
そうされたらされたで、やっぱり俺はすげえ恥ずかしい思いをしただろうな。
あいつらしい気遣いっていうやつか、あの裸エプロンは。
思い浮かべると何だか決まり悪さも腹立たしさも恥ずかしさも無くなって脱力感に
襲われてしまった。
インパクト有り過ぎだ、お前。
仙道とあのエプロン、ああいうのを水と油っていうのかな? なんか違う気もするが。
「凄げえ変」な姿と、それから自分の独占欲に、俺は小さく笑っちまった。
同じ姿で戻った俺を見た仙道はなんだか間抜けな顔をしている。
顔に被っている前髪が「御免なさい」をしているようで思わず吹き出した。
お前の髪ってオジギソウみたいナ。
いいよな、別に謝らなくて。ズルイかな?
「なあ、どっか出掛けようか」
洗い物をする仙道が黒目がちな目を向けてくる。
「どこにします?」
「魚釣りでもいいぜ」
途端にその目が細められる。
「いけねえすっかり忘れてた」
俺は皿を拭く手を止めて洗面所に向かう。
帰りにバースディケーキ買ってやらねえとな。
乾燥機に洗濯物を放りこみながらそんなことを考えて俺は口角をあげた。
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