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降車してしばらくは足元がおぼつかない感じがした。まるでアルコールに酔ったように二人でハイになったまま外に出て、それから《スター・ツアーズ》と、もう一度《スペース・マウンテン》にトライした。三度目の宇宙旅行から無事帰還したころには、地上では夕闇が迫っていた。
そこここでイルミネーションが点灯し始め、宝石のように煌めき始める。
「夕飯なんですけど」
二人はワールドバザールの方へと向かっていた。そろそろ腹の虫の動きが気になる時刻となっている。
「ああ?」
「どうせならホテルで食べたらどうかと思うんですが」
夜はベイエリアのホテルに一泊して翌日神奈川に帰るということで了解を得ている。ホテルは仙道が手配した。混み合う時期でダブル・ルームしか取れなかったことはいまのところ内緒にしているが。
「いいけど、たけーし、ちゃんとした服とか持ってきてねえぞ」
「いや、もちろんフランス料理のフルコースってわけにもいきませんけど。……お年玉の貯金おろしてきたんで、フトコロ具合は気にしないで下さい」
「気にしてるわけじゃねえけどよ、ホテル代もレストラン代も割り勘にしような」
「えー、駄目ですよ、そんなの。オレ、三井さんの彼氏のつもりなんだから、それぐらいのこと……」
せっかくいい気持ちでリードしているのだから、全うさせてもらっても罰は当たらないと思う。しかし三井は首を横に振った。
「あのな、オレは女じゃねえし、こういうつきあいしてるからっておごってもらって当たり前とは思ってねえ。……第一、高校生にそんな背伸びさせられっかよ」
一ヶ月ちょっと前までは自分も高校生だったくせに、この言い種だ。しかし高校と大学との間に横たわる溝はそれほど浅くはなく、仙道は反論できない。
「つまんないなあ……オレってそんなに甲斐性ないですか?」
「そんなんじゃねえって。……うーん、だったらあれ、おごってもらおうかな」
思いがけなく三井が言った。
見ると、前方からやってくる女の子数人のグループが、歩きながら細長い揚げ菓子のようなものを食べている。とりあえず、本当の晩餐までのつなぎにはなりそうだったし、確かに他人が食べているとおいしそうに見えた。周囲に視線をめぐらすと、少し離れたところにワゴンが停車していて、そこで売っているのが見えた。
「買ってきます。飲み物は何にしますか?」
「あ、あればコーヒー」
「お安いご用です。待ってて下さいね」
「おう」
植え込みの陰に三井を残して仙道はワゴンに走った。
チュロスという名のその菓子とコーヒーを注文し、代金を支払ってしばし待つ。夜のパレードももうすぐだし、食べながら見物という考えも悪くなさそうだった。そんなことに思いを巡らしながら、差し出されるチュロスとコーヒーに手をのばしたとき、賑やかな集団が通りかかったかと思うと至近距離から聞き覚えのある声に名前を呼ばれた。
「センドー!」
振り向かなくとも、声の主の容貌は一瞬で頭の中に蘇った。赤い髪、同じぐらいの長身。急成長を続け、意外だったプレーが当たり前になりつつある男だ。
試合の前後やコート上ではずいぶん突っかかってもこられたが、それはそれでバスケットボール・プレーヤーとしては楽しかった。しかし、いまこの場所では話が違う。ポーカーフェースでまわれ右をしながらも、その負けず嫌いな男のディフェンスをどうやって抜こうかということばかり考えていた。
「桜木? あ、宮城も。こんなところで会うなんて奇遇だなあ」
よく見れば、ライバル・チームの主力二人とマネージャーのほかにも、試合場の観客席で見かけたことのあるような気のする面々もいた。仙道との間隔は一メートルもない。
「何、みんなで来たの?」
「おうよ。ハルコさんとオレとその他大勢だ」
「何だと、もう一度言ってみろ、花道!」
桜木が大いばりで言うと、斜め後ろにいた宮城が蹴りを入れた。それをきっかけにつっこみまくりの荒っぽい漫才が始まると、周囲はすでに余裕の体で見物にまわる。仙道もしばらく観客を決め込んでいたが、注意がすっかり逸れていることを感じ、そろそろとワゴンの前から離れ始めた。コーヒー二杯を手に逃げることはできないので、ワゴンの中に戻す。怪訝な顔をした店員のお姉さんはウィンクひとつと唇の前で立てた人差し指一本で黙らせた。
