陵南高校バスケットボール部二年越野宏明には、朝ひとつの仕事が課せられている。 朝練に向かう途中寮に寄って、バスケ部の新キャプテンを文字通りたたき起こす 任務だ。春、練習試合に遅刻してきた前科持ちのため、寮が通学路途中にある越野が 貧乏くじを引くことになった。そして夏休みに入っても、時間帯が少々遅くなった だけで任務は続行中だった。
 というわけで今朝も越野は仙道の部屋をノックし、いつものように返事を待たずに 入室した。
 仙道はパジャマ代わりのTシャツと短パンでベッドの上に大の字になっていた。 気持ちよさそうに眠りを貪っている冷凍マグロのような新キャプテンをどつき 蹴りとばしながら、脇のテーブルに目をやる。そこには、前夜遅くまで読んでいました、 というように雑誌が開いたままのっていた。ちらと見ると、買い損なっていた 「週刊バスケットボール」だった。
「おっ、仙道、めずらしいじゃん」
 普段オレや植草が買うのに便乗してばかりなのに、と思いながら窓の外に目をやる。
 嵐の前触れかな。でもそろそろ雨が降ってもいいころだよな。
 独りで頷いて、その雑誌を手に取り、丸めた。大きな図体をシーツの上でもぞもぞと 動かし始めた仙道の頭をそれでたたき、越野はドア口に向かい、ついでに一言断った。
「先行ってるぞ。週バス、借りてくからな」


 仙道はあまり寝起きのいい方ではない。といって、どこかの県立高校一年生のように 寝起きが凶暴というわけではなく、ただしばらく思考力が戻らないというだけの話だ。
「えー、バスがどうしたってー……?」
 重い瞼を上げ、ドアの方を見たが、彼専用の目覚まし時計はもう出ていった後だった。
 起きなきゃ。
 ようやく血の巡り始めた頭を起こす。床に足を下ろし、ベッドの端に腰かけたが、 いつもより眠気が強いような気がして、ぼんやりと理由を探した。
 そうか、週バス読んでて夜遅くなったんだ……三井さんに借りた週バス……。
 そこまで考えてその雑誌があるはずのテーブルに目をやって仙道は首を傾げた。 そして首と肩の作る角度は、仙道の頭がクリアになっていくのに比例して 鋭くなっていく。
 あれ?
 背中を冷や汗がつうっと伝った。目は完全に覚めていた。


「なんか仙道さん、今日は調子出てはらしませんね」
 彦一は越野に話しかけた。
「調子出てないなんて可愛い代物じゃないぜ。監督も切れそうだ」
 シュートを打てば外す、ディフェンスでは抜かれる、オフェンスでは スティールされる、トラベリングやホールディングなど朝飯前といった仙道の 絶不調ぶりに、越野は田岡の様子を窺った。案の定額の血管が膨張し始めている。
「初めて見ますわ、あんな仙道さん」
「オレもだ」
 思い切った凡プレイの数々に、仙道もやはり人間だったのだ、と二人は妙に 感心すると同時に、天変地異の前触れか、と内心びくついていた。


 結局田岡監督は三度爆発したが、仙道には暖簾に腕押しだったので最後は諦めた ように練習を進めていった。しかしエースの脱線がチームに与えた影響は大きく、 浮き足だった空気は監督も含めた全員に伝染し、五分ハーフの試合形式の練習で ひとつのパスミスから監督をも巻き込む大クラッシュに発展したときに その日の練習は終わりになった。
 もしかしたら朝起こしたときに自分の打ち所蹴り所が悪かったのかと急に不安に なった越野は、ふらふらと体育館を後にする仙道を追った。
「おい、仙道、体の調子でも悪いのか?」
「いや、別に」
「ならいいんだけど。おまえ、今日すげー乱調だっただろ、どうしたんだ?」
「……そうだったかなあ」
 気づいていないのか、と思い、越野の顔が青ざめた。怖くてそれ以上何も 聞けなかった。
「疲れてんだよ、おまえ。昨日帰ったばっかでさ。今日はゆっくり休めよ」
 肩をたたきながら言うと仙道が不意に向き直ってきた。
「越野、そういえば、今朝オレの部屋で週バス見なかったか?」
「え……週バス……?」
 青ざめた顔が引きつる。『借りただろ、ちゃんと断って』の一言がなぜかのどに ひっかかって出てこない。バスケを離れた仙道が初めて見せる真剣な表情に いやな予感がした。
「さっ、さあ、気がつかなかったけどっ?」
「そーだよな。オレも最後どこに置いたのかいまひとつ覚えてなくて……」
 言うなり仙道はよたよたと寮の方に向かう。着替えをするのも忘れて 徒歩十五分の道のりを戻ろうとする背をしばらく追い続ける越野の耳に仙道の 呟きが届いた。
「あれがないと困るんだよなあ……」
 そう言った後、校門を転がすレールのところでけつまずいた。立ち上がりざま、 またも『どこにやったのかな』と繰り返すのを耳にして、越野の足は凍りついた。
 これか、仙道の乱調の原因は?
 そうとしか考えようがないと悟るや、越野は心の中で言い訳の山を築き、独力で 墓穴を掘ってその中におさまった。そしてその穴の中から密かに無駄な抵抗を試みた。
 たまに週バス買ったからって、ちょっと見あたらなくなったくらいでそんなに よれよれになることないじゃないかっ!
「仙道のケチッ!」


 当日夕食後、仙道の部屋の机の上で、問題の雑誌は何ごともなかったかのように 見つかったという。


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