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鏡なんて、洗面台の物入れに申し訳程度にあるだけの部屋だ。 普段は改まった服装にあまり縁がないし、だいたいいつも時間に追われていて、 格別のしゃれっ気を発揮する暇もないから、それで十分なのかもしれない。 三井がその鏡の前で不器用にネクタイを締めはじめたのを横目に見て、仙道は笑みを漏らした。 三井がネクタイを締めるようなことは、年に数回ぐらいしかない。束縛を嫌う性格はそういった身につけるものにまで傾向が及んでいて、進んで首を締め付ける装身具を利用することはなかった。 「くそ」 案の定、長さがアンバランスでやり直しになる。思い通りの展開に、仙道は気づかれないような小さな笑みをもう一度浮かべると、悪戦苦闘する三井に近づき、タイミングを見計らってワイシャツの襟に添っている白いネクタイを引き抜くように手にとった。 三井が少し非難するような目を見せた。 「んだよ」 「お手伝いさせて下さい」 「……てめえはてめえの面倒を見てろ」 やはり思った通りの反応だが、それでも仙道は諦めない。三井の行動パターンはもうほとんど心得ているからだ。 抜き取ったネクタイを返さずに、彼はほほえんだ。 「ねえ、前からやりましょうか、新婚の新妻みたいに。それとも」 後ろにまわって、自分より少し小柄な体を、毀れ物でも扱うように優しく抱いた。 「後ろから、三井さんになったつもりでネクタイを締めるのもいいかも」 三井の首筋に殺気に似たものが走るのを察知して、仙道は素早く体を離す。だが、手は飛んでこなかった。 「ばーか。ふざけてねーで、やるんならさっさとやれよ。時間がねーんだからよ」 渋々と言った体で仙道の手を容認する。仙道は上げたワイシャツの襟のところにネクタイを滑らせると、左右のバランスを見て手早く結び始めた。三井はもう完全に仙道にすべてをゆだねている。 「それにしても、あいつが仲間内で結婚一番乗りだなんて、世の中何か違っている気がするな」 不意に思いついたように三井は言った。 そう、この日は、三井の同級生であり、仙道の先輩でもある男の結婚式なのだった。 「オレとは大学入って以来の腐れ縁だし、おまえも似たようなもんだけど……あいつがだぜ?」 何が気に入らないのか、しきりに三井はぼやく。 確かに仙道もよく知っている一年先輩は女性関係の噂が立ったためしがなかった。女好きのする風貌ではなかったし、何より性格に少しばかり癖があるのだった。 もっともそれもいつもつるんでいる仲間内の了解事項だったのかもしれないが。 まあ最初に結婚するのが常識人の牧であっても四角四面な赤木であっても、三井は同じような反応をするに違いない。 「それも、よりによって、相手がなあ……」 花嫁も三井と仲がいい。誰にも漏らしたことはないが、たぶん彼女は三井を好きだったのではないだろうか。そういうことを本人から直接聞いたことはなかったが、あまり間違った推測ではないと仙道は思っている。 三井と彼女が並べば、それはまた人の羨む似合いのカップルになったに違いない。 が、そう発展しなかったことに、どんな感懐を抱いても無駄だ。今三井のそばに自分がいることを許されているという現実があるのだから、それがすべてだ。 ほんの一瞬だけ、考えにとらわれて手が止まったが、三井にそれを不審に思わせる暇も与えず、仙道はネクタイを結び終えた。 「男っぷりが上がりますね」 三井に上着を着せると、鏡に映るその上半身を見つめて仙道は言った。 容姿に恵まれた三井だから何を着てもだいたい似合うのだが、かしこまった服装をするとやはり地の良さが際だってくる。 「……今日はカワイイ女の子がたくさん来るから、その上がった男っぷりでおまえももてもてだな、きっと」 鏡の中から、きつい目がまっすぐに見上げてくる。 「いやだなあ……」 ……三井さんのことを言ったのに。 苦笑混じりに仙道は言い、言わずもがなのことは飲み込んで、別の方向へつなげた。 