「待たせて悪かったな」
「夜は道が凍っでるから家までおぶっでやるから」
しゃがんだ河田の背中に掴まって、さあ出発という時じゃ。
「三井さん」
信じられないというように振り返った三井の、大きく開けられた目に布団から半身を起こした
仙道が映っておった。
「仙道!」
気がつくと三井は視線の先に向かって必死に右手を伸ばしておった。
じゃが仙道はその声には何も応えずパッタリと仰向けに倒れてしもうた、まだ完全に目が覚める
ところまで回復しておらんかったんじゃな。
三井はその光景を呆然として見ておった。
……俺を助けてくれねえのか?
お前いつも俺が困っていると助けてくれたじゃねえか、
今お前の顔見てどんなに嬉しかったか、きっと何とかしてくれると……
何とかしてくれるから、助けてくれるから嬉しいのか?
なら、悲しいのは?
抉られるようなこの痛さは……。
仙道に向けて伸ばしていた腕を三井は胸にギュッと押し当てた。
「寝言だっだみてえだな」
様子を冷静に見とった河田地蔵がぼそりと呟くと背中でひっそりしてしもうた三井を
背負い直す。
「それじゃあそろそろ出発しようか」
戸が閉まる音に続いて松本地蔵の歌う秋田長持唄がゆっくりと辺りに流れ出し、雪明かりの中を
河田家へと向かう地蔵の婚礼行列がいよいよ始まったのじゃ。
「河田、河田! 俺を下ろしてくれ!」
「早く下ろせ!!」
「なんだ煩せえな」
歩き始めてまだ五十歩程、「下ろせ下ろせ」と急に背中で暴れ出した三井を河田地蔵は雪の上に
投げ飛ばしおった。「ボスッ」という鈍い音に前を行く地蔵達が驚いてこちらを振り向く。
「河田!」
「大事な花嫁さんに投げ技なんかしたら怪我しちまうだろ」
「いや、ついいつもの癖が出だ」
地蔵たちは雪に逆さに突き刺さっている三井に慌てて近寄るとからだを引っこ抜いた。
「ガッ、ゲホッ」
「すまねえな大丈夫だっだか」
むせかえる三井に無表情で謝る姿はあまり反省している様じゃあないのう。
「河田、俺やっぱりお前の弟の嫁にはなれねえ」
息苦しさに雪まみれの顔に涙を浮かべて、じゃがきっぱりと三井は告げよった。
「おまえ打ち所が悪かっだんか?」
「違う!」
傷の有無を、と伸ばした手を払って怒鳴る三井を見ながらその言葉をしばらく反芻しておった
河田地蔵は仲間の方を振り返った。
「またこいつど大事な話が出来たからちょっとここで待ってでくれ」
「ええ!」
「河っさん、今の俺達は半生地蔵状態っすよ、こんなとこにいたら風邪ひいちゃいます」
向けられる抗議の声をひと睨みで黙らすと、河田地蔵は三井を引きずって小屋に戻るなり戸を
引いてしもうた。
戸の向こうからは「深津、主将なんだからなんとか言えよ」「無理ピョン」「家に帰りてー」
などという地蔵達の愚痴が聞こえておった。
「河田!」
「まあ待でよ」
河田地蔵は頬被りを取ると、はやる三井の雪だらけの顔をきれいに拭うてやった。
「で、何でだ?」
「俺、逃げてたんだ」
「逃げてた。なんの事言ってんだ……やっぱり打ち所が」
「そんなことねえって言っただろ!」
じれた三井は子供のように足をひとつ踏み鳴らすと河田地蔵に目を当てた。
「俺さっき仙道の顔見てすげえ嬉しかったんだ、でもな、それはあいつがなんとかうまい方法を
考えてくれるって思ったからなんだ、それっておかしくねえ? おかしいだろ」
「何が?」
「自分の事に仙道を巻き込んじまって、俺本当はな、申し訳ないのとそんな気持ちをいつも
抱えてるのが嫌で、楽になりたくてお前の話を受けたんだ」
そう言うと三井は口の端に自嘲の笑みを浮かべて相手の言葉を待っとった。
「おまえっで結構投げだしがちな男なんだ。けどそれで気が楽になるんだっだら今回はまあ
