* * *

 翌日は快晴だった。
 外は積もった雪の照り返しで輝いている。そこに広がっているのは雪に閉じこめられた 暗さではなく、陽気なほどの明るさだった。
 カーテンも障子も閉めずにいたので寝間は明るかったが、消し忘れた枕辺の明かりが夜の残滓を とどめて心許ない光を放っている。
 人肌の温もりの心地よさに夢うつつですり寄ったとき、 小さく声をかけられて三井は目を覚ました。
「もう九時ですよー、三井さん」
「えっ、九時? しまったっ、朝練……!」
 飛び起きてから見慣れぬ周囲の様子に三井は一瞬当惑した。目を下に向ければ仙道の笑顔。 その後で腰の痛みを再認識して全ての記憶がつながった。
「……ずいぶん無理させやがって……ってー……」
「すいません、大丈夫ですか? やるなら専念しろって言われたから、 ちょっとがんばりすぎたかも……」
「……ったく、ふざけんじゃねえよ」
 大丈夫じゃねえの科白が喉元まで出かかったが、そんなことを言ったらまた面倒なことに なりそうで、泣く泣く呑み下した。女なら事後に優しくいたわってもらって 嬉しくなるのかもしれないが、男の三井にとっては煩わしいだけだった。
「本当に大丈夫?」
 上体を起こし、重ねて心配そうに聞いてくるのにきっぱりと頷いて答えると、 仙道は引き下がった。
「なら、いいんですけど。……それじゃ、そろそろ起きましょう。この旅館、 ずいぶん融通がきくみたいだけど、さすがにもう朝メシ食わないと」
 確かに普通なら、だいたい九時までには朝食をとり、チェック・アウトが十一時と いうところだろう。
「第一その前に風呂にも入らなきゃならないしね」
 言われて気がついた。昨日午後からのとんでもない展開で身も心も疲れ切り、 終わったと同時に  実を言うと途中から記憶がないのだが  そのまま深い眠りに 落ちてしまったらしかった。
 自覚したとたんに無性に風呂に入りたくなった。最低限の始末だけはしておいてくれたらしいが、 気持ち悪いことに変わりはない。
「オレ、先に入っからな」
 声だけは威勢がよかったものの、動作の方は腰の具合を気にかけながらでしぜん鈍くなる。 それでも思ったよりダメージは少なく、何とか歩くことはできそうだった。
 体を重ねた後にそのまま眠り込んでしまったため、当然素肌には一糸もまとっておらずばつが 悪かったが、とりあえず仙道の視線は無視してスポーツバッグから着替えを出した。 そして着替え一式を小脇に抱え、脱衣室に向かう。引き戸を開けしな、振り返った。
「入ってくんなよ」
 仙道の浮いた腰に釘を刺す。
「あ、やっぱり駄目ですか……?」
 彼は少しがっかりしたと言いたげに笑って、布団の外で丸まっている浴衣に手をのばした。
 中に入って後ろ手に戸を閉めると、勢い余って戸は大きな音を立て、自分の方がびっくりした。
 別に怒ってはいないし怒る理由もないのだが、そんな風にとられたかなと思うとちょっと 悪いことをした気分になった。
 結局自分で選んだ結果じゃねーか。往生際悪くじたばたすんじゃねえよ。
 自らを叱咤して首を大きく振る。ふと前を向いたとき鏡の中から視線を放ってきた自分の 虚像をしかめ面で睨み返し、深く息を吸った。
「……おっしゃ!」
 呼吸のタイミングで無意味に気合いを入れ直す。それから風呂場に入った。
 体を隅々まできれいに洗い、ためておいた湯につかると人心地がついた。こんな年末も、 一年前に比べれば天国のようだ。
 男と寝ていたのに変わりはないとしても、息の詰まるような閉塞感がない。
 もっとも、窒息しかかっていたのはたぶん鉄男のせいではないだろう。寒さに晒されるのを 恐れて心の窓という窓を全て閉め切っていたからだ。
