「れんが」って何? |
煉瓦は粘土を天日や火で焼いて固めた建築資材です。一般的な分類では、れんがは、日干しレンガと焼成レンガに分かれます。焼成レンガには、普通レンガ(赤レンガ)や、耐火れんが、レンガタイル、敷きレンガなどいろいろなものがあります。ホームセンターなどで見かけるものには大きさが違ったものが並んでおりますが、日本では普通レンガのサイズが日本工業規格に定められております。標準型の寸法は210x100x60(単位mm)で面ごとに平(ひら)、長手(ながて)、小口(こぐち)と呼ばれており,このサイズはれんが職人が積む時に片手で持てて、作業しやすい寸法ということで決められたようです。写真のものはオーストラリアからの輸入品でサイズも230x115x50となっていて、やや大きめです。 |
サイズと呼び名 (普通れんが寸法 210X100X60 ) |
標準型のれんがを色々な大きさに加工することで、それぞれ名前がついてるんですよ。羊かんは、うまい名前をつけたものですね。はじめに名前をつけた人はいったいどんな人だったんでしょう? |
れんがの積み方 |
れんがの積み方は、組積法と呼ばれ、積み上げる時には目地が垂直に通らない様にして積みます。その壁面の特徴により、フランス積み、イギリス積み、オランダ積み、アメリカ積みなど10種類ほどに分けられます。また壁の厚さによって、半枚積み、一枚積み、一枚半積みなどとも呼ばれます。 |
れんがの目地 |
建物や工作物の仕上げを左右するものに、レンガの色、積み方と同じくらい影響するのが目地仕上げであります。この良し悪しが施工の良し悪しとも言えます。れんがの製造が手作業で行われていた頃のれんがは、形がゆがんでいたり、運搬の途中で欠けたりしていたそうです。そうした寸法の狂いを目地で調整しつつ、高さをそろえて積んでいくには高度の技術が必要とされました。このれんが積みを施工できる技術を持っていたのが、当時の漆喰を施工していた左官職人でした。れんが建築が盛んだった時期には、左官かられんが職人に転向する人も多数いたそうです。 また、外壁には化粧目地と呼ばれる様々な仕上げが行われました。外壁の総面積の20パーセントを占める目地の形状が、建物全体の印象や耐久性に大きな影響を及ぼします。それだけに職人の技術によるところが大きかったようです。 目地ってただ塗りつぶすだけと思っていましたが、こんなにたくさんの種類があったとは大きな驚きでした。それと共に素朴な疑問が湧いてきました。目地を詰めるときに、れんがと同じ面や、へこんだ目地ならば、素人でも施工の方法が想像つくのですが、れんがより飛び出た目地はどう施工するのでしょうかねぇ?不思議です。これからはれんがの建物を見るときは注意深く観察する事にしましょう。 |
れんがの色 |
江別市内のれんが建築物を見てると、その色が実に多彩です。一般に「赤れんが」と言われていますが、明るい赤、黒っぽい赤、茶色がかった赤、オレンジ色、肌色など様々です。れんがは砂と粘土で作られますが、この粘土に含まれる鉄分の量によって赤の色が微妙に変化します。また、れんがを焼く時の温度により色が変わります。温度が低ければ肌色になり、逆に高ければ黒っぽい赤に仕上がります。れんがのおもしろいところは、この色違いのれんがを組み合わせることで、デザインが楽しめる事にあると思います。 |
れんがの歴史・世界1 |
れんがの歴史は古く、紀元前の世界四代文明のころから使われております。エジプトではピラミッドの原型は日干しれんがで出来たマスタバ墳という台形の墓で、これが発展してわれわれのよく知るギザの三大ピラミッドへと変化していきます。 また、メソポタミア文明については、都市文明はれんがによって生み出されたとも言われてます。ここではれんがにワラを混ぜ込み、型につめそれを摂氏50℃に達する日ざしの中におくと、すぐに日干しレンガができあがります。焼きレンガは、燃料のとぼしい地域の為、貴重品で、宮殿や神殿の外壁に使われたそうです。イラク政府によって復元されているバビロンの遺跡は日干しれんがの街並みで知られております。なかには5階建もあったようです。 |
れんがの歴史・世界2 |
インダス文明においてもレンガが使われておりました。あいついで遺跡が発見されたモヘンジョ・ダロとハラッパーでは、道路や建造物に焼きレンガが使われておりました。モヘンジョ・ダロの市街地はいくつもの区画に分かれ、その区画ごとに家々がびっしりと建っており、道路はレンガで舗装され、家も焼きレンガで造られていたそうです。残念なのはハラッパーの遺跡です。発見当時は保護されていなかったので遺跡で発掘された焼きレンガは鉄道建設などのために使われ、遺跡の多くが破壊されてしまったそうです。でも、4000年以上も前の焼きレンガが現在でもリサイクルできるとは・・・・。 |
れんがの歴史・世界3 |
