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「三井さん、今度の土曜のことなんですけど……」 仙道が切り出すと受話器の向こうで一瞬黙り込む気配がした。 『悪い。その日はだめなんだ』 沈黙のおかげでそれはある程度予測できた答えだったが、仙道はひどく落胆した。 三井の様子がこのところどうもおかしいというのは、いくら楽天的な仙道でも気づいていた。 三井と知り合った夏から早くも季節が変わろうとしている。その間に二人の仲はただの知人から 友達へ、さらに仙道の告白と三井の流され易さで一歩踏み込んだ関係へと変わった。少なくとも 仙道は恋人関係のつもりなのだが、来渋っていた秋もやっと腰を据えようとしているこの時期に、 三井は週末の逢瀬を二回連続で断ってきたのである。今度を入れると三回目になり、さすがの仙道も 正直煮詰まってきていた。 そもそも学校が別々で、単なる学年の違い以上の隔たりがあるのだから、せめて週末ぐらいは 顔を合わせていたい。 恋する男としてそれは過分な望みではないはずなのだが、三井にとってはそうではないらしい。 三井はもちろん唇で愛を語るようなことは絶対にしないし、甘い顔をすることもないが、それでも 拒否されているわけではないから、仙道としては三井の隣りには常時自分の席が用意されているものと 思いこんでいたのに。 だが、電話で話すだけではやはり物足りない。 何をするでもなく、ただバスケをして、それから話をしながら三井の笑顔を見ているだけで幸せな 気分になれる、仙道はそんな得な恋をしていた。……いや、そのはずなのだが、大切な週末のデートを 拒否されるとさすがの仙道の自信も揺らいでくるのだった。 何か特別の用事でもあるのだろうか。 三井も高校最上級生なのだし、本来なら受験勉強で忙しいというのもわかる。だが、最近のこの 扱いはそれとはどうも無関係なような気がした。三井は心の中が全て、表情どころかほんのちょっと した声の響きにさえ表れるタイプなので、何か隠しているのがあからさまにわかってしまうのだ。 彼はうまくごまかしたつもりでも、仙道の耳には限りなく黒に近い灰色の言い訳としか聞こえない。 もうすぐ迎える誕生日の約束だけは取り付けているものの、この分では当日もキャンセルされる 恐れは十分にあり、仙道の心中はとても穏やかとは言えなかった。 普段楽天的な仙道彰がとことん弱気になっている。まったくままならないのは好きな人の気持ち だった。 「……じゃあ、その代わり、平日にちょっと会ったりできませんか? 会って話すだけでいいんです。 それも、だめ?」 『練習の後は疲れてっから、だめだ』 三井に素っ気なさすぎる答えを返した。 こういうとき三井がだめと言ったら何が何でもだめだった。こと三井に関しては学習能力の高い 仙道は、それ以上恋人としての特権を振りかざしてもかえって相手の機嫌を損ねるだけと、いつもの ように一歩退くことにした。 「わかりました」 『悪いな。またな』 泣けてくるぐらい物わかりのいい男だと思うが、三井の方も聞き慣れない謝罪の言葉を発してきた。 それだけで仙道は少し不安の芽を抑えることができた。 「そうですね……また」 立場の弱い仙道は鷹揚な恋人を演じて電話を切った。だが、いったんは抑えた不安も心の中に根を 張って、決して根絶されることはなかったのである。 土曜の練習後の時間は、一人で過ごさなければならないとなるとひどく手持ちぶさただった。 三井のいないことに欠落感を覚えて独りの時間が無限大に感じられ、彼と知り合う前はどうやって この時間を消化していたのか不思議になるほどだ。そんな展開も三週目を迎え、仙道は結局バスケに 関わることでしか時間をつぶせない自分を知った。 「何だよ、おまえ今日熱でもあるんじゃないか?」 練習後珍しく居残り志願したのを見て、越野が気味悪そうに言う。 「熱があったら練習なんて出ないよ……」 「そりゃまあ、そうだけど」 越野が納得していないのは明らかだった。いつも仙道の首根っこを捕まえて練習に引き戻すのが 役目だったのに、これでは手応えがなさ過ぎる、とでも言いたげだ。 「……だったら、もうちょっとやる気見せろよ」 「見えない?」 「見えねーから言ってんだよ!」 