 仙道についてはまだわからないことだらけで先が見えない。  ただ、惹かれている部分があるのは確かで、それは仙道彰のバスケットに対するものであろう とは思うが、何にしろ個人的関心に変わりなく、その分現実逃避ですがりついた鉄男より 危険かもしれなかった。
 危険……かあ……。
 仙道の飄々とした様子を思い浮かべて三井は小さく笑った。
 ない、ない。
 時折ちらつく鋭さを記憶の隅にしまい込み、楽天的に考えた。
 ちょうどいい温度の湯の中で手足を伸ばして気持ちが大きくなり、細かいことを思い煩う のがばからしくなったということもある。
 とりあえず仙道は嫌いじゃねえもんな、もう出し惜しみするものはねえし。
 ライバル校の主力同士という関係も、公式戦が全て終わったことが少しは免罪符になっている。 仙道の言葉や行動には未だ馴れなくて、たびたびどきりとさせられたり、背中を悪寒が 走ったりするが、それでも……。
 それでも、ま、いいよな。
 目の前にあるのは簡単な二者択一の問題だった。
 仙道がいた方がいいか、いない方がいいか。
 迷わず前者を選択して彼は気持ちの決着をつけた。



 風呂を出ると、手前の部屋ではすでに食卓の準備が始まっていた。
 仙道は板の間の安楽椅子にかけ、外を見ていた。身につけた浴衣は昨夜のなりゆきでくたびれきり、 着ている人間の男くささを際立たせている。それがやけに生々しく目に映ったので、 早く風呂に入って着替えるよう言おうと歩み寄ったとき、ふと寝間に目をやって足が止まった。
 その部屋はきれいに片づけられており、日本間の整然として質素な趣を取り戻していた。 布団が上げられたせいで先刻までの夜の顔でなくとりすました朝の表情になっているが、 何かがひっかかった。
 何が喉に刺さった魚の小骨のように不快な自己主張をしてくるのかしばらくはわからなかったが、 気がついたとき三井は大声を上げたくなるほどうろたえた。
「仙道!」
 呼ばれた当人はいつもの暢気面で目を向けてきたが、すぐに三井の狼狽ぶりを見て当惑したように 身を乗り出してきた。
 ちょうど接客係が入口の格子戸を開ける音がして、三井は身の置き所のない気分になった。
「おはようございます。お湯にお入りだったそうで……。昨日はよくおやすみになられましたか?」
「あ、はい、もちろん」
 接客係が愛想良く聞いてくるのにぎこちなく答え、三井はこそこそと仙道に近寄った。
「どうしたんですか、三井さん、何慌ててるんすか」
「布団だよ、布団!」
 声をひそめて仙道を睨みつける。
「え……ああ、たたんで片づけてもらいましたけど」
「おまえなっ……」
 思わず高くなった声に次の言葉を呑み込んだ。どんなことにも動じない目の前の男の神経の太さが、 喉から手が出るほど欲しいと思う。三井は意識して声を低く保った。
「シーツやなんか、あのままだったろ! オレの浴衣だって……」
 痕跡ありありの寝床を他人に見られたことが、頭のくらくらするほどショックだった。 やましい思いばかりが先行して、接客係の笑顔も素直に受け取れないくらいだった。
「……なんだか眩暈がしそうだ」
 がっくりと肩を落として突っ立っていると、仙道の立ち上がる気配がした。
 こんなときお得意の「オレは構いませんよ」などという科白が滑って出たら殴ってやろうかと 思った。いや、しばらくつきあうと言った前言も性格の不一致で撤回だ。
 何か芸能人の離婚の弁のようなことを考えて、思い切り上目遣いに見上げた先には、 いつも通りののんびりとした表情があった。
「大丈夫ですよ。シーツも浴衣も全然汚れてなかったですから」
 嘘でもいいから言って欲しかった言葉は、三井の頭の中で形になるより先に仙道があっさりと 口に出した。三井は耳を疑った。真っ白な頭の中にその言葉は仙道の悠揚とした口調で入り込む。 たぶんそんなはずはないだろう。だが、信じたい答えを、気張ることがなく押しつけもしない 独特の調子で言われると、鵜呑みにしたくなる。