古代中国では紀元前1600年頃、二大大河である黄河、長江流域に中国最初の王朝 殷(いん)が発祥しておりました。この文明がやがて10王朝にも渡って全長6700キロの世界一の建造物「万里の長城」を完成させます。この城壁には強度の大きい焼成煉瓦が使われているそうです。中国ではこの焼成煉瓦を「セン」と呼び現在でも使われています。 今、この長城が崩壊の危機にさらされております。原因は天候と侵食による自然破壊それと長城の側に住む農民達による破壊です。長城のれんがが剥がされて家や羊の牧柵、豚小屋などに使われており、1キロに及ぶ長城が1年で消滅したところもあるようです。農民達のなかには、その建造物が何かを知らない農民もいたそうです。世界遺産の保護が急がれています・・・。 |
れんがの歴史・日本 |
日本で建築用のレンガがはじめて焼かれたのは1854年(安政四年)長崎の瓦屋だそうです。溶鉄所建設で使うレンガを作るために、オランダ人海軍将校ハルデスの指導のもとで焼かれました。このレンガは「ハルデス煉瓦」と呼ばれ現在のレンガに比べ厚さが2センチほど薄くできていました。初期の長崎産のレンガは厚みが薄く「こんにゃく煉瓦」と呼ばれています。 |
れんがの歴史・北海道 |
北海道の赤レンガ生産が始まったのは、明治5年(1872年)に上磯郡茂辺地村の茂辺地(もへじ)煉化石製造所においてであります。しかし、それ以前に赤煉瓦が製造された記録は残っており、日本ではじめて赤煉瓦製造された6年後の1860年ころにはすでに生産されていたと伝えられています。さらに耐火れんがについては1856年に尻岸内村で生産された事もわかっております。 |
れんがの歴史・江別 |
江別で始めて煉瓦が製造されたのは、明治24年(1891年)現江別市東光町で始まりました。明治維新後に北海道が開拓時代を迎えた頃の事です。当時の建築資材の主流が煉瓦事、開発の中心地・札幌に近いこと、地下に豊富な粘土層が埋蔵されていたなどの条件が整っていたので、煉瓦の一大生産地としての発展を遂げました。 |
木端(コバ)空間積み |
れんがの積み方には前述した積み方の他に、サイロなどに多く見られる組積法があります。空間積み・木端空間積みと言われるものです。れんがの木端をたてて2列に積み、壁中に空気層を設けることにより断熱の効果を得る工法です。現在の建築物に使われてるような断熱材がなかった頃はサイロ,牛舎や倉庫に使われていました。 |
塩焼きれんが |
原料は普通れんがと同じものですが焼成時に焚き口から食塩を投入します。これにより窯内に食塩蒸気を満たし、その作用で素地面にソーダガラス質の被覆面を生成させます。製品は黒味を帯びた色で堅いため防水性にすぐれ凍害にも強いレンガができます。市内では江別のNTT社屋に使用されております。この塩れんがは焼成窯が輪環窯時代の頃に造られていたようですが、塩素ガスが発生するなどの公害の問題や、また現在のトンネルキルンでは構造上の問題があり今は製造されていないそうです。 |
焼成窯(登り窯、輪環窯、トンネル窯) |
(登り窯) 自然の傾斜地や盛土した傾斜地を利用して焼成室をつなげたもので、前部から「焚口」「胴木間」「灰間」「第一焼成室」「第二焼成室」と続きます。胴木間で炙焚(あぶりだき)をして次第に上室に進んでいくので、火炎と廃熱が順次登ってゆき、熱効率のよい半連続式焼成窯となってます。火炎は各室の前部下端から出て天井に上り再び後部下端より狭間を通って次室に至ります。 また窯には片登り窯と両登り窯があります。ひとつの焼成室で約4千個の煉瓦を焼成でき、片のぼりで12個前後の焼成室をもっており1回で4万8千個のれんがが製造することができます。両のぼり窯はその2倍の製造が可能です。 (輪環窯) 大正時代になると主流は登り窯からホフマン式輪環窯に移ります。焼成帯移動形の窯で、窯詰めした各室に戸口と吸込み穴があって環状に並んでおり、天井から順次粉炭を投入して連続的に焼成していきます。赤煉瓦焼成用の窯で14室〜24室あり,各室の壁はありません。また輪環窯の大きな特徴は高い煙突にあり、その高さは百尺(30メートル)以上といわれております。書籍によると輪環窯の製造能力は米沢煉瓦株式会社当時のもので月産目標が50万個、年間で300万個だったそうです。 しかし輪環窯の全盛期は昭和30年前半までであって、その後はトンネル窯に変わっていきます。 (トンネル窯) 連続式焼成窯で最も進歩した窯。連結された台車に煉瓦などが積まれ、トンネルの中を1時間に2〜3メートルの早さで移動し。その間に焼成される仕組みになってます。トンネルの長さは80〜100メートル近くもあり、余熱帯、焼成帯、冷却帯に分かれています。また煉瓦を焼く時の廃熱を素地(焼成前の煉瓦)の乾燥に使える利点もあり、これにより冬期間でも煉瓦製造が可能になりました。 |
参考書籍 | 江別市セラミックアートセンター展示案内、世界四大文明ガイドブック ジュニア版、 古代エジプト展 永遠の美 、 日本れんが紀行(著者 喜田信代)、野幌窯業史(著者 松下亘)、江別れんがアラカルト、江別に生きる2 れんがと女(著者 藤倉徹夫)、やきもの辞典(平凡社) |