言葉と同時に軽い平手打ちが後頭部を見舞った。越野は体育館の床に腰を下ろしている仙道の そばを離れた。数歩行ってから振り返り、付け足す。 「とにかく、しゃきっとしろよな!」 「ああ」 荒っぽくはあるが、越野なりに気遣ってくれているのはよくわかった。それがわかって、仙道は もう少し甘えることにした。 「なあ、越野、練習終わったら、校門前の定食屋にでも寄って行かないか?」 「おまえのおごりならいいけど?」 「ひどいなあ、貧乏下宿生にたかるつもり?」 「別に、オレはてめえとメシなんか食いたくねえんだよ」 越野はぷんぷんと怒ったが、それでも最後は肩を落としてこう言うのだ。それを仙道は知って いたし、実際期待してもいたのだった。 「わかったよ。で、今度はどんな愚痴を聞けばいいんだ?」 夕食前に空いた小腹を満たすためと言っても、体育会系高校生の食欲は並ではない。それは小柄な 越野も例外ではなく、本番の食事前に定食を一人前平らげるのは雑作もなかった。 「どうせつきあってる女の話だろ?」 品書きを睨んで鰺フライ定食を注文した後、越野は単刀直入に切り出してきた。 「う、うん、まあだいたいそんな風なことなんだけど」 「何、今度は何が気に入らないんだよ、『弁当まで作って来るなんて、押しつけがましい』とか、 『毎日電話してきて、拘束がきつすぎる』とか、ミス陵南やF女のカワイコちゃんとつきあって おいて、いつも贅沢なんだよ、おまえの悩みってのは。いまに夜道で刺されるぞ」 堰を切ったようにきつい言葉を浴びせるが、それでも嫌みや棘のあまり感じられない口調に仙道は 苦笑いした。 ミス陵南の由利子にしてもF女の瑞穂にしても、どうしてもつきあいたいというからつきあった だけで、こちらからお願いしたつもりはない。それを言うと越野はまた「その言いぐさはないだろう」 と怒るのだが、実際三井と出会って恋に落ちるまで、そんな風に淡々と人生は過ぎていくものだと 思いこんでいた。 いまだったら彼女たちが毎日電話してきた気持ちも理解できるのだが、それも過去の話だ。 「いや、気に入らないっていうか、その、好きだって思ってるのはオレの方だけなのかな、なんて このごろ思うんだ」 「ああ?」 越野は一瞬何のことかわからないという表情を見せたが、すぐにその面に笑みを広げ、身を 乗り出してきた。 「何だよ、今度の相手はおまえに冷たいんだ。……ふーん、面白いじゃん」 「越野ォ、そんなに喜ぶことないじゃないか」 「おまえのちゃらんぽらんに泣かされてきた女の子たちの替わりだよ。天網恢々疎にして漏らさず って言うけど、本当だな。天誅ってやつだぜ」 越野の機嫌は天井知らずに上がっているようだった。だが、根本的に友だちがいの人間ではない ので、仙道もあまり気にしなかった。もっとも越野がもっとドライな性格だったら、ここまで 仙道に引きずられて苦労することもなかっただろうが。 「で?」 関心の塊のようになって越野は先を聞いてきた。 「いや、好きでつきあってるなら、いつも一緒にいたいと思うじゃないか」 「そう言いたかった女の子たちもいるよな。あ、悪い。それで?」 痛い茶々を入れつつも、越野は先を促してきた。 「……それなのに、ここのところ週末のデートを三度続けて断られてるんだ」 「そりゃ、決定的じゃないのか?」 「やっぱり……?」 おそるおそる問い返すと、越野は言った。 「おまえさ、心当たりないの? 何か気に障ることでも言ったりしたんじゃないのか?」 仙道は三週間前、最後に三井と会ったときのことを初めから思い返した。普段は切り替えが速く、 あまり過去のことにかかずらっていない性分の仙道でも、三井と過ごすわずかな時間のことは かなり綿密に覚えていた。 「特に変わったことはなかったと思うけどな」 一通り記憶をたどって、別に何のひっかかりも感じなかったことがかえって不安だった。越野の 言うとおり、気がつかないところで何か取り返しのつかないことでもやらかしたのではない だろうか? その場合、覚えていないだけに始末が悪い。 あのとき、一人暮らしの部屋に三井を招き、仙道は十月にやってくる自分の誕生日のことを 話していたはずだった。初めて好きな人と過ごす誕生日だからかなり舞い上がっていて、何かにつけ 誕生日のことに触れた。