いいんじゃねえのかな。弟に愛が無いのがちょっと気になるが突然だから仕方がないだろう、
一緒になっでから二人で育みゃいいことだ」
「……」
「愛」とか「育む」とか、外見と不釣合いな言葉を並べる河田地蔵に少し引いてしまった
三井じゃが「はっ」と我に返って言葉を続けよった。
「違うんだ!確かにあの金で借金は無くなる。けど今度は負い目の相手が仙道から美紀男に
変わるだけだ。それじゃあ本当に楽にはなれねえ」
「どうもよくわかんねえな、おまえの言ってるこど」
いらいらする三井の前で河田地蔵は首を傾げると大きく鼻をふくらませよった。
「お前、俺の身上調査したんだったらグレてた俺が籠球に戻ったいきさつ知ってんだろ」
「ああ籠球部襲撃事件だろ」
「あの時俺バカなことしでかして、部の仲間が受け入れてくれたこともあるけどな、恥かしくても
情けなくても格好悪くても、本当は籠球が大好きで籠球をやりたいっていう自分の本当の気持ちに
素直になって自分で戻ることを選んだんだ。
あの時の俺は不様だったし自分勝手で恥知らずだったかもしんねえけど、でも本当の気持ちから
逃げないで、自惚れやプライドや不安とか、俺の中の弱さが作った枷を外して自分で選び取ったから、
籠球が楽しくてしょうがないんだ、どんなに苦しくても我慢出来るんだ」
グレた二年間を締めくくる辛い想い出、だけど乗り越えた俺があそこにはいた。
苦さと誇らしさを噛み締める三井じゃった。
「今度もそうなんだ、借金の事は逃げないで自分の力でけりをつけなきゃいけないんだよ!」
仙道の好意に甘えてそして勝手に負担に思ってそれから逃れたいから河田の好意にまた甘える。
人を頼ってちゃ心の中に負担という枷が増えていくばかりだ、大事なものが欲しかったら、
どんなに辛くても自分で前向きに受けとめて乗り越えなきゃいけねえのに、なんでこんな事に気が
つかなかったんだ。
「だから国に帰ってやりなおす、仙道は塾に戻して俺は働いて借金返す」
「すぐ返せるような額じゃねえぞ」
低い声音で突き付けられる現実にな、三井の一文字に上がった眉がぴくりと動いた。
三井は布団へ顔を向けた。静かに眠っている仙道は周りの騒ぎなどひとつも耳に入っておらん
ようじゃった。髪はいつもと変わらんが三井が赤面するような事を平気で言う口やいつも
楽しそうな色を浮かべる目は閉じられとる。そして今は不思議とそれらに会いたい自分がいる。
「大変でもそうしないと俺はこいつと一緒にいられねえだろ」
そう言う三井の声はえろう静かじゃった。
「そうか、なるほどな、おまえの本当の気持ちっでそういうことだったんか」
チラリと仙道の顔を見てからそう尋ねる河田地蔵に三井は微かに頷いた。
「ああ、そうだ。さっきこいつに名前呼ばれて悲しかったんだ。もう終わりにするって頭の中で
決めていたのに、こいつの声聞いて、顔見て、もう二度と会えなくなっちまうって思ったら俺、
どうしようもなく胸が痛くて悲しかったんだ」
好きなんだ。
もうずっと前からそうだった、でも心に負担があるまま仙道の気持ちに応えると、自分が媚びて
いるようで素直に認められなかったんだ。
俺は逃げていたんだ、自分の一番正直な気持ちからも。
……馬鹿な奴だな。でも妙な劣等感は持ちたくない、仙道とは対等でいたいんだ。
それが自分の高いプライドに根差すものなのか、それとも本当に大切な相手だからそう思うのか、
今はまだよく判らないが。
判っているのは今のように後ろ向きになったままだと早晩俺達は終わりになってしまうという事。
そして、そんな気持ちのままで籠球を続けていたら……いつか籠球も嫌になってしまうかもしれない。
「俺はこのままここで仙道をダメにしたくねえし、仙道とダメになりたくねえし、俺がダメに