 オレって、もしかしたらものすごくチョロイやつなのかも……。
 少しだけ自己嫌悪を覚えながら、結局三井は仙道の言葉を信じることにした。 その方が精神衛生上いいに決まっていた。
 それでもさすがに最初のうちは接客係の目が気になって、朝食に運ぶ箸の動きも重かったが、 変わらぬ仙道の食いっぷりを目にしているうちに引きずられた。なにしろ肉体労働だけは しっかりこなしているから、腹は減っている。結局昨日の今日で宿の方がたっぷり用意した朝食も 最後まで平らげて終わった。



 東京駅に着いたころにはもう空は暗くなっていた。
 あと数時間で新年を迎えるこの時間になっても、ターミナル駅は乗降客で賑わっている。
 仙道の様子は少しも変わらなかった。一日前から昨日の夜を隔てたいまでも、特になれなれしくも ならず、泰然自若と春風駘蕩を絵に描いたようないつも通りの態だ。それでも、強いて言えば、 時折負担にならぬほどの気遣いが感じられるのは、自分の彼を見る目が変わったせいかとも思う。
 乗換口を抜け、二人でつかず離れず雑踏の中を縫っていった。 自分の乗る在来線のホームの階段のところまでくると、三井は足を止めた。 仙道の足も隣りで止まる。三井は目を上げて仙道を見た。
「そんじゃな」
 そっけない言葉を吐いて階段を上ろうとすると、二の腕を掴まれた。驚いて振り返り、 素直に引き戻される。手を離した仙道は、これから試合が始まるときのような目をしていた。 その目が柔らかく微笑んだのは、どれくらい経ってからのことだろうか。三井には判断が つかなかった。
「……今日、どうしても帰らなきゃ駄目ですか?」
「え……?」
「このままあっさり別れたくないな」
 昨日観たテレビ番組の話でもしているような気楽な表情で物騒なことをさらっと口に出す。
「冗談じゃねえ、バカヤロウ。これ以上オレのケツに負担かける気か?」
 いきなりのことに三井はむっとして答えたが、仙道は吹き出した。大きな図体を折るようにして 笑う相手を見ながら自分の言ったことを反芻し、彼は赤面した。 仙道は目に涙をためて笑いを収めた。
「……いや、そんなんじゃなくて。本当っすよ、信じてもらえないかもしれないけど。 ……ただ、今年は最後まで三井さんと一緒にいて、来年は最初から一緒にいたいと思ったんですよね。 そうしたら何だか離れ難くて。それでも駄目ですか?」
 じっと見つめられて三井は慌てた。こんな風に真正面からぶつかってこられた経験がないので、 どうあしらったらいいのか皆目わからない。悪い気持ちではないが、何だかこそばゆくて、 照れくさい。
「駄目に決まってんだろーが」
 三井は仙道の胸を拳で突いた。 「忠告しとくぜ。素直な恋人が欲しいんなら、オレはやめにしとけよな。おめえの望む通りに なんかなってやれねえから」
 仙道は落胆する様子もなく顔を近づけてきた。
「じゃあ、どうせ駄目なら、いまここで思い切りわがまま並べていい?」
 三井は何も答えなかった。
「……お別れのキス……していいですか?」
「ざけんなよ、ノーテンキ野郎」
 睨んでも仙道の攻勢は少しも鈍らない。
「唇の端にちょっとするだけ」
「どこでもの言ってると思ってんだよ、てめえはよ」
「そっか、やっぱり許してもらえないかあ」
 年中日溜まりの中でぬくぬくしているような笑顔は、どんなつれない言葉もその場で 消化してしまう。
「じゃ、恋人らしく名前で呼ぶのは? ……寿って」
「やめろよ、気色ワリイな」
 本当に鳥肌が立ったかと思った。 「それなら……来季になったら、陵南の応援に来てもらえませんか? 決勝リーグだけだって いいっすから」
「できねえ」
 断ってさらに続けた。
「だいたいそれまで長続きしてる保証はねえだろ、半年も後のことだぜ、 飽きっぽいてめえがよ……」