三井がそれでかなり呆れていたのは確かだと思う。で、とうとう待ち望んで いた言葉を頂戴したのだ。 「で? 何が欲しいんだよ、てめえはよ」 密かに期待していた言葉に仙道は飛びついた。 もっとも三井がその発言の後に思いついたように「でも、バッシュとかはナシだぞ。そんな金 ねえからな」と続けたのは、もちろん耳に入ってはいなかった。 「何でもいいんですか?」 「だから、何でもってわけにはいかねえけどよ。オレの小遣いで足りるぐらいなら……」 「それじゃあ、デートして下さい。本物のデート。映画観てメシ食って、その後公園でも 散歩して……」 「ああっ?」 三井は眉をひそめた。よくもそんな嫌そうな顔ができるものだと思うくらい、思い切り眉根を 寄せた、拒絶の表情だった。 「だって、オレたちデートらしいデートってしたことないじゃないですか。近頃じゃ芸能人だって そんな逃げ隠れははやらないっていうのに」 「男同士でつきあってます、なんて、能天気に言えねえだろが」 仙道としては交際宣言ぐらい朝飯前なのだが、三井のその気持ちもわからなくはない。 「ま、こうやっていつもオレの家で仲良くしているのも悪くはないんですけどね」 調子に乗って目の前にある三井の手を取り、そのなめらかな手指に唇を近づける。いい加減仙道の ペースにも慣れていた三井は急いで手を引っ込めると、別の手で仙道の頭を小突いた。 「調子こいてんじゃねーよ」 「でも、メシぐらい……」 「……食いてえのかよ、そんなに外で」 「もう十月ならオープンエアで食事っていうのもいいですよね」 さすがに東京の青山とか代官山あたりに行けば神奈川の知り合いの目もないだろうという思いも ある。 三井はなにやら深刻そうに考えていたが、やがて思い切りよく顔を上げた。 「よし、そんなに言うなら、つきあってやる。ただし、場所はオレの好きなとこでいいな?」 「え……いいんですか?」 「何だよ、本気じゃなかったのかよ」 もう少し難航するかと思っていたのに案外すんなり要求が通り、拍子抜けしたのだが、好機は 到来したときに遠慮なくつかまなければならないのだと仙道は知った。 「いえ、三井さんがいいならもちろんどこでも!」 仙道が慌てて答えると、三井は笑顔で言ったのだった。 「よし、それじゃ、楽しみにしておけよ」 そんな風にして成立した約束だった。だが、それから後の三井の変化の理由がわからない。 どうしてあれから一度も会ってくれないのだろう。 注文した定食がやってきて食べることに専念し始めた越野を横目に仙道は思った。 「おまえさ、きっと誕生日のこと押しつけたから、彼女気を悪くしたんじゃねえの?」 不意に食べる手を止めて越野が言った。 「何か今度の彼女っておまえがいままでつきあってたタイプとずいぶん違うみたいだからな。 いままでの娘なら、おまえが誕生日、誕生日って騒ぐ前にて聞き出しておさえてるだろうし」 越野の分析はかなり正確かもしれなかった。何しろ仙道と一緒にいる機会が多く、色々な場面に 遭遇しているから、鍛えられ方も並ではない。が、分析がいかに正しかろうと、この場合現状打破 にはつながらないところがつらい。 「どっちにしろ、ほとんど振られてるみたいなもんじゃないか? かなりきっぱりしてる娘みたい だから、煮え切らないのがちょっとわからないんだけどな。ま、たまには振られるのもいい経験だろ。 あんまり力落とすなよ」 言葉に似合わず満面の笑みで続けた結論も、仙道の予感通り身も蓋もないものだった。 定食をおごって相談した挙げ句とどめを刺されてしまったようなところのある仙道は、ますます 落ち込んで店を後にし、越野とは駅で別れた。 気がつけば仙道は三井の家の最寄り駅で電車を降りていた。一度だけしか行ったことはないが、 目的地までの道はしっかりと覚えていた。 何をしようというのではない。当の三井が家にいない可能性が高いということも頭ではわかって いるのだが、とりあえずいちばん三井に近い場所に行きたかったのかもしれない。 夕暮れの到来はもうずいぶん早くなり、三井の家の近くまで来たときにはあたりは薄暗くなって いた。だが、その声を間違いなく聞き分けて、仙道は三井が自分とは別の方向から近づいてきて いるのに気づいた。 