なりたくもねえんだ。……俺って我が侭だな」
「好きなものには欲張りになるっでことだな。それにしでも『こいつが好きだ』どひとこと言えば
話が済むのに……三井、おまえって素直じゃねえ奴だな。苦労するなこいつ」
「……だな」
共に仙道を見ていた目が合った途端、照れたように慌ててむこうを向いてしもうた三井の目元は
少し濡れておったように河田地蔵には見えた。
「わかっだ」
「弟の話、台無しにしてすまねえ」
素直になった気持ちが自然と三井の頭を下げさせておった。
「美紀男のことは心配しなくでもいい、名前の通り筋道たてで説明してやればわかる奴だ」
「そうか」
「兄ちゃんのおれの言うこどは絶対だからな」
上げられた顔に浮かんでおった少しほっとした表情がそれを聞いて当惑に変わる、本当に
うまく美紀男に説明がされるのか不安になったんじゃろう。
「それより問題はこっちの方じゃないんか?こいづも塾やめて働くんじゃねえのかな」と河田地蔵が
仙道を指差す。
「そんなこと俺が許さねえよ」
「自分の心に素直になるのが大事なんだろうが、こいつがそう決めたらどうするんだ?」
「逆らったりさせねえから」
そう言いながらも、いつも三井の心の中を素直に写し出す茶色の瞳は不安そうに揺れとる。
河田地蔵はそんな三井の様子を少し可笑しそうに見ておった。
「現実はなかなか厳しいしおまえのそんな顔見るどやっぱりどうにかしてやりたいと思っちまうな、
親切にしてもらっだし」
「……そこでだ、さっきのお祝いだが、やっぱりおまえにやる」
右手で三井の腹巻の感触を確かめながら河田地蔵はこう切り出した。
「そんなもの受け取れる訳ねえ」
人には頼らないと言ったばかりじゃねえか……と三井は口を尖らせ呟きよった。
「三井。俺は誰だ?」
「ああ?どう見たって河田だろう」
河田地蔵は今更なにを、というように眉根を寄せる三井を見据えると、そのままぐっと顔を
近づけた。
「俺は河田地蔵。人じゃねえよ」
「それにな、親切にしてもらっだ人にお礼するのは昔からお地蔵さまの定番話だ」
どうだ、という顔をして見せた河田地蔵はさっと立ち上がると戸を開け仲間に声をかけたんじゃ。
「待たせだな」
外にいた地蔵達はからだを擦ったり足踏みしたりしてなんとか寒さに耐えとったようじゃ。
「よかった、また重い荷物持って帰るのかと思ったよ」
「なんだ聞いでたんか」
「あんなでかい声筒抜けだよな」
咎めるような声に一之倉地蔵が小さな目を細うして笑いながら周りに同意を求めると、
残る3体が「うんうん」と頷いた。
「さあて、帰っだら美紀男の残念会だ」
腕組しながら言うその表情は弟思いの兄の顔を覗かせておった。
「まあ仕方がないですよ河田さん、あの人とじゃちょっと釣り合いが」
「んだとー!おめえちょっとこの間女の子にお供え貰ったからっていい気になってる
んじゃねえのか」
河田地蔵はよけいな一言をこぼした沢北地蔵の腕を素早く捕まえ一緒に雪の上に倒れ込むと
すかさず腕の関節を締め上げよった。
「あ、ギブ、ギブっすよ河っさん〜」
痛みに涙目で降参を口にする沢北地蔵と一向に攻撃の手を緩めない河田地蔵、深津地蔵がそんな
2人に「じゃ帰るピョン」とだけあっさり告げる。いつも平常心のこの主将、地蔵達を動かす真の
実力者なんじゃろう。
「河田」
遅れて戸口に立っておった三井は技をはずして立ち上がった河田地蔵に声をかけた、
振り返った河田地蔵がもの言いたげなその白い顔をじっと見詰める。
「仙道ど喧嘩別れでもしたらここに戻って来い、今度は俺の嫁にしでやっから心配すんな」
思いもよらんかった言葉を耳にして面食らう三井に「冗談だよ」といかつい笑いを返すと、
今度は松本地蔵に「景気付けに何か歌えよ」と声をかけた。