チュロス二本だけを手に、一歩大きく踏み出したとき、宮城が叫んだ。
「あっ、仙道が逃げるぞ、花道」
「なにっ?」
桜木が体勢を変えたときには仙道はもう五メートルほど先に飛び退いていた。
「卑怯だぞ、センドー!」
桜木が怒鳴った。心外な言われように仙道は苦笑した。
「おまえらの喧嘩、黙って見てないと卑怯者か? オレ、おまえらに何か悪いことしたっけ?」
「してるもしてないも、やたらかっこつけやがって、そればかりかハルコさんに褒められて、まだ足りねーか、コノヤローッ! 隠したってネタは上がってるんだ、本命を出しやがれ、本命を!」
桜木がエキサイトしているのは、私的な中でも極めて私的な理由かららしい。すでに宮城は美人マネージャーに一喝されしおれているが、桜木のことは誰も止めない。女の子が二人ばかりおろおろしている以外全員笑顔なのは、どうやら何かを期待しているらしいが、そうは問屋がおろさない。
「駄目」
「んだと?」
「もったいなくて、そうそう他人に見せられない」
「なにぃ?」
柄が大きいだけのやんちゃ坊主が詰め寄る分、仙道は後ずさった。桜木は大型犬の仔犬のようで、反応がストレートで相手していても飽きない。しかし都合もへったくれもなく無差別にじゃれつかれるのは少々困る。
「けっ、減るもんじゃねえだろ。美しいハルコさんの足元にも及ばないんで、見せられねえってのが本当じゃねえか?」
仙道は笑った。
「見せるとね、なくなっちゃうんだ」
「何だ、そりゃ」
「放っといたら離れてっちゃうし」
彼以外には解読不可能な謎かけだ。桜木の目は座り、眉間には皺が寄っていた。
「ま、そういうわけだから、今日のところは勘弁な。……決勝リーグで会おうぜ」
言って走り出すと、しばし遅れて桜木の怒声が後追いしてきた。
「こらーっ、何が『そういうわけ』だ、待ちやがれ、センドー!」
振り返る。声だけでなく、スタート・ダッシュよく桜木の本体も迫ってきていた。それにはさすがの仙道も慌て、いったん三井の方に向かった進路を逆方向に転換した。もう一度振り返り、桜木の後ろから団体が追ってくるのを見て、さらに一段加速した。珍しく百パーセントの力を出し切って彼は走り続けた。
とんでもない追いかけっこは思ったほどには長く続かなかったのかもしれない。
コート上に立っている間隔で無秩序に散らばる人間たちを抜き、目についた建物の陰に回り込んで様子を窺ったときには、もう湘北軍団は消えていた。それでも三井の元に戻るのに、来た道をたどるわけにはいかなかった。よしんばそれが許されたとしても、重症の方向音痴の仙道が最短距離で三井のいるところにたどり着けたかどうかは疑問だが、園内を迂回しなければならない状況に追い込まれた現実はもっと過酷だった。日がすっかり落ちても混雑は全く変わらない。人の流れが沈滞し始め、移動しにくくなる。
そろそろエレクトリカル・パレードの始まる時間だった。
仙道が大股で走って来るのを見て、三井は腰を下ろしていたベンチから立ち上がった。
二人でいると落ち着かないのに、一人になるとこれもまた不安定な気分になる。仙道を見て何となくほっとしたのを食欲のせいにして、三井は彼の到着を待った。
しかし、次の瞬間目に飛び込んできた桜木の姿に思わず身を隠した。
「待てったら、待て!」
独特の大音声が三井のいるところまで響き、近くにいた人々は何事かとその方を見た。桜木の後には少し遅れてよく見知った一団が続く。いつの間にか仙道は三井に背を向けて走り去っていった。
身を潜めて窺い見ていると、三井の前方数メートルのところを仙道に続いて桜木が走り抜け、それから集団が続いて、その後ろの方で誰かが転んだ。
「晴子っ!」
赤木の妹だった。聞きしにまさるトロさである。友だち二人と彩子が足を止め、彩子はほぼ同時に、試合場の歓声の中でもよく通る声を張り上げた。
「リョータッ、桜木花道を連れ戻してっ! 晴子ちゃんが怪我したから!」
「任せて、アヤちゃん!」
湘北一、いや、神奈川一速い男が本領を発揮して桜木の後を追った。鉄砲玉男はすぐにつかまって引き戻されてきた。
赤木の妹は膝頭を擦りむいたぐらいで、大したことにはならなかったが、桜木は大騒ぎだった。
三井はパレード見物の混雑に紛れ、その騒がしい一団が目の前から通り過ぎるのを、息をひそめて待っていた。
