独特の音を立ててボールが体育館の床を叩く。
 誰もいない体育館。思い出はほとんど一年分しか残っていない。
 三月。
 引退試合が終わり、三井の胸の中でひとつの時代が過去になる。


 その試合が陵南から申し込まれたのはまだ寒いころだった。
 両校の三年生の高校バスケットの思い出にと企画され、とんとん拍子に話が 進んだ。そして卒業を間近に控えた日曜日、湘北の体育館に陵南勢が乗り込んで きた。
 三年生主体のチーム構成のため、ベストメンバーの試合とは言えなかったが、 それでもボールが動けば気持ちは熱くなる。たった四十分に完全燃焼を求めて 三井はプレーした。
 楽しい時間、充実した時間ほど短く感じるのはなぜだろう。夢の中のように 時は流れ、気がつくとタイムアップになっていた。
 勝ち負けはどうでも良かった。負けず嫌いな三井にしては妙なほど恬淡として いた。
 試合後整列すると、目の前に仙道がいた。笑って手をさしのべてきたから その手を握った。考えてみれば、握手をしたことなんかなかったような気が した。


 「三井サン、着替えないんスか?」
 後ろで声がした。振り返るとそう言う宮城もユニフォーム姿のままだ。
「おう。いま戻ろうと思ったんだけどよ」
「着納めっスね、十四番のユニフォーム」
「ああ……。結構愛着あるもんだよな……もう着られないと思うと中学んときの 四番より寂しいぜ」
 三井は笑った。宮城も笑い返した。
「一対一、やりますか」
「よっしゃ」
 手にしていたボールでドリブルを始める。
「オレから行くぜ」
 低い位置でボールをコントロールし、隙を窺う。スティールされないよう体を 盾にし、ぎりぎりの線を狙った。二年間のブランクで微調整が必要だった感覚も、 体力とともに戻ってきたようだ。右へ行くと見せかけ、左へ強く踏み出す。 風のようにきれいに抜けて、ゴール下に侵入した。そしてボールを宙に放つ……。
「ナイッシュウ!」
 リングの真ん中をボールが通り抜けたとき、体育館の入口から声がかかった。
 驚いて目を振ると、知らないうちに湘北のメンバーが勢揃いしていた。
「一試合フルに出場して、まだ足りないのか、三井」
 いかつい顔を少し和ませて赤木が言う。
「ああ、体は疲れてるんだけど、何かやり残したことがあるような気がすんだ」
 呟くように口に出してから、三井は笑ってごまかした。
「まあ、気のせい、気のせい。さあ、そろそろ着替えっかな」
 出口の方へ一歩踏み出したところを、宮城に後ろから肩を掴まれた。
「三井サン、勝ち逃げはずるいっスよ。もう一本。今度はオレのボールから」
 どこかで聞いたような科白を言って宮城はボールを手の中で軽く弄んだ。
「よーし、負けねえぜ」
 再び一対一を始めようとしたところに、またも赤木の声が飛んだ。
「おい、おまえら、二人だけで楽しむなよ」
「あ?」
「何だよ、ミッチー、どうしてこの天才が戻ってきたと思ってんだ?」
 赤頭の十番が偉そうに歩み寄る。その脇で流川が肩をすくめてため息をついた のには、自称「天才」は気づいていないようだったが、何はともあれ、 そう言われて改めて見ると、全員ユニフォーム姿だった。
「まさか、みんなでやんのか?」
「ああ、六対六でやろうぜ。気の済むまで」
 久々のプレーでバテバテの木暮が大きいことを言った。しかし彼はもう 大学ではバスケットを、少なくとも体育会ではやらないことに決めているし、 コートを走りまわるのはこれが最後になるかもしれない。三井とはまた別の 感懐があるだろう。
「よーし、始めるわよ。偶数対奇数で分かれてね。審判はわたし」
 彩子がボールを投げ上げて最後の対戦が開始される。
 結局全部員入り乱れての試合はそう長くは続かなかった。陵南戦の疲れが 残っていたし、同じユニフォームでは敵味方の判断が一瞬ではつかない。 パスミスがやたら続出して、最後は自分たちでも何が何だかわからなくなり、 試合は体裁をなさず、なしくずしに終わった。
 だが三井は忘れない。
 最後に放ったシュートの軌跡。
 気持ちいいくらい高く弧を描いて、彼の意志のままに飛んでいった。
 結果は必ず後についてくる。自分の心に背を向けなければ。
 ボールがリングのまん中を通り抜けたのを、バスケットの楽しさと爽快な 気分で心を満たして見届けた。


 その晩、三井は初めて仙道に電話をかけた。
 寮住まいの彼を赤木の名前で呼び出す。電話をかけたのが三井だと知ると 最初は面食らっていたようだったが、すぐに秘密の会話を楽しむ図太さを仙道は 持ち合わせていた。
『今日はどうもお疲れさまでした』
「お互いさまだろ」
『楽しかったですよ』
「嫌みなヤローだな。何度おめえに止められたと思ってんだ」
 電話の向こうで、くすっと小さな笑い声がした。三井は腹を立てた。
『…ひょっとして、手加減されたかった?』
「なめんな、バカヤロウ」
『でしょ? オレも決められたし』
「たった一回だけだ」
『インハイ予選のころの三井さんなら全部止められたと思いますけどね、 正直なところ』
 褒めているのかけなしているのかわからないことを言い、それから仙道は声を 低めた。
『それより、電話もらえるの、初めてじゃないかな。どうしたんです、 デートのお誘い?』
 目の前にいたら、きっと殴っていた。
「違うって」
『残念。じゃあ、何?』
 仙道に促されて三井は口ごもる。電話だと少しは素直になれそうな気がした のに、表情が見えない分、言葉が一人歩きしそうで怖かった。それでも ありったけの勇気を振り絞って電話を入れたのだ、言わないわけには いかなかった。
「…仙道、今日の試合のこと言い出したの、おまえなんだってな」
『えっ、ああ、まあ…』
 心なしか声が曇ったようだ。
『…余計なお世話でしたか?』
「まーな。高校最後の試合が負け試合だなんて、とんだミソがついたもんだぜ」
 公式戦が負け試合で終わったことを棚に上げて三井は言った。ついでに言えば、 頂点のチーム以外、みんな最後の試合は負け試合である。
『すいません』
「…悪いことしたわけじゃねえのに、無意味に謝んなよ」
 三井は空唾を呑んだ。いま言わなければならないことは別にあった。 現在と同じ重みで現在と同じ甘酸っぱさをもってその言葉を口に出せるときは、 これからもそうはないだろうから。
 夕方、湘北の体育館でみんなに言った言葉を、三井は仙道の耳元に直接囁き かけるように告げた。


「…ありがとうな」


 三井寿、十八歳。高校バスケット最後の日。



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