ヘンなことは絶対しないから、という言葉を信じて遊びにきた。
 湘北にまで伝わる噂とはずいぶん違っていた。
 噂・・・一人暮らしの仙道は、高校生にしては信じられないくらいの豪華なマンションに住み、 女の子が入れかわり立ちかわり掃除や洗濯、食事の世話をしてくれ、ついでに体の面倒まで みてくれるということだった。


「朝飯ってこれ食ってんの?」
 単に使われていないだけか、きれいに片づいたキッチン。その水切り台の所に無造作に置かれた パンの袋。十二個入りのロールパン、朝食用    温めてもそのままでもお召し上がりいただけます    が、ひとつだけ残し、くしゃっと口を結んである。
「昨日の夜と今朝はそうです」
 仙道はさっさとキッチンから続く細長い部屋に入り、窓を開け、足元に形層する洋服や雑誌なんかを ばたばたとベッドの上に放り投げている。
 徐々に現れたスペ−スは約畳一枚分。小さな低いテーブルが置いてあり、男二人で座るには 窮屈そうだった。
「どこかにラグがあったんだけど・・・」
 ベッドの下を覗き込んで首を傾げている。


 みすぼらしいパン、なんて言ったら失礼だろうか。コンビニやスーパーで売っている、 賞味期限が長そうなパン。
「スパイスに凝ってんの?」
 バジル、オレガノ、タイム、ローズマリー、ターメリック、ナツメグ、パプリカ、豆板醤、 オイスターソース、ナンプラー、柚子胡椒、白醤油。聞かずには入られないほどコンロの脇に、 瓶がずらりと並んでいた。塩だけでも味塩、赤穂の塩、クッキングソルト、クレイジーソルト。 胡椒は荒びき胡椒、黒胡椒、ピンクペッパー。
「いえ・・・食事作るときに買ってきて、なんかそのまま・・・」
 きっと次々とやってくる女の子たちがその都度買ってきて、そのうち来なくなり、また新しい女が、 ということなんだろう。よく見れば、奥の方から埃が厚く積もっている。中身が減った分だけ、 きっかり付き合っていたんだろうか。噂はそこだけ合っているのかもしれない。


「どうぞ!」
 床のものをそっくりそのまま移動させた分だけ場所が開いていた。仙道がキッチンへ戻り、 やかんを火にかける。
 カラーボックスに乱雑に突っ込んであるテキスト類。三井も知っている、あるいは知らない タイトルの本。筆立てがわりのグラスには、シャーペンやボールペンが上下ばらばらに 突っ込まれている。小さなテレビの横には、触れればすぐに崩れそうに積まれた雑誌。 作り付けのクローゼットは少しだけ扉が開いていて、ジャージだかジーンズだかがはみ出している。 寄せただけのカーテン。整えられたことが一度も無いようなベッド。
 結局フローリングの床に直座りし、背中をベッドに預けると、明るい部屋の中に細かい埃が 盛大に舞った。ハウスダストアレルギーを少し持つ三井は、鼻の中程がむずむずしてきた。
 掃除してんのか、人を誘う前に片づけとけ、と言いそうになってやめる。すぐに窓を開けたけれど、 室内に残る匂い。仙道の匂い。いい匂いかと問われれば、深く考えたくないので、よくわからない と答えるしかない。
「どうぞ」
 きょろきょろ見回しているうちに、コーヒーが運ばれてきた。シューズを買ったときに貰ったの だろう、ナイキマークのある白いマグカップが二つ並ぶ。砂糖もミルクもいれないインスタント コーヒー。


「薄かったら足しま・・・うぅ・・・」
 顰めまいとして逆に歪んだ三井の表情に、立ち上がって机の脚に爪先をぶつけ、涙目で呻く仙道。 手渡されたコーヒーの瓶は、中蓋のアルミフィルムに穴が開いている。どうせスプーンも使わずに 適当に入れるのだろう。
「いや、これでいい」
 いったい何をしてるんだろう。こんな天気のいい日曜の午後に、かわいくも何ともない男と、 まずいコーヒーを飲んでいる。これなら誰かのように、昼寝でもしている方がましかもしれない。
 前に三井が気に入ったCDを貸そうとしたとき、コンポもないし、どうせ眠くなってしまうからと 断られた。だから音楽もなく、テレビを付けるわけでなく、穏やかなのか、気詰まりなのか、 静かな時間が流れていく。
 仙道は、相変わらず何を考えているのかいま一つわからないような曖昧な笑顔を浮かべて コーヒーをすすっている。カップに触れる荒れた唇が、キスしたときのかさかさした感触を 思い出させた。
「友達とかこねーの?」
 沈黙は苦痛ではなかったが、これ以上こげた味のする液体を飲む気になれず、三井が口を開く。
「時々は。でも普段は部活があるし、溜まり場になるのも嫌だから」
 愛想のいい顔だちをしていながら、冷めた大人のようなことを言いだす。自分の領域にそれ以上 人を踏み込ませようとしないところが仙道にはある。
 女の話をしたときに、誰とも長続きしないのだと言っていた。初めはそれなりに楽しいのだが、 段々むこうの気持ちが冷めていき、こちらも特別なにもしないでいるうちに自然消滅してしまう というのが定番らしい。


 隣の部屋からは掃除機のモーター音、階上では床を引きずる椅子の音、古新聞回収車、竿や竿竹、 十勝牛乳販売。生活感溢れる喧騒が響き、"大音量"とシールが貼られたままの目覚まし時計が時を 刻む。大型トラックが通り過ぎ、遊ぶ子供の声を瞬間かき消す。軽い振動が窓ガラスを襲い、 干してある洗濯物の影がテーブルの上で踊った。
 カップをすっぽり包みこんでいる仙道の手。シャツの袖がわずかに短くて、手首がにゅっと 出ている。まぶしそうに目を細め、くつろいだ笑いを浮かべている。それがすこし悲しそうに 見えた日を思い出した。