「十八番は秋田長持唄だけど、そういう訳にもいかなくなったし、何が良いかな」
「じゃあ塾歌にするか」
下を向いて考え込む相手に河田地蔵がそう提案する。
「いいねそれ、塾歌は地蔵科のOB会で歌ったきりだし」
見場の良い顔を上げ一息吸い込むと、張りのある美声が辺りに響きわたった。
「もう朝まであまり時間が無いピョン、歌いながら麓までマラソンだピョン」
「えー、新年早々ですか」
情けなさそうな声がいつもは余裕な顔をしておる沢北地蔵からあがった。
「だから王者山王なんだろうが」
当然、といった顔でそう言うと河田地蔵は「フン」と鼻から白い息を大きく吐き出した。隣りでは
一之倉地蔵が「俺は我慢の男、マラソンは誰にも負けん」と早くも粘っこい闘志を燃やしておる。
地蔵たちは籠球選手なら知らぬ者の無い山王塾歌を歌いながら雪煙を上げて来た道を戻って
行きおった。
地蔵達の姿が雪の向こうに消えると、三井はからだの力が抜けてしもうて戸も閉めずペタリと
その場に座り込んでしもうた。
長い夜の終わりを告げるように星がひとつまたひとつと消えて行く。やがて山の向こうが
一段と明るさを増すと、初日が眩いその顔をゆっくりと出し始めたんじゃ。
顔を撫でる冷気に仙道はようやっと目を覚ましよった。
よく寝た、と大きく伸びをしながら風の来る方を見ると入口の戸が開いていて、雪で明るさを
増したおてんとうさまの光が差し込んどる、その中に人の形をした影がひとつ。
「三井さん……」
影の正体が外出用の格好をして土間に座り込んだ三井じゃとわかって仙道の顔色は変わって
しもうた。慌てて飛び起きると土間に下りる。「どうしたんです?」と言いながら取った手は氷の様に
冷えきっておって、素早く戸を閉め三井を囲炉裏端に座らせると、とりあえず今まで寝ていた布団を
掛けてやった。
「すぐお湯が沸きますからね」
囲炉裏に火を入れると三井の隣に座って、膝の上に乗る青白い手を擦ってやりながら様子を
窺うた。
怪我は無い。疲れた顔はしているけれどいつもと纏っている空気が違う、清々しく自信に溢れた、
まるで初めて見た時の三井のようだ。
しばらくして三井が口を開いた。
「仙道、相模へ帰ろう」
「借金のことですか」
手を止めて遠慮がちに発せられた言葉に驚いて、三井は目を見開いてしもうた。
「お前……」
仙道は数瞬閉じておった目を、何か思い切るように開くと話を始めた。
「オレね、三井さんから話を聞いてよく考えもしないで無理遣りここまで連れて来てしまったけど、
借金の事ずっと気にしているんじゃないかと。ほら相模で会った時三井さんに籠球の練習相手に
なってもらうことにしたでしょう、オレが勝手に相手の奴らと約束した事なのに三井さんすごく
気に掛けて。あの時『ああ、この人は結構生真面目で繊細な人なんだな』って思ったんです、
だから今度の事もちょっと引っ掛かっていたんです」
「オレが軽率でした。ご免なさい」
気が付かなかった……。
自分の気持ちにばかり拘っていて、まさかこいつがそんな俺のことを危惧していたなんて思いも
よらなかった。俺は何も悪くないこいつにまで負い目を感じさせていたのか。
いつもは飄々とした男の面に刻まれた後悔の深さに、三井は鼻の奥がツンとするんじゃった。
「気にしてた。お前心配してくれてたんだな」
「……有り難う」
「やだなーそんな改まって。大事な人の事はね、わかるんですよ。だってオレは三井さんの夫
ですから」
また始まった。顔を緩めて馬鹿を言い始めた男、でも今度は殴れねえ。
俺の気持ちを和ませようとわざと言いやがって。
こいつは自分の胸の内はおくびにも出さないで、そのくせ二人分の悩みを抱えていたんだ。
生真面目? 面と向かっては小心と言えないお前の言葉の言い換えだろう?