しかし無防備に走り寄らなかったのは連れがいるのにも気づいたからだった。 自転車を引きずる三井より長身の男。それが彼を差し置いて全日本ジュニアに選ばれたスーパー ルーキーだということは三井の呼びかけでわかった。仙道はとっさに脇道に身を隠した。 問題の二人は、後輩の方の無口のせいで会話が弾んでいるようにはとても聞こえなかったが、 あの生意気な流川が素直に応じているようで、三井に対する流川の好意が感じられた。 「さ、ここだ。遠慮すんなよ」 三井の声がして門扉を開く音がした。二人が中に入って扉を開けると優しい母親が迎えに出る声が した。扉が閉まり、その声は最後まで仙道の耳に届くことはなかった。 突きつけられた事実に仙道は全身から力が抜けていく思いがした。 三井は今日、何か用事があったのではないのか? だから仙道と約束ができなかったはずなのに、 いままで練習をしていて、それから流川と家に戻ってきた。それはどういうことなのだろうか? 『そりゃ、決定的じゃないのか?』 越野の言葉が胸に重くのしかかってくる。もしや、とは思っても、これという事実を目の当たりに するまで希望はどこかにあるものだ。だから半分は楽観的に構えていられたのに。 寂しい土曜日が絶望の土曜日に変わって、珍しくうなだれて彼は家路をたどった。 しかし仙道はそれでも三井に振られたことが信じられなかった。三井からの宣言がない限り、 それは灰色ではあっても黒ではない。一日おきにしていた電話を自粛しはしたが、それは彼とのことを 諦めたからではなかった。 そしてもう一方の関係者に偶然を装って近づいた。 流川は一対一に誘うとすぐに乗ってきた。反応を起こすスイッチのありかは簡単に読める。 まるでバスケマシンのようだ。もっとも目の光は生気あふれる人間のものだが。 その目に三井は惹かれたのだろうか。 ふとそんな風に思い、恋人を疑ってしまった自分がまたいやになる。三井とつきあい始めてから、 自分が自分という人間をかなり思い違いしていたことに気づかされっぱなしだ。 鷹揚で理解があって、束縛するのもされるのも嫌い。サヨナラされたらもうそれで最後、 絶対振り向いたりなんかしない。 だが、三井に別れを切り出されたら冷静でいられるかどうかわからなかった。 それでもきっと事実は見つめなければならないのだ。 そして事実は目の前にある。 早朝、一対一を終えた後、公園の自販機でポカリを買い、流川とベンチに並んで座って飲みながら、 どう切り出そうか迷っていたが、相手がバスケ以外のことには無頓着であることを祈ってストレートに 言った。 「そういえば、流川、この前三井さんの家に行っただろ」 「……」 どうして知っていると言いたいのか。無口無表情なりに気持ちは伝わってくる。 「偶然見かけたんだ。何しに行ったの?」 「……そういえばセンパイの部屋のカレンダーにてめえの名前が書いてあった」 機械仕掛けの人形は突然人間に戻った。仙道はもう少しで飲んでいたポカリでむせそうになった。 「知り合い?」 仙道の迎撃態勢が整わないうちに相変わらずの無表情で流川は聞いてきた。今度は気持ちが 読めない。 こいつめ、と仙道は気持ちを引き締めなおした。これはボールではなく三井を巡っての一対一 だった。 「まあな」 詳しくは答えない。どうせ三井だって正直に白状したら困るだろう。きっと約束のチェックでも しておいたのだろうから、早いところそこから話題を逸らした方がいいはずだ。 「で? オレの質問には答えてくれないの?」 仙道は笑顔を作って答えた。流川はまるで先の仙道の問いに答える価値があるかどうか判断しよう とでもしているかのようにじっと目を向けてくると、やがて言った。 「NBAのビデオ観に」 「それだけ?」 流川は頷き、それから思いついたように付け足した。 「それからメシ。ビデオ観てたら腹減っただろうって」 「そうか、良かったな」 三井の母親の料理は天下一品だ。それを三井と一緒に食べられるのは至福と呼んでもいい。 仙道の言葉は完全に負け惜しみだったのだが、流川はかぶりを振った。 「別に」 「何だよ、三井さんのおふくろさんの料理はすごいだろ?」 「スゴイ……? スゴイっていうならそうかも」 そこで首を傾げ、しばらく考え込む。 