 海南や翔陽も交えた練習試合のあと、牧や藤真、それから顔を見せた赤木や魚住までが集まって、 チームのできや新ルールについて話をしていると、着替えた仙道が、お先にと帰りかけた。 その手を咄嗟につかんで引き止めたのは三井だった。
「なあ、このあと・・」
と言いかけたのを、
「デートの邪魔すんのかよ、三井」
 誰かがからかうように遮った。
「あ、わりい」
 三井は衝動的につかんでしまった腕を離した。
「デートだったらいいんですけど、試験勉強で」
 下がった眉毛をさらに下げて仙道が答えた。たったいま横を通りすぎたときの何だか悲しそうな 顔とは違って、大げさに作った表情だった。
「おまえらも帰ってちゃんと勉強しろよ」
 赤木が叱咤し、桜木が「ゴリ、また教えてくれよな」とじゃれ、談笑が再開された。仙道が 立ち去らず、三井の次の言葉を待っているようなので誘ってみた。
「なんか食べて帰ろうかって話してるんだけど、来るか?」
「はい」
 警戒も遠慮もない、拍子抜けするくらい素直な返事が帰ってきた。陵南で集まって帰るのでは という配慮や、他校のライバルを伴ったら流川や桜木がどういう反応を示すかなどという危惧は、 そのあっけなさに、あっさりどこかへ消えてしまった。
 それから時々ふたりで会うようになった。試合中の顔とも違う、普段のふぬけた顔とも違う、 暫時みせた無防備な顔が、三井の胸から離れていかない。


「おまえ、夜もあのパン食べたって言ってたけど、水とパンだけじゃ栄養採れないぞ」
「水じゃなくて牛乳、飲みましたけど」
「そういうことじゃなくて!まだ背だって延びてるんだろ。ちゃんと食わないと、体作れねーぞ」
 成長期の二年間、不摂生をしてきた三井は、運動と共にバランスのとれた栄養摂取の必要性が 身に沁みている。
「まあ、そうなんですけど」
 急に怒りだした三井の態度に、でかい体を叱られた子供のようにすくめる仙道。
「食べ物、なにが好きなんだ」
 引き止めてしまったあの時のような衝動。
「? ・・・茶碗蒸し・・かな」
「茶碗蒸し・・・」
 三井は家の茶碗蒸しを思い浮かべた。三つ葉、鶏肉、銀杏、えのき・・・。
「プリンも好きなんです」
「おめーは子供か」
 甘いか辛いかだけで、どっちも似たようなもんだな。卵を出し汁とか牛乳で薄めて蒸せば いいはずだ。三井は中学の家庭科で作った茶碗蒸しの手順を、記憶の底から引っ張りだした。 まあ、適当に何とかなるだろう。
「じゃあ、材料買いにいくぞ」
「え、三井さんが作ってくれるんですか!?」
「ばーか、作るのはお・ま・え。俺様は一緒に食うだけ」
 埃のかぶったスパイスの瓶と並ぶ気はない。
「そんな難しいもの作れないですよ」
「ちゃんと教えてやる」
 そんな出任せ、少しくらい疑ってみせればいいのに、仙道は目をきらきらさせてさらな願いを 口にする。
「揚げだし豆腐も食いたいな」
「歯抜けじじい!」
 立ち上がろうとした三井の腕を、今度は仙道がつかんだ。
「なんだ、どうせおれは差し歯だよ」
 言わなくてもいいことを口走っているのは、見下ろした仙道の顔が、嬉しさも驚きも緊張も弛緩も なんだかごちゃまぜになったような切ない表情を浮かべていたからか。
「三井さん、ヘンなことしないって約束したんですけど・・・やっぱり・・・したいんですけど」
 ちょっと口ごもりながら、それでも最後はきっちりと強い視線で見上げてくる仙道は、とても 嘘つきな男だった。


 スーパーにて。
「鶏肉ってササミとムネとモモがあるんですけど、どれ使えばいいんですか」
「知るかよ!一番安いのにしとけばいいだろ。金払うのはおめーだからな」
「苺プリンとゴマプリン、あ、マンゴープリンなんてのもありますよ」
「やわらかプリンみたいのでないと俺は食わないぞ」
「豆腐って木綿って書いてあるのでしょうか。厚揚げだと揚げなくていいとか」
「いちいち聞くなって言ってるだろ!」
「茶碗蒸しにプリンに揚げだし豆腐食べてから激しい運動したら、気持ち悪くなりそうじゃ ありませんか」
「じゃあ前にすればいいだろ」
「してもいいんだ」
「・・・」
「激しすぎなかったらOKとか」
「うまく作れたら、考えてやってもいいって言っただけだ!」



終わり
                                  


ジルさまからのコメントですv

なんと長閑な二人・・・。
大学の学食で茶碗蒸とプリンと、そのときはマーボー豆腐を食べてそのあと体育でテニスをしたら、 いまだかつてないほど気持ち悪くなったということがあります。またテニスコートの行き帰りが 自転車で、坂道。いまでもあの時も気持ち悪さを超える思いはしたことがありません。



長閑でいながら色っぽいお話をありがとうございました。 「できの悪い子ほど可愛い」(ジルさん談)というのはその通りで、二人とも可愛いですv  この後の「激しい運動」編も覗き見したいのですが……ダメ? 激しい運動=バスケというのも いいですけどね(笑)。
      from りんこ@管理人



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