仙道といういつも穏やかに流れる大河の水面下を見たような気がした、だがその河底までの深さは
いったいどれ程なのか見当がつかない。
「その借金なんだけどな、これ開けてみろよ」
手紙を素早く囲炉裏にくべ、河田地蔵の置き土産を三井は示しよった。
「小判だ、いやー綺麗だな、ほら三井さんピカピカ」
現れた小判をこちらに差し出す仙道に三井は少し呆れておった。
「仙道。普通さ、こんな大金見たら驚くとか一体どうしたとか聞くもんじゃねえ?」
「そうですか?」
「そうだよ」
そんな顔されるとこちらが間違っているのかと思っちまう。
「んー、なんかオレ三井さんの事じゃないとどうでもよくて。でも三井さんのことを思うと、
こう……」
「馬鹿野郎、そんな垂れ目顔するんじゃねえよ」
顔を赤らめた三井は、胸の前で小判を持つ手を交差させる仙道の姿に咄嗟に握り拳を固めた。
条件反射というやつじゃな。じゃがこういう姿が見たいとついさっき思っとらんかったか?
三井よ。
「で、どうしたんですかこれ」
「それは……」
しまった、こいつのボケぶりについ余計な事を言っちまった。
思わぬ墓穴を掘った三井は青くなっておろおろしてしもうた。
「ひょっとして三井さん、土蔵破りしたの?」
まさか自分が河田地蔵に尋ねた言葉をそっくりこの脳天気の口からからかうように聞かされるとは、
と再びカッと赤くなる。
「違う、これは……」
「なんです?」
仙道は目まぐるしく変わる三井の表情を楽しむようにしながらじっと答えを待っとった。
「これは……これは……そうだ、年末大富くじで1等賞が当たったんだよ!」
「発表は今日の昼でしょう?」
時間の感覚がずれておる仙道に向けて三井の短気が小さく爆発する。
「今日はもう正月、新年なんだよ!お前は持病の眠い眠いが出て丸一日寝てて、だから昨日俺一人
で里に行って来たんだよ!」
そうだ、おかげで俺は……
「じゃ三井さんミリオネアになったんすか」
「あ、おお」
ぎこちなく三井は頷いた。
「確か『し』の十四番でしたよね。あ、ここに『ひさし』って名前がある。すごいなー、
金文字ですよ」
感心しながら祝い袋をさわる仙道にそれは「寿」と書いて「ことぶき」と読むんだ、そして本当は
俺への結婚祝いなんだぞとも言えず大きなため息をつく三井じゃったが、物事に拘らぬのんびりと
した仙道の様子を見ていると肩の力が抜けてずっと今まで張り詰めていた心がどんどん柔らかく
なっていくのがわかった。
俺を呼んだあの時の寝言はなんだったんだろう?