「俺は三井さんにだけもてもてでいたいんですからね」 三井は少し怒ったように眉を上げたが、何も言わずに向き直った。仙道は少しだけ期待感を持ったが、そのまま三井は彼の脇をすり抜けると玄関に向かった。 「準備はいいか?」 そういえば出かけなければいけない時間が迫ってきている。車で式場まで1時間はかかると思った方がいい。 「大丈夫です」 男二人だから、ほとんど手ぶらみたいなものだ。ご祝儀の入った熨斗袋を内懐につっこむと、仙道はキーホルダーがズボンのポケットにあるのを確認した。 三井はアパートのドアを開けると先に外に出た。駐車場までの道を、礼装の男二人が前後になって歩いていく。いつもと同じように、より大柄な仙道の方が心持ち後ろを歩いている。わずか二、三分の道のりだが、三井と二人きりの空間へと続く時間を、仙道は毎回結構楽しんでいた。 「やつの話きいたか? 今日の暦の話」 いつもは無言で、どちらかと言えば憮然とした表情で歩いていく三井が不意に立ち止まると口を開いた。 「え?」 「今日は式をするのに向いてない日なんだとよ」 実際三井ほど今日の主人公と距離が近くない仙道には初耳だった。 「なんだ、六曜っての? 大安とかあるじゃん。あれでさ」 「ああ、そういえば、今日は大安でも友引でもありませんよね。……仏滅でしたっけ?」 姉が結婚したときにずいぶんと話題に出たことなので仙道は相づちを打った。 「それはちげーんだけどよ。なんか不成就日とかいうのがあるらしくて、その日は婚礼に向かないんだと。今日がその不成就日ってのらしい」 一生に一度の晴れの日なのだから、そんな日にしなくとも、と年寄り連中からはかなり非難されたらしいが、わざわざそんな日をこだわりもなく式の日に選んだのも、また変人を自他ともに認める彼らしいエピソードだと仙道は思った。新郎新婦をよく知る人間の目から見れば、そんなことも彼らは涼しい顔で乗り越えて、結局は揺るぎない結婚生活を営んでいくだろう。 「そんなの」 仙道は苦笑した。 「どんなに形が整っていてもうまくいかないときはいかないし、障害ありまくりでも気持ちがあれば乗り越えられるでしょ? 暦くらい」 仙道は大股で歩を速めると三井の前に出てほほえんだ。 「三井さんへの高いハードルを越えたオレからすれば、敷居の段差にもならないっすよ」 そこで彼は、この日言おうと思っていてずっと言う機会を逃していたことを言った。より大きな行事に埋もれそうになっていた、よき日を祝うために。 「お誕生日おめでとう、三井さん」 三井が目をしばたたくと、少し照れたような笑みを見せた。それもつかの間のことで、反動で仏頂面になる。仙道は笑った。 不成就日と呼ばれる日があるのを彼は初めて知ったが、自分の誕生日がその日であるのを知り、何か自分の存在を否定されているような気持ちになったのではないだろうか。毎年そうかどうかは知らないが、妙に傷つきやすい恋人は、少なからず引っかかりを覚えたはずだ。だから、今になってそんなことを言うのだろう。 三井は少し顔を赤らめて目を逸らした。 「そんなこと、忘れてると思ったのによ」 「忘れるわけないじゃないですか。オレにとって、この日はいつまでも吉日ですからね」 「だーっ」 「いいえ、絶対忘れませんからね。今日もちゃんとお祝いするんです。プレゼントは後でいい?」 「うっせーよ! いらねーってば、おまえのくれるもんなんか」 「……オレだけでいいってことですか?」 急ぎ足で歩き始めた三井の背中に向けて仙道は言った。笑いをかみ殺そうとしても、自然に表情が緩んでしまう。 三井はとうとう駆けだした。 追いかけてつかまえて、背中から思い切り抱きしめたい衝動に駆られる。だが、それを何とかやりすごし、仙道はゆっくりと、見えてきた愛車へと歩を進めた。 何億何兆とある可能性の中から、今のこの現実が選りすぐられて形作られている。 オレの夢はね……、たぶん三井さんが生まれたその日に始まったんだ。だから。 Happy Birthday 三井さん。 |