「何かごった煮みたいのだったケド」 「ああ、そう」 やはり流川に普通の人間の味覚を求めてはいけないのだ、などと独り決めして仙道はその話を 切り上げた。 ともあれ、あの日、三井は仙道の誘いを断って、流川とずっといたのは確かだった。これを やんごとない用事と呼べるのかどうか。冷静に判断すればすぐにわかるのだが、認めたくない 気持ちもある。残念ながらことここに到っても、やはり三井の意思表示待ちであることに変わりは なかった。 ポカリを飲み終え、仙道は立ち上がった。ボールをついて流川を誘う。 「勝負しようぜ」 流川は頷いて立ち上がった。 「負けないからな」 もちろんバスケだけのことではなかった。 いくら劣勢でも試合終了まで勝負を投げないのが仙道の身上だった。 恋敵になるかもしれない男に一人勝手に宣戦布告はしたものの、待ちの状態はさらに続き、 仙道の誕生日は寂しい日になりそうな雲行きだった。 金曜日、居残り練習を終え疲れ切ってアパートに帰り着くと、留守番電話の着信を示すランプが 点滅していた。 荷物を玄関先に下ろし、再生をする。すると珍しく三井からの電話だった。 『おい! 仙道、何やってやがる! てめえの誕生日もうすぐだろうが。……そりゃずっと約束を 断ってたのはこっちも悪いけど、都合があったんだよ! とにかく! 今日連絡してこなかったら、 誕生日の約束はなしにすっぞ! わかったな?』 弾かれたように仙道は電話の受話器を手に取った。もう何度もかけていて暗記してしまった 電話番号を押していく。電話線の向こうで呼び出し音が鳴っているのを聞きながら、気持ちが 高ぶっていくのを感じた。 三井は部屋にいなかったのだろう、だいぶ鳴らしてからやっと電話がつながった。電話線の 向こうの声は息が弾んでいるようだった。 「仙道です。三井さん?」 『仙道! おまえ、ずっとどうしてたんだよ。だいたいオレ様に電話させるなんざ、 百年はええんだぜ! 色々オレだって都合があるんだし……』 「流川とNBAのビデオ観ることが?」 つい口に出してしまった。一瞬「しまった」と思ったが、すぐに気を取り直した。三井が別れを 言い出せないなら、水を向けてやるぐらいの度量は必要かもしれない。 『おまえ……!』 「……オレ、自分でもどうしてこんなに懐の狭い男になっちゃったのかわかりませんけど、 あの日三井さんの家の前まで行って、三井さんが流川と一緒に帰ってくるの見たんです」 『仙道』 「オレは三井さんが大好きだから、ずっとつきあっていたい。でも、三井さんが流川の方がいいって いうなら……」 一挙に別れへと流れが傾いた、と思ったとたん三井の怒鳴り声に我に返った。 『バカヤロウ! オレを本当のホモにするつもりか? おまえの後は流川だって? バカに すんじゃねえや、いいか、とにかくおまえの誕生日、うちに来い! そんときに何でも説明して やるから!』 そこで三井はため息をついた。 『……まあ、今日はもう何も言うこたあねえよ』 仙道に何か返答する暇も与えず三井は電話を切った。 どういうことになるのか仙道はわからないまま、受話器を置いた。 何にしても結論はすぐそこに迫ってきている。 彼もやっと十七歳になるところで、誕生日にはそれなりに楽しいことがある。だが、十七回目に して、これほど来るのが不安な誕生日も初めてだった。 休日のその日、時間を指定されなかったので、仙道は昼過ぎから三井の家の周りをうろうろして いた。二時ごろ三度ばかり門の前を素通りしたが、大きな家の中の様子はまったく伝わって 来なかったので、思い切って呼び鈴を押してみた。 しばらくして応答してきた声は三井の声ではなく、年輩の男のものだった。 「あの、オレ、仙道と言いますが」 「ああ、仙道くん。よくきたね。いま門を開けるから」 すぐに開錠する音がして、声は続けた。 「さあ、どうぞ」 声に促されて門扉を開け、玄関に向かう。前に来たときも思ったのだが、門から玄関までの余裕と いい、その家はまさに三井邸と呼ぶにふさわしい建物だった。 彼が玄関のところまでやってくると、頃合いを計ったように扉が開いた。中から顔を出したのは、 四十代半ばといった感じの渋い二枚目で、ひとつひとつをとるとそれほど三井と似ている造作では ないのだが、どこかに彼の面影があって、一目で父親なのだと知れた。 