こいつのことだ、尋ねてたところで覚えていないに違いない。だが仙道が、この俺が自分を
取り戻すきっかけを作ってくれたことは事実だった。そして仙道が好きだという気持をもう自分が
変えようが無いという事も。
「こっちは副賞ですね。へえ、この面白い豆腐どんな味でしょうね三井さん。鴨に野菜、丁度いい、
朝から贅沢だけど正月だし、富くじのお祝いも兼ねて鴨鍋を作りましょうか、何よりからだが
温まるし」
ここの餅も入れて、すぐですからね、と言って広い背中を向けて支度に立ち上がろうとした仙道の
袂を三井の手が掴んどった。
「どうしたの? 三井さん」
そのままじっと思い詰めたように自分の顔から目を離さない三井に、仙道が怪訝な顔をして
向き直る。
「……お前が暖めてくれる方がイイ」
仙道の表情はそのままじゃった。まじまじと自分を見とる相手を前に、三井は頬に血が
一気に駆け上がってしまい、いたたまれず腰を浮かしたところをその長い腕に捉えられて
しもうた。
「三井さん」
思わず見返すと、きっといつものように笑っているとばかり思っておった仙道の目には、
戸惑いと不安がない交ぜになった色が乗っておって、この男には似合わんその表情につい三井は
硬い前髪を引っ張ってしもうた。気持ちがすっと落ち着いて、驚いて見上げてくる顔に笑いかけると
いつもの柔和な黒い瞳が戻って来おった。
「三井さん」
もう一度、強く抱きしめられて、今度は耳元で響くその深い声はさっきの自分の頬より熱かった。
うっすらと汗ばんだ額に張り付いた髪を指でそっと掻き上げると、仙道はそこに柔らかい
口付けを繰り返す。胸に伝わる早い鼓動や、頬に柔らかく添えられた手や唇の優しい感触が
仙道の心に触れているようでたまらない。三井のからだは正直辛かったが心が伸びやかで暖かかった。
仙道は同じ暖かさを感じているんだろうか、こうすれば伝えることが出来るだろうかと、
からだの上の熱い背中に両手を当てる。
三井は互いが醸しだす春の日差しのような心地良さに浸りながらふと頭に浮かんだことを聞いて
みとうなった。
「なあ、富くじに当たらなかったとして俺が塾やめて働くって言ったらお前どうする?」
「もちろんオレも一緒に働きますよ」
顔を上げた仙道はまだ少し上気して潤んでおる三井の瞳に見惚れながら即答した。
「駄目だ、これは俺の問題でお前は塾で籠球を続けないと」
「オレ一人だけのんびりですか? そんなこと出来ませんよ」
「俺は大丈夫だ、けどお前は選手やんねえと、お前は御前試合に出る実力がある奴だぞ」
思わず身を起こしてそう言うと釣られるように仙道もゆっくりと起き上がった。
「三井さんだってその実力はある」
「……」
「三井さんの『大丈夫』っていう意味は塾で続けるだけが籠球じゃないってことでしょう?
じゃあオレもね、同じですよ。選手や試合が目的で籠球をやっているわけじゃない、
好きだからやっているんです。好きなものとはどんな形ででも関わっていられたらそれだけで
嬉しいじゃないですか。オレにとって好きなものは籠球で大好きな人は三井さん。
だから一緒に働いてもいいでしょう?」
さっぱりとした口調でそう言う仙道から三井は視線を落とした。
「絶対許さねえかんな」
「困りましたね」
仙道はちーっとも困ってはおらんようにのんびりそう言うとな「このままじゃ寒いですね」と左手で
三井の背を抱くと自分のからだの重みをかけて仰臥させた。顔の両脇に手を置き覆い被さるように
して真面目な顔をする。
「じゃあ、いっぱいキスしたら許してくれますか?」
「ばっ、おめえ誰に向かってそんな事言ってんだ!」
あんなことを言うからちょっとほだされちまったのに、油断してるととんでもねえことを。
形の良い耳まで赤く染めて思いっきり睨み上げてくる三井を見て、仙道は顔が自然と笑って