「続いてますって、オレの方はね」
 どこから来る自信なのか、すっぱりと仙道は言い切る。自信家は周囲に掃いて捨てるほどいるが、 目の前の男のはまた特別だった。
「とにかくできねえもんはできねえんだ。後輩たちのがカワイイに決まってんだろ!」
「三井さんが陵南に来てたら、オレも可愛がってもらえたかな」
 一九○センチを越す大男が口に出しておよそ似合う言葉ではない。三井はしばし唖然とした。
「……タラもレバもねえんだよ。オレは湘北、おめえは陵南」
「……ロミオとジュリエットかあ」
 三井は目をむいた。
「だーれがロミオとジュリエットだっ」
 たとえの俗っぽいのにもほどがある。しかし面食らった三井の言葉を歪めた唇の片端で 受け止めて仙道は続けた。
「だって、陵南にとって湘北は最大の敵だと思ってますから」
 そこで目の光が強くなる。
「オレね、来年のインターハイには賭けてるんです」
 まただ。ちらりと「凄い仙道」がのぞいた。三井は当惑した。
「ふん、選抜は生憎だったもんな」
 手当たりしだいの皮肉は、お互い無意識に避けていた部分を思い切りさらけ出した。
 選抜で全国に行けなかったのは両校ともだった。陵南は二メートル級センター魚住の抜けた 穴が大きかったし、湘北は赤木が引退を先に延ばしたものの、流川が負傷して一時退場し、 相手のラフプレーに切れた桜木がディスクォリファイイング・ファウルを犯して退場した試合で あっさり敗北を喫していた。
「お互い様なんですけどね……でもオレの方が切実だなあ……」
 仙道は嘆息して言ったが、あまり切羽詰まっているようにも見えない。
「いつもいいところまで行くのになあ……」
 超高校級のオールラウンド・プレーヤーとして県内の誰もが認める仙道に未だ全国の経験が ないのは、神奈川バスケットボール界七不思議のひとつだった。
 秋の国体には神奈川は選抜チームで臨んでいて、当然仙道も選ばれていたのだが、 あろうことか開幕直前に寝込んでしまい、とうとう出場できなかった。そして問題の病名が 「流行性耳下腺炎」だったため、危険人物扱いされて隔離されてしまった。 どうやら余病を併発してヤバイことになるのだけは免れたらしいが、同情を買うより笑い話に なってしまうのがちょっと哀しかった。
「ねえ、三井さん、全国制覇するのって、どんな気分?」
「え?」
 いきなり振られた質問に三井は口ごもった。どんなと言われても単純な一言しかない。
「……決まってんだろ、サイコーの気分だよ」
 仙道は微笑んだ。
「オレ……別に高校バスケにこだわってたわけじゃないんです」
「ああ?」
「ナンバーワンになるのは大学だってその先だっていい。場合によっちゃ日本にはこだわらない」
 バスケットボールの本場の国のことを言っているなら、とんだロマンチストだとも思うが、 目の前の男にはもしかしたらそれも実現してしまうかもしれないと思わせるところがあった。 「でも、いま神奈川で足踏みしてるようじゃ、日本一のシューターにいつまでも 追いつけないでしょ?」
 近づいていた体を退いて、彼はウインクした。
「そうしたら、いつまでも本気になってもらえないじゃないですか」
 仙道の言う「日本一のシューター」が自分を指しているのだと気づいて、次の瞬間頭にかっと 血が上った。
「てめえ、そいつはたちの悪い冗談か?」
 ただの機嫌取りならあまりにもお粗末だし、冗談なら二、三発殴っても収まらないところだ。 そして本気だったらとんだ考え違いだが、まずそんなことがあるはずがない。
「えー、どうして?」
「どうしてって、……どうしておめえがオレに追いつかなきゃなんねえんだよ!」
「だって、やっぱり対等の立場にならないと……」
「だからな!」
 おめえの方がバスケじゃ上だって、このオレがせっかく認めてやってんのに、 追いつくもへったくれもねえだろう!