人工の光で鮮やかに飾りたてられた山車が連なって動いていく。光の海の中でステップを踏むダンサーたちもまた、光り輝くコスチュームを身に着けていた。
光と音のページェントという謳い文句通り、電気仕掛けのパレードは地上の星座のような光彩と軽やかで明るいメロディを発しながら園内を席巻していく。夜の闇もここでは華やかさを醸し出すための舞台装置に過ぎない。夢のように鮮やかな時が、そこにいる者全ての心を魅了する。
パレードが始まったとき仙道は光の流れを遠目に見て歩いていたが、三井とはぐれた場所に着いたときには、そこには祭の後の寂しさが残っているだけだった。もちろん人がいないわけではないし、暖かい灯は点っているのだが、通り過ぎたものがあまりにも燦として輝いていたため、空気が息をひそめていた。やがてまた小さな夢の粒が育っていき、慎ましい灯は煌めくイルミネーションへと表情を変えるだろう。しかしまだそのときは時のエアポケットに落ちたかのように、一抹の侘しさを漂わせていた。
そこに三井がいるという確信を仙道は持てなかった。
場所は間違いないと思う。建物も、桜木たちにつかまったワゴンも覚えている通りの位置にある。しかしもうだいぶ時間が経っていた。
−一人で帰ればいいだろ。お互いガキじゃねえんだから。
はぐれたらどうするのかという仙道の問いに、昼間三井はそう答えたのだった。
生来楽天家の仙道は、三井が文句を言いつつもつきあってくれるのは嫌われていない証拠と解釈して、特に気持ちを確認するようなことをしたことはなかった。しかしだからといって自分と同じ感情を持ってくれているとはさすがに思わない。
三井がいなければ、自分は園内から追い出されるまで捜して歩くだろう。たぶんそれがいちばん幸せな行為だから。そして次に三井と会ったときには、そんなことはなかったかのように振舞える。
それは男の純情というより打算であろう。
仙道は自嘲するように笑った。
三井を残してきた植え込みの陰のベンチに近づきながら目を上げられなかった。目的の場所に近づくにつれ足の動きは重くなり、ついに地面に吸い寄せられるように止まった。
ためらったのはほんの少しの間だった。決断は早いのが身上だ。
目を上げる。
まず視界に入ったのはシンプルなデザート・ブーツ。ついでコットン・パンツ。Tシャツの胸元。小さな顔は深くつばを引き下げたキャップで隠れていたが、ほんの少し覗いた顎の線だけで彼とわかる。
足が動かなかった。逆に膝から力が抜けて、その場でしゃがみ込んでしまった。
安堵に深い息をつくと、ベンチでふんぞりかえるようにしていた三井の体がぴくりと動いた。おもむろに腕が上がってキャップのつばを指で弾き上げる。目と目が合った。三井の目の表情は心なしかいつもより柔らかいような気がした。だが、直後に彼が口にした言葉で、それも気のせいだとわかった。
「……おせーぞ。腹減って動けねえ……」
勢いのない、不機嫌そうな声だった。仙道は慌てて自分の手元を見た。例のワゴンで買い求めたドーナツの親類は途中でぱっきりと折れ、無惨に手の中に収まっている。折れた部分はどこかに落としてきたのだろうが、一向に記憶にない。それだけでなく、もうとっくに冷たくなっている揚げ菓子はとても食欲をそそるようなものではなかった。
「すいません、三井さん、また買い直してきます」
「それでいいから……よこせよ」
立ち上がって再びワゴンの方に向かおうとした仙道の足を三井の一言が止めた。仙道は当惑を隠せなかった。
「えっ、でも、これじゃ……」
「いいって言ったら、いいんだよ。ほら!」
「あ、はい」
だだっ子のように一度強く足を踏みならすので、仙道は急いで駆け寄り、チュロスの残骸を二本とも三井に渡した。すると三井は一本を押しつけてきた。
「こいつはおめえの分! ちゃんと食え」
言うが早いか自分のを一口かじる。とたんに顔をしかめた。
「まじい……ひでえよ、これ……こんなまずいもん、食ったことねえ」
「だから買い直してくるって……」
そのとき仙道は三井の目が潤んでいるのを見た。
「本当に無理しなくたって」
「うるせー! うだうだ言ってねえで、てめえもさっさと食えって言ってんだろーが!」
仙道は慌ててチュロスを頬張った。もちろん、冷めてしまった揚げ菓子は美味ではなかったが、涙が出てくるほどまずいわけでもなかった。
「そんなにまずいですか。そうかなあ、オレよくわかんないな」
三井はそれには何も言わなかった。気まずい思いがして黙々と口を動かしていると、やがて小声で何か言った。
「……な」
「え?」
聞こえなかったので聞き返した。
「……ごめんな」
視線を逸らしたままぶっきらぼうに言葉を投げてくる。仙道には何のことかわからなかった。今日のことをどんなに思い返しても心当たりは全くない。
「別に、謝ってもらうことなんてないっすよ。かえってオレの方が謝らなきゃならないと……」
「オレ、やっぱり、おめえみたいにこういうこと堂々と続けてらんねえ」
三井の唇からこぼれた言葉は、唐突でありながらいつもどこかで予期していたものをはらんでいた。
静かな口調は変転の先触れなのだろうか。遊びは終わりだ、もうそろそろ潮時だと言われるのだろうか。仙道には何と答えたらいいのかわからない。
「仙道、オレな……」
そこで背けていた目をひたと向けてくる。泣きそうな目が痛々しくて、仙道は己れの浅慮を突きつけられたような気になった。
「オレ、あいつら……湘北のあの連中に言えねえようなこと、本当はしたくねえんだ」
相手の譲歩を良いことに、好意を押しつけて男としてのプライドを傷つけていたのだとしたら、どうすればいいのだろう、と仙道は思う。
「もちろんオレは『いい先輩』なんかじゃなかったけど、あいつらとはバスケでつながっていたかったし、それ以外の目で見て欲しくねえ……わがままだってわかってるんだけどよ」
三井を好きだという気持ちをどのように表せばいいのだろう。抱きしめて唇を合わせて体温を伝え合うあの心地よさを取り上げられたら、ほかに表現する術を彼は知らない。
三井の目が、いつもどこかにあった決まりの悪さを捨て、本来の純粋さをあらわに映している。
「オレにはバスケが一番だからな」
「三井さん……」
「いまの大学でも、湘北のときも、おめえんとことやってぶっ倒れたときも、ぐれてバスケを離れてたときだって、いつも、ずっとな」
首を振って、三井はあふれそうな涙を振り切り、立ち上がった。
「……おめえといるのは嫌いじゃねえ。格上げしたって、せいぜい二番目にしかならねえけど、嫌いだったらつきあわねえよ」
仙道の頭の中で三井の言葉が脳の表層を滑り落ちていく。彼が何を言いたいのか仙道にはわからない。わからないが、拒絶されているわけでないことはわかる。
「一緒にいるのは好きだし、寝たからって、おめえもオレも変わらないってことはわかってるし」
一歩近づいて頬に手をあてても三井は逃げなかった。
「でも、どんなにうまくいってても、おめえとのことを表沙汰にする気はねえし、いざっていうときは、今日みたいにおめえを見捨てるかもしんねえぜ。それでも……」
思わず両腕が先に出て三井を抱きしめていた。
「いいに決まってるじゃありませんか」
締めつけられるような胸の痛みとともにいつも繰り返し言ってきた想いを吐露した。
「だって、三井さんのこんな顔見せてもらえるの、オレだけなんでしょう? それだけで……十分です」
自分は思った以上に幸せな男だったのだ、と仙道は思う。三井は待っていてくれたし、こんなに自分とのことを考えてくれていた。
抱きしめる腕に力がこもった。
「仙道……」
三井の腕が背中にまわり、仙道のTシャツをくしゃくしゃにして、掴んで、握りしめる。
やがて抱き合ったままの体を離すと、滲んでいた光と消えていた音が復活した。
折しもシンデレラ城を中心に花火が上がる。
神々の宝石箱をひっくり返したかのような美しい光が満天を彩っていく。誰の目も、空に釘付けになる。
仙道は三井の顎に指をのばして唇を近づけた。
人目を盗んだ甘いキス。
が、甘いのはやはり仙道の認識のようだった。
唇が軽く触れあったとたん、三井は思い切り仙道の顔を押し退け、ちょっと前までの殊勝な態度も忘れたかのように文句をこぼす。照れ屋もここまでくれば無形文化財級だと思うが、そういう三井こそが好きなのだと、仙道は認めないわけにはいかなかった。
大男二人、抱き合ったかと思うと、戯れるようなキスをして、それからじゃれ合い始めるという不気味な構図も、誰の目も引かない。
そこは夢と魔法の国。
デートもきっと極上のものになる。
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