しまうのを必死に堪えた。
『三井さん、そんな目をされちゃうと却って構いたくなっちゃいますよ〜』
いつも殴られておるのに懲りん奴じゃな。
「えー、駄目ですか。しょうがない、じゃ奥の手を……」
仙道はわざと大げさな声をあげると右手を三井の顔の上に持って行き、人差し指をその唇に
あてるとそっとなぞりだしよった。
「仙道家に伝わるまじないです。こうすると願いが叶うんですよ。ほら、働いてもいいって
言いたくなってきたでしょう?」
ああ? どんな家なんだよ、お前んとこは。それにこれは仮の話だろ。こいつ、年下のくせに
からかってやがる。
だが多分、本気になったら俺にこいつは止められない。この男は見掛けは風を遣り過ごすような
態度をとるが芯は決して揺るがせない奴だから。
改めて河田地蔵の心遣いに三井は感謝しておった。
ともあれこの夏、深い淵の底で眠っていた龍が天に向けて優美な姿を飛翔させることは確実だ、
その手には籠球が掴まれている。もちろん三井も同じ籠球選手として負ける気はさらさら無いが
その光景を思うと期待で身内に震えを覚えるのじゃった。
触れる指がくすぐったい。身を捻って逃れようとした瞬間、三井はあることを思い付きよって
両手を伸ばすと自分も同じように長い睫毛に縁取られた仙道の目尻に指を当てた。
「えっ?」という顔になった仙道じゃったがすぐに三井の意図を察して自分の指を止めると
可笑しそうに言う。
「三井さんは吊り目が好みですか?」
「お前いつも笑ってるから、放っておくとそのうち垂れ目になっちまうかなと思ってな」
「そんなことしてもオレは吊り目になんないっすよ」
「なんでだよ、すげー良く効くんだろ! 仙道家のまじないってやつは。あ、でもこの目はもう
手遅れかもな、じゃあ、せめて口元だけでもキリッとさせとくか?」
目尻を擦りながらしてやったりとクスクス笑う三井の様子を見ておった仙道は、口元に浮かべた
淡い苦笑いを引っ込めると、試合に臨む時のような視線で見下ろして来よった。
「無理ですよ三井さん。オレって正直者だから。三井さんといると幸せがすぐ顔に出ちゃうんです。
ほらね」
そう言うと唇に柔らかく笑みを上らせる。とんでもない反撃に唖然となって開けられている三井の
口にその仙道の笑みがゆっくりと忍び込んでくる。
嘘付け!!! お前は変なことにばっか正直者なんだろうが!!
……けど、この「正直者」の手が作った笠と腹巻が河田達と出会わせてくれたんだ。
三井は宙に残されていた両手をそっと仙道のうなじに回した。
外ではいつとはなしに今年初めての雪が、2人だけの時間を閉じ込めるように降り出しておった。
新春吉日、二人はリョータと彩子に見送られ過ごした山小屋を後にした。
里にでると先ず近くの寺の住職堂本を訪ね、余分な金全てを寄進して山王ファイブの世話を頼んで
から地蔵達の元を訪れた。例の釣り竿で仙道が釣ったナポレオンフイッシュをそれぞれに
お供えする。
何をお願いしているのか、三井さんはずいぶん熱心に手を合わせている。
仙道はそんな三井の細面な横顔と首に三井の腹巻をした河田地蔵のごつい造りの顔を交互に
眺めておった。
そうじゃった、相模への、仙道曰く「新婚旅行」にはあのルカワとサクラギもお供してな、
誰とは言わんが三つ巴になって、まあ今で言う車に付けられた空き缶のように賑やかな音を四方に
撒き散らしたそうじゃ。
国元へ戻った二人は無事復塾し、その後今でも籠球の世界で語り伝えられる大選手と
なったんじゃ。
出羽ノ国、山王の里に居らっしゃる山王ファイブには、以来毎年大晦日に笠が被せられるように
なった、そして左端の河田地蔵の首には腹巻も巻かれた。
その腹巻にはもちろん三井と仙道、二人の名前がしっかりと編み込まれておったそうな。
めでたし、めでたし。