 そう続くはずだったのが、仙道の真顔を見て啖呵を切り損なった。
「……まあいいや、このことはもう」
 たとえ勘違いでもバスケの申し子のような男に言われると悪い気はしなかった。 表に現れる強気とは裏腹に、三井は中学時代に持っていた絶対的な自信を失っていた。 いま、自分の能力の限界に心の奥でいつも怯えている。それを仙道の目と言葉が断ち切った。 もう少し、自分を信じてみてもいいのかな  仙道の笑顔の魔術で三井の挫折感は確かに 少し消えていた。
「……で、オレのために湘北に勝つって?」
 三井は昂然と顔を上げて言った。仙道の下がり気味の眉が片方だけこころもち上がった。
「後輩思いの三井さんには悪いですけどね」
「安心しろよ、オレのために負けてくれ、なんて言わねえから」
 二人顔を見合わせて笑った。少しだけ意志の疎通がはかれたような気がした。
「さあて、オレは帰るからな」
 くるりと背を向ける。その瞬間仙道は何か言いたそうだったが、結局未練がましい後追いは してこなかった。三井は腰に手をあてた。
「オレはよ、二年間さんざん無茶やってきたから、この正月ぐれえは親と過ごしてやんなきゃと 思ってんだ。大学じゃさしあたり寮住まいだしな……」
 そこで振り返った。仙道は神妙な顔つきをしていた。
「オレんち、来るか?」
 黒目がちの目が見開かれる。
「オレんちに来るってんなら、年越しにつきあってやってもいいぜ」
「三井さん?」
 信じられないことを耳にしたと言いたげな表情が次第に喜色へと変化していくのを見せられて、 三井の方が信じられない気分になる。
「言っとくが、オフクロもオヤジもいっからな。妙な期待すんじゃねーぞ」
 面映ゆいのを押し隠して釘を刺した。
「そりゃあ、もちろん」
 眩しい笑顔で仙道は返す。
「清らかに新年を迎えるつもりっすよ」
「バーカ」
 三井は体ごと向き直り仙道の頭を小突いた。
「じゃ、行くか」
 二人は階段を上りホームに着いた。電車はもう入線しており、 発車まであと五分というところだった。三井は手近な乗車口から乗ろうとしたが、 そこを仙道に引き止められた。
「ちょっと家に電話入れてきます」
 身を翻し、電話の方に走って行きかけて、仙道は急ブレーキをかけた。焦ったように振り返る。
「そこで待ってて下さいね。すぐ戻りますから」
「乗って待ってっぜ。間に合わなかったらおいてく」
 三井の答えに仙道は駆け足になった。
 人混みの中に飛び込んでも、長身の彼は頭ひとつ分飛び出している。 特徴のあるツンツン頭は決して三井の視界から消え去ることはなく、首尾よく売店の脇の 公衆電話のところで止まった。
 受話器を手に取る。番号を押す。少し待って話し始める。
 オヤジとオフクロ、どんな顔すっかな。
 仙道の様子を窺いながら三井は考えた。
 いきなりあいつ連れてったら驚くかな。そういえば高校に入ってからこんなことなかったし……。
 しかし両親とも仙道のことが気に入るだろうという予感はあった。 何しろ外面のめっぽういいやつだ。
 三井は小さく笑いを漏らし、電車に乗って空席に腰を下ろした。窓から仙道の姿が見える。 彼はしばらく話して嬉しそうに電話を切り、ホーム上に三井がいないのを確かめて近くの口から 電車に乗り込んだ。後は車内を歩いて近づいてくるはずだ。その彼を三井は素直な気持ちで 待っていた。



 三井さんと過ごす夜のどれもがきっと忘れられない夜になる。
 一年の最後の夜、仙道は三井の隣りで囁いた。
 よく言うじゃねえか。そんな記憶力良かったか、おまえ。
 まぜっかえすと、三井さんは別格だから、と言って笑った。
 百八つ鐘を撞いたくらいで煩悩が取り除けるのなら、二人の一年の始まりはさだめし 清らかなものになっただろう。
 鐘の音ももう聞こえない、静けさの際立つ新しい夜。
 先のことはまだわからないが、とりあえず、そんな悪い年にもなりそうになかった。


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