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前の晩からずっと2人だけで過ごす誕生日。都内のレストランで少し早めの夕食をとっていると、
仙道が『飛行場に行きませんか』と言い出した。
三井もその後の事は考えていなかったので別に異存はなく、本当に久しぶりにモノレールに乗って
羽田に向かった。
出迎えるビッグバード。『送迎デッキ行こうぜ、送迎デッキ』と屋上目指し、
三井は勇んでエレベーターに乗り込んだ。1F、2Fと、
そこだけ時間の速さが違っているような慌しいビジネスマン達を吐き出して扉が閉まる。
訪れた静寂は後ろから抱き込んできた長い腕に乱された。上げようとした抗議の声は下りて来た
柔らかい唇に塞がれる。
いつエレベーターが止まって扉が開くかと三井は気が気でなかったが、3F、4Fと過ぎていくうちに
仙道の甘さに浸された頭はそれを忘れ、代わって目を閉じたからだが浮揚と足に纏わり付く重力を
感じていた。エレベーターはスピードを上げ果てしなく上昇していく様に思われ、痺れたように
なった足が終に崩れ、そこで暖かさを感じさせている仙道の腕にしがみついた時、ガクンと軽い
ショックが起こり、やがて扉が静かに開いた。
屋上には平日にもかかわらず結構人が居た。
こんな時間にこんな場所で男2人がどう見られてしまうのか。
後悔に入り口で躊躇っていると、『6階にも送迎デッキが有りますよ。そっちも覗いてみませんか』
と目ざとく案内板を確認した仙道が言った。
下りのエレベーター。さっきみたいな不意打ちを喰らわないよう、三井が扉のすぐ脇で身構えている
と、向こうの隅から苦笑混じりの笑顔が対角線にじっと注がれた。
1階分低くなっただけなのにこちらの送迎デッキには人影が全く無かった。柵のすぐ前にある椅子に
並んで腰を下ろした。
仙道は黙って横顔を向けている。
ここに誘った相手の意図も見えなかったし、さっき自分が見せた態度もどことなく決りが悪く、
こちらもそのまま夜が見せる景色に目を遣った。
遠く左手には黒いベルベットの上に色とりどりの宝石を散らした様な街の灯り。そして右手に
広がる深い闇を横たえたような海。目の前のエプロンや滑走路を飾る青や白の誘導灯。
轟音と鼻の奥にジェット燃料のキツイ匂いを残して夜空に高度を上げていく航行灯。
後悔はそれらを目にしている内に、潮の香りを含んで心地よい強さで吹き付けてくる風の中に
溶け込んで消えていた。
離着陸はどこかジェットコースターのようだと考えていたら、不意に仙道が話しかけてきた。
「ねえ三井さん。日本での三井さんの誕生日はあと3時間くらいで日が変わってしまうけど、
時差のあるアメリカだとまだ20時間以上も残っているんですよ。来年は自家用ジェットでお祝い
しながら2人っきりで地球を一周ってのがいいですね」
「ああ、自家用ジェットだ? そんなもんがどこに有るってんだ?」
三井は思わず眉をしかめた。
まさかこいつはそんな事が言いたくてここまで連れて来たんだろうか。
まったくハリウッドスターじゃあるまいし、仮に小型ジェットだとしても一機いくらすると
思ってんだ。『特大盛り激辛ラーメン3杯30分で食べ切ったら小型ジェット機差し上げます』
なんてことには絶対ならない代物だぜ。
それどころか実際には目の前を飛び立って行くジャンボ機に乗れるだけの金だってお互い持っては
いないだろう。
聞いちゃいない男はかってに話を続けていた。
「でもどうせだったら日付変更線のところから始めないと勿体無いですよね。太平洋上でしたっけ?
ハワイとかタヒチだとどうかな、ハネムーンみたいだし。そうだ、いっそのこと南の島に漂着
しましょう。そこで2人月日を忘れて暮らすっていうのがいいですよ」
漂着って……。タンカーから流出した重油みたいだぜ。
おいおい、それじゃ「CAST AWAY」の世界だろうが。俺がトム・ハンクスでお前はWilsonの
バレーボールか? 破れて中身が飛び出したところはお前の髪型に似てるけどな。どうせだったら
バスケットボールになってくんねえ?