「やあ、初めまして」 「あ、初めてお目にかかります。仙道彰です。三井さんにはいつもお世話になっています」 まるで彼女の父親に結婚の承諾をもらうため訪れた男のような気分になって仙道は挨拶をした。 「お世話されてるのはうちの寿の方なんじゃないか?」 「いや、そんなことはないです」 「そうかね? まあ、玄関先で立ち話もなんだから、とにかく入りなさい。寿はいま手が放せない ので、わたしの相手で我慢してもらえると助かるが」 そんなやりとりから応接間に通され、仙道は三井の父親とソファを挟んで座った。 すぐに廊下をばたばたと走る音がしてドアが開き、三井が顔を出す。 「悪いな、仙道。あっ、親父、もうどっか消えろよ!」 それだけ言うと返事も聞かぬまま慌ただしく去っていった。だが、電話ではちょっと怒って いたような三井もいまは普段と変わりがなく幾分仙道をほっとさせた。 「いや、落ち着きのない息子で困ったものだよ」 そうは言いながらずいぶん可愛いと思っているのだろうとわかる。閉じたドアを見つめる目が 優しくて、仙道まで温かい気分になった。 息子に「消えろ」と言われた父親は、その言葉に従おうとする気配もなく仙道相手に色々話題を 振ってきた。楽しい話に仙道もいつの間にか緊張感がほぐれ、いつも通りの自分が出るように なっていた。 「きみ、本当に友だちがいないのかい?」 ふと会話が途切れた拍子に三井の父は聞いてきた。 「は?」 「いや、寿が言ったんだよ、『友だちの誕生日がもうすぐなんだけど、親元から離れて一人暮らし している上友だちの少ないやつだから、うちでやってあげられないか』ってね」 「友だちが少ない……ですか」 仙道は笑ってごまかした。厳密に言えば三井とは友だち関係とは言えないが、それをいきなり 父親に言っては家から叩き出されるのがオチだ。 仙道の心の中も知らず、三井の父親は続けた。 「ところがちょうど家内の旅行とかさなってしまったものだから、そうもいかなくなってしまって」 「はあ」 「そこでわたしの出番だ」 聞けば三井の父親の趣味のひとつが料理で、結局彼が三井を仕込んだというのである。 それまで右の耳から左の耳に通過していくだけに近かった会話がにわかに意味を持つ。 三井が手料理でもてなしてくれるなら、それ以上の幸せはない。たとえ出てくるものがイモムシの 躍り食いだろうと最後の一片まで食べるだろう。 そう思えばいまほったらかしにされることもあまり気にならなかった。 それ以後仙道の幸せな頭の中では、三井の父の話をよそにエプロン姿の三井がくるくるとまわって いたのだった。 三井の父親は少しして息子の希望通り車でどこかに出かけて行った。仙道は応接間に一人残された が、それも気にならなかった。 日がとっぷりと落ちたころ、ダイニングから三井の声がかかった。 招かれるままにテーブルに着くと、なにやら見かけではかなり壮絶なものに出迎えられた。 三井の手料理だとわかっていなければちょっと退いてしまったかもしれない。 そしてそこへ来て初めて仙道は流川の意見が正しかったことを知った。まさしくそれはごった煮と いうものだった。 「ずいぶん待たせちまったけど、やっと食えるぜ」 仙道自ら手みやげに持ってきたケーキの美しさが異次元の物体のように際立っている。 ずいぶん晴れやかな顔とは対照的にぼろぼろの指先が痛々しく、仙道はどんな顔をしたら良いのか わからなくなった。 「おまえ、オープンエアがいいとか言ってたから、庭にでも場所移すか? ……って言っても もう暗いだけだからなあ」 腕を組んで考え込む三井を前に、仙道は溢れようとする気持ちを抑えきれず、彼をきつく 抱きしめた。 「な、何だよ、急に。腹減ってんだよ、さっさとメシにしようぜ」 「三井さん、ずいぶん練習してくれたんですね、料理」 心の中をすべて探って見つけ出した、だが月並みな言葉で慌てる体を包み込む。 「こんなすごいプレゼントもらったことありません。オレ、嬉しいです」 耳元に直接ささやきかけるようにすると三井は身じろいだ。もともとそんな風なスキンシップに 慣れていない彼だから、機嫌を損ねる前に惜しいと思いつつ仙道は腕を解いた。心なしか頬が 紅潮して見える。もしかして照れているのだろうか。 「腹、ぺこぺこなんです。早く食わして下さい」 「ちっ、てめえが変な真似するから遅くなってんだよ。ま、今日は誕生日だから許してやる。 早く座れよ」 重厚な感じのするダイニングテーブルに着くと、三井がその正面に座り、まず用意したワインで 乾杯をした。口当たりの良い軽いワインだった。 「今日は特別だから、これぐらい許してもらおうぜ」 今度は三井の唇から信じられない言葉が転がり出た。 特別? 今日は特別な日? いま聞いたことが空耳でないのなら、それこそ仙道にとって特別な日だった。 そして促されるまま、三井が自分のために作ってくれた最初の料理を口に運んだ。それは見た目、 肉と野菜の煮込みといった感じのものだったが、不揃いで煮崩れた野菜といい、盛りつけの大雑把さと いい、どろどろとした焦げ色のソースといい、とてもおいしそうには見えなかった。だが、 味は外見を裏切っていた。 「……うまい」 半ば呆然とつぶやくと、少し不安そうに彼の様子を窺っていた三井が破顔した。 「うまいっすよ、三井さん、これ」 「だろ、だろ? オレ様の作ったものなんだから、うまいに決まってっだろうが!」 先刻までの少し不安そうな表情を吹き飛ばし、三井はいきなり大きな態度になった。そして自分も 安心したようにスプーンを手に取り、ごった煮を食べ始めた。 二人とも待機期間が長かったこともあり、しばらくは無言で料理をほおばった。 そして食べているうちに不意に思いついたことがあった。料理を食べての流川の感想が正しければ、 三井は確実に進歩したことになる。ということは……。 「三井さん、ひょっとしてこの三週間会ってくれなかったのって、料理の修行のため?」 「……まあな」 三井は言葉を濁したが、表情が仙道の考えの正しいことを語っていた。 「ね、流川を呼んで料理を食べさせたのもこの日のため?」 「悪いかよ。言っとくけど、流川だけじゃねえぞ、桜木や宮城にも食わせたんだからな!」 いたずらの現場を見つかった子どもが居直るような感じで三井は答える。仙道は妙な嫉妬心を 抱いていたことを恥じた。 「ごめんなさい、オレ、自分のことしか考えてなくて。三井さんがオレのためにそんなに努力して くれてるなんて思ってもみなかった」 感動と後悔と、そのほかのさまざまな想いが交錯して仙道の胸をよぎる。三井の作った料理は もうすっかり腹の中に収まって残ってはいなかったが、形のあるものよりずっと暖かい気持ちを もらったような気がした。 「だって親父が言ったんだ」 仙道が黙って顔を見つめるのを誤解して三井はやにわに弁解を始めた。 「料理が趣味ってのも悪くないぞ、ってな。だって、好きな人に食べてもらって、喜んでもらえる じゃないか、って」 「好きな人?」 問い返すと一瞬後に三井は顔を真っ赤にした。 それは仙道にとって、三井から聞く初めての言葉の証だった。 それは、何度も何度も愛情を示す言葉をを繰り返し、希望と推測で恋人関係を続けてきた仙道に 初めて贈られた、三井からの言葉だった。 「いま、好きな人、って言いました?」 仙道の言葉に三井はますます顔を赤くして混乱したように声を張り上げた。 「だーっ、うるせえな、人の言葉尻つかまえて重大な意味があるみたいに言うんじゃねえよ! オレは流川だって桜木だって好きだぜ。安西先生なんか、大、大、大好きなんだからな! 別にてめえが特別な訳じゃねえや」 「でも、好きって言ってくれた」 たたみかけると三井はだんまりを決め込んだ。 そっぽを向いて唇を尖らせても、紅潮した顔と、何より愛情のこもった手料理の痕跡が雄弁に 物語っている。 仙道は静かに席を立ち、三井の方に歩いていき、椅子にかけたままの三井の上体をふんわりと 抱きしめた。 大好きだった。 こんな気持ちは味わったことがないから、きっと本当の初恋なのかもしれないと思った。 三井の髪にしみついた料理の匂いも媚薬のように仙道の心を魅了する。 「どうもありがとう」 三井を抱く腕に力を込めると、答えるように三井が頭を預けてきた。 三井の初めての料理は、仙道の心も完全に料理してしまったようだった。 その味は? きっと恋という調味料がたっぷりかかっていて本来の味をより一層引き立てているに 違いなかった。
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