「ガラパゴス諸島がいいんじゃねえの。イグアナやゾウガメが遊んでくれるぜ」
ジュラシックパークの在る島に放り込んだって立派に生きていける奴だと思ったがちょっと
遠慮して言ってやった。
「あ、もちろんお前だけ漂着しろよ」と付け足してやると、「三井さんは日焼けすると痛く
なっちゃうタイプだから島はやめましょうね」と何食わぬ顔で返してきた。
「月日を忘れるんだったら宇宙旅行っていうのもいいですよね。超光速航行だと時間が地上より
うんとゆっくりになるそうですよ」
なんだあ? 今度はお前の広い視野に星が入ったか? また変なSFでも読んだのか?
「あーそう、はいはい。けど今はNASAでもRSA(ロシア航空宇宙局)でもスペースシャトルや
ロケットの打ち上げに犬は使わねえだろ。乗るのは無理なんじゃねえの」
かつてソ連と呼ばれた国で打ち上げられた人工衛星スプートニク2号。初めて宇宙空間を飛んだ
ライカ犬は小さくてかわいかったらしいが、からだのあちこちを計測機器のコードで繋がれた大型犬が
椅子に窮屈そうに座る姿は、それだけを取り上げれば、情けなさそうでなんとも可笑しかった。
「三井さん。たまには夢に付き合ってくれてもいいでしょう」
下を向いて笑っていると、言葉だけは情けなさそうに、いつものんびりどこか夢を見ているような
男が言う。
別に12時になったらどうなるってわけでもないだろうに、何だかシンデレラみたいだな。
言っとくが俺が王子だ。
こいつのガラスの靴が残されてたって自分はそれを持って国中を捜すなんてことはしやしないが、
心の中は来る日も来る日も、窓から見える地球の青さも知らずに、ただじっと孤独に暗闇の中で
地球周回軌道を回っていた、あのライカ犬のようになるんだろうか。
どこかがツキッと痛んだ。
ライカ犬は結局地球に戻ることはなかった。人の手で生を絶たれた動物の話を自分の誕生日に
思い出すのはどうしてだろう。
三井は仙道に顔を向けた。仙道の黒い瞳はいつも変わらないまろやかな光を湛えて、
ちょっと憎らしいほど静まっている。
「そんなに日にちが変わるのが嫌だったら、これから下宿に帰ってだな…」
三井はひとつ呼吸をしてから言った。
「お前が、俺に次の日になったって気付かせないようにすりゃいいだろ」
目の前の、めったに見られない驚いた顔に満足して、それが元の表情に戻らない内に椅子から
逃げた。どこから見られているかわからない場所で幸せを満載した顔に抱きつかれるのは
御免だったから。
エレベーターを待っていると後ろから聞きなれた足音が近づいて来る。振り返ってはやらない。
自分の顔を見られたくなかったから。
俺だって幸せだと感じる時間はいつまでも続いて欲しいんだぜ。
「チン」と音がして現れる無人の小さな空間。
抱き締められながら降下する感覚はまた違うのだろうかと、足を踏み入れながらちょっと思った。
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※KUDRYAVKA=ライカ犬の名前 だそうです
■HITOMIさまのコメントです(メールより/笑)
しかしこの2人だと、
別に12時になったらどうなるってわけでもないだろうに、何だかシンデレラみたいだな。
言っとくが俺が王子だ。
じゃなくて、
「何でそんなに時間を気にすんだよ。別に12時になったらどうにかなるってわけで
もねえだろ、シンデレラかお前は」
「三井さんのドレス姿は綺麗でしょうねえ」
「お前って言ってんだろうが!」
「俺がですか。ドレス姿はあんまり自信が無いけど、三井さんが追いかけてくれるん
だったら頑張っちゃおうかな。で、置いてく靴は右と左とどっちが好みです?」
「どっちもいらねえよ!」
が合ってるかも(笑)
HITOMIさま、ちょっと切なさの混じったそれでも幸せなお話